1.主の天使が夢に現れて
今朝与えられております御言葉は、イエス様がお生まれになり、東方の博士たちがイエス様を拝んだという出来事の後のことが記されています。幼子のイエス様を連れてヨセフがエジプトに逃げたこと、そしてヘロデ王が死んだ後ガリラヤ地方のナザレという町に戻ったことが記されております。何故イエス様がエジプトに逃げたのか。それはヘロデ王がイエス様を殺そうとしたからです。ヘロデ王は、自分こそがユダヤの王なのであって、自分に代わってユダヤ人の王となる者が生まれたということを断じて許すことが出来なかったのです。ですから、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子をすべて殺させるという、とんでもないことさえ行った。
マタイによる福音書は、このイエス様がエジプトに逃れたこと、そして再びイスラエルに戻り、ナザレの町に住んだこと、それは主の天使が夢に現れてヨセフに告げたことによるのだと記しています。つまり、この一連のことは神様の導きによって為されたことであると告げているわけです。13節「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている。』」とあり、19〜20節「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。』」とある通りです。更に、22節bには「ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。」とあります。
夢で神様の御心が告げられるということは、1章20節以下において、マリアと縁を切ろうとしていたヨセフに対し、「マリアの胎に宿っている子は聖霊によるのであって、恐れずマリアを迎え入れなさい。」というお告げもありました。また、東方の博士たちがイエス様を拝んだ後、博士たちに対し、2章12節「ヘロデのところへ帰るな。」というお告げも夢の中で為されております。実にこのマタイによる福音書の1章、2章において、夢の中で神様の御心が告げられたということが5回も繰り返し記されているわけです。このことは、神様の御心によってイエス様は誕生された、神様はイエス様によって救いの御業を遂行され、それを阻止しようとする一切の力を退けられたということを告げているのです。
2.神様との出会い:圧倒的な力と権威の前に立たされて
私共はここで、「夢で天使が告げた」ということにあまりこだわらなくて良いと思います。神様は夢の中で天使によって告げることもあれば、夢ではなくて御言葉を告げることもあるでしょうし、出来事をもって道を示すということもあるでしょう。神様は全能のお方なのですから、その御心を私共に示すのにどのようなあり方をも用いることがお出来になりますし、実際用いられるのです。ここでは、ヨセフや東方の博士たちに御心を告げるのに、夢の中でお告げになるというあり方を用いられたということなのです。大切なことは、夢の中であったかどうかではなく、天使が告げたかどうかということでもなく、明確に神様がその御心を示されたということです。
ここで、どうしてヨセフは、また東方の博士たちは、「夢の中のお告げ」に従うことが出来たのかという疑問を持つ方もおられるかもしれません。ヨセフは自分に身に覚えがないのに、婚約していたマリアのお腹が大きくなるそんな状況を、夢の中で天使に告げられたことを信じ、マリアをそしてそのお腹の子を受け入れた。どうしてそんなことが出来たのか。また、生まれたばかりのイエス様を連れてエジプトに逃げるということが出来たのか。エジプトにヨセフの親戚や友人がいたわけではありません。今の言葉で言うならば、彼らはエジプトに難民として行ったということでしょう。旅先で生まれたイエス様を連れて行くなら、ナザレに戻るのが自然です。しかし、彼らはエジプトへ行った。そしてヘロデが死ぬと、再び天使に告げられてナザレへと戻ったのです。どうして、ヨセフはこんなに大切な決断を、夢で告げられた天使の言葉に従うことによって出来たのか。
私共は、夢で見たり聞いたりしたことを本気にすることなど出来ない、そう思っているからヨセフの行動を不思議に感じるのでしょう。しかし、神様が御心を示す、神様が御業を為す、その時私共は、神様の圧倒的な力と権威の前に立たされるのです。それは、これが本当に神様の御心なのだろうかと疑問を抱く余地など無いものなのです。圧倒的な力と権威の前に、私共はただ従うしかない。そういう出来事です。これは聖なる体験とでも言うべきものです。そういうことなのです。「夢の中で」というあり方にとらわれる必要はありません。神様が御心をはっきり示される時、どのようなあり方であろうと、そこには疑問の余地が無いあり方で私共の上に臨まれる神様の力と権威が伴っているものなのです。先程お読みいたしました出エジプト記3章において、モーセに神様が現れ御心を告げられた時も同じです。イザヤやエレミヤが召命を受けた時もそうです。使徒たちが「わたしに従って来なさい。」とイエス様に告げられた時もそうです。聖なる神が、その力と権威をもって臨まれたのです。だから、彼らは神様の御言葉に従って献身したのです。
私共の教会は毎年、東京神学大学の神学生を夏期伝道実習生として迎えています。私が夏期伝生に尋ねることはいつもただ一つのことです。「あなたは神様に伝道者となるように召されましたか。」ということです。「牧師になりたいと思いました。」と答える神学生もいます。そうすると私は、「あなたの気持ちを聞いているのではありません。神様に召されたかどうかを聞いているのです。」と続けます。そこで口ごもる神学生もいます。神様に伝道者として召されるというということは、出来事なのです。私共の気持ちの問題ではないのです。圧倒的な力と権威の前で、伝道者となるようにと神様によって召されるという出来事があったのかどうかということなのです。これが無ければ、生涯説教壇に立ち続けることは出来るはずがないのです。これは、決定的に大切なことなのです。
3.旧約の成就@:新しい出エジプト
さて、イエス様は何故エジプトに行き、また戻られたのか。直接的には、ヘロデ王の手から逃れるためでした。しかし、それだけではありませんでした。これには「新しい出エジプト」という意味があったのです。それを示しているのが15節の言葉です。「ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」とあります。これはホセア書11章1節の引用です。つまり、預言者によって預言されていた新しい出エジプトが、イエス様によった為されるということなのです。モーセによって、奴隷の家から救い出されて神の民として歩み出したイスラエルです。神様の救いの御業、救いの出来事としての出エジプト。その神様の救いの御業が、今、イエス様によって全く新しいあり方で為されるということです。つまり、罪と死の奴隷であるすべての民を、イエス様が救われる。罪の赦しを与え、永遠の命を与えるという神様の救いの御業がイエス様によって為されるということです。新しい神の民、新しいイスラエル、キリストの教会が、この方によって造られるということです。あの出エジプトの出来事は、イエス様によって与えられる救いを指し示すものであったということなのです。イエス様がエジプトに行き、そして戻って来られるというこの出来事は、イエス様によって完遂される「新しい出エジプト」という神様の救いの出来事を示しているということなのです。
4.旧約の成就A:ナザレの人
また、23節に「ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」とあります。イエス様はエジプトからナザレに戻りましたが、それも預言の成就であった、つまり神様の御心であったと告げられています。ただこの「」でくくられている「彼はナザレの人と呼ばれる」という言葉は、旧約からの引用であるはずなのですが、これがどこからの引用なのかよく分からないのです。しかし、この「ナザレ」が若枝を意味する「ネツレ」に由来するという説があります。若枝と言えば、イザヤ書11章1〜2節「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」との預言です。つまり、「ナザレの人と呼ばれる」とは、「若枝と呼ばれる」「救い主と呼ばれる」ということを指していると考えられるのです。
この様に、イエス様の誕生からエジプト行き、そしてナザレに戻るという一連の出来事は、旧約において神様が預言していたこと、つまり長い神様の救いの御計画の成就であったと、マタイによる福音書は告げているのです。そして、その御計画を遂行するために、神様は「夢で天使が告げる」というあり方でヨセフを導かれたということなのです。
5.幼い子供たちの虐殺
ここで、どうしても触れておかなければならならいことがあります。それは、イエス様がエジプトに行き、ナザレに戻られることの間に、ヘロデ王によって幼い子供たちが虐殺されたということです。このことは、救い主であるイエス様が生まれるという喜びの出来事によって引き起こされました。イエス様が誕生されなければ、或いはイエス様の誕生がヘロデ王に知られさえしなければ起きなかったことです。どうして、神様はこんなことが起きるのを放って置かれるのか。そんな思いが湧いてくるでしょう。
しかし、はっきりしているのは、この出来事が神様によって引き起こされたとは、聖書は記していないということです。ヨセフや博士たちに夢で告げたように、ヘロデにも二歳以下の男の子を殺すようにとのお告げがあったわけではないのです。ヘロデはユダヤの王として、自分の地位、立場を脅かす者が生まれたということに我慢がならなかったのです。これを亡き者にしないではいられなかった。そして、幼児虐殺という暴挙に出たのです。何とむごいことを、何と酷いことを、と私共は思います。とても許されることではないと思います。しかし、これが現実なのです。権力者の横暴によって、弱い者、小さい者、幼い者が踏みつけられ、その果てに虐殺される。このようなことは今までの歴史の中で何度も起きたし、今でも起きていることです。自爆テロや学校に対する襲撃といった、現在中東で、或いはシリアで、ソマリアで、ナイジェリアで、パキスタンで起きていることを思い起こせば充分でしょう。イエス様は、そのような世界に来られたということなのです。クリスマスはロマンティックな昔話ではないのです。この悲惨な現実のただ中に、神様の救いが突入して来たということなのです。
17〜18節に「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから。』」とあります。ここで、預言者エレミヤが預言した通りのことが起きた、神様はこの幼子たちの虐殺をも知っておられた、そのようにここを読んでしまいそうです。しかし、そう読みますと、「だったらどうして止めさせないのか。」そんな思いを抱くかもしれません。しかし、そうではないのです。この18節にある旧約からの引用は、エレミヤ書31章15節の引用です。ここでラケルの嘆きが歌われているのですが、ラケルというのはヤコブの妻です。ラケルとレアから、正確には二人と二人の召使いから、12人の男の子が生まれ、それがイスラエルの十二部族となりました。つまり、ラケルはイスラエルの民の母なのです。そのイスラエルの母であるラケルが、息子がいなくなったと嘆く。それは、バビロン捕囚の故です。紀元前587年に南ユダ王国はバビロンによって滅びます。多くのユダの若者が死んでいった。あるいはバビロンに連れて行かれた。そのことを民族の母であるラケルの嘆きとして歌っているのです。
しかし、この言葉はエレミヤ書においてこう続くのです。31章16〜17節「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」つまり、このラケルの嘆きは嘆きのままで終わらない。涙がぬぐわれ、苦しみは報いられる。息子たちが帰って来る。未来には希望がある。それがエレミヤが告げたことだったのです。
更に、それはこう続いているのです。エレミヤ書31章31〜33節「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と記されています。つまり、新しい契約を結ぶ日が来るのです。この新しい契約こそ、主イエス・キリストによって与えられる救いの契約、イエス様の十字架によって与えられる契約です。つまり、この幼子たちの虐殺は、まことにヘロデという人間の持つ罪によってもたらされたものですけれど、この息子を失った嘆きの中にいる母さえも、罪の赦し・永遠の命を与えてくださるイエス様によって、その十字架による新しい契約によって、希望を持つことになるのだ。そういうことなのです。
6.闇の中に輝くまことの光
私共は、このヘロデ王による幼児虐殺という出来事を知らされます。そしてこのような悲惨が、今も世界の各地で起きていることも知っています。新聞を開くたびに暗澹たる思いになってしまう私共です。しかし聖書は、そのような現実のただ中にイエス様は生まれた。イエス様による救いの御業は、そのような悲惨を生む人間の罪の現実のただ中にあっても阻止されることはない。この悲惨な現実の中で嘆く母親たちにも希望を与え、涙をぬぐってくださる方、新しい契約を与えてくださる方として、イエス様は来られたと告げているのです。
私共は、クリスマスが夜の出来事であったことを忘れてはなりません。まことの光であるイエス様は、闇の中に来られたのです。その闇は、人間の罪が作り出す闇です。自分が王であって、自分に従わない者を認めず、亡き者にしても平気だという、罪の闇です。まことの王であるイエス様の前にひざまずこうとしない、罪の闇です。この闇は、今もこの世界を覆っています。私共もこの闇の中で嘆き、不安と恐れに支配されそうになってしまいます。しかし、イエス様は来られた。闇を照らすまことの光として来られた。この方と共にいるならば、私共は光の中を歩むことが出来るのです。自分を人生の主人としないで、イエス様を我が主、我が神と拝む時、私共の中に光が宿ります。明日に希望を持つことが出来るのです。皆さんの上に神様が御言葉をもって臨まれたなら、それに従ってまいりましょう。そうすれば、必ず道は開かれます。闇は光を消すことは出来ませんし、光が来れば、必ず闇は退くのですから。
[2016年1月24日]
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