富山鹿島町教会

礼拝説教

「イエス・キリストの系図」
ルツ記 4章11〜22節
マタイによる福音書 1章1〜17節

小堀 康彦牧師

1.始めに
 今日から、マタイによる福音書から御言葉を受けてまいります。今朝与えられております個所には、アブラハムから始まりますイエス様の系図が記されています。ひたすら人の名前が記されていて、この片仮名が続く個所が私の愛唱聖句ですと言う人はまず居ないでしょう。聖書通読をする時でも、1節を読んで17節に飛んでしまう。2節から16節は目ですっとなぞるだけで読まない。そのような扱いをしてしまう所ではないかと思います。確かに面白いと思わせる所ではありません。しかし、ここには大変重要なメッセージがいくつも詰まっているのです。以下4つの点について順に見てまいりたいと思います。

2.旧約無くして新約無し
 第一に、どうして新約聖書の冒頭がこのような系図で始まっているのかということです。新約聖書を構成しております27の文書は、書かれた順に並んでいるわけではありません。福音書よりもパウロの書いた手紙の方が古いですし、福音書の中でもマタイによる福音書が一番古いわけではありません。福音書の中で一番古いのはマルコによる福音書であるということは、現代では常識のようになっております。だったら、どうしてマタイによる福音書が新約聖書の冒頭に置かれるようになったのか。その理由は、この一番最初にあるイエス様の系図にあると考えられているのです。この何とも私共に読む気を失わせるような名前の羅列。これがあるから、マタイによる福音書は新約聖書の冒頭に置かれるようになった。それは、主イエス・キリストによってもたらされた救いは旧約以来の神様の救いの成就なのだ、そのことをこの系図は示しているからなのです。イエス様は、旧約に記されております神様の救いの御計画を実現するために来られた。旧約と全く関係の無い救いを与えるために来られたのではない。そのことをはっきり示しているのが、この系図なのです。新約聖書の冒頭に置かれるということは、旧約聖書のすぐ後に置かれるということです。旧約とイエス様との関係をしっかり示すためにこの系図があり、この系図が一番最初にあるから、マタイによる福音書は新約聖書の冒頭に置かれることになった。そう考えて良いのです。ですから、どうして新約聖書はこんな読みにくい、意味の良く分からない、イエス様の系図から始まるマタイによる福音書を最初に置いたのか。もっと宗教的な深遠な言葉で始まっている、例えばヨハネによる福音書を最初に置いた方が良かったのではないか。そう思うのは勝手ですけれど、キリストの教会はこのイエス様の系図が冒頭にあるマタイによる福音書を新約聖書の最初に置いた。それは、旧約から続く神様の救いの御業の成就としてイエス様の救いの御業を受け止めるという、イエス様による救いに対するキリスト教会の理解を明確に示す、そういう意図があったということなのです。「旧約無くして新約無し」なのです。
 第二次世界大戦中、ドイツにおいて「ドイツ的キリスト者」運動というものが起きました。ナチスによるゲルマン民族主義と結びついて反ユダヤ主義の立場をとり、旧約はユダヤ人の歴史だから要らない、旧約の代わりにゲルマン民族神話を用いるという荒唐無稽な主張をしました。しかし、これが当時は大変な力を持ったのです。日本においても、これの日本版と言うべき、日本的キリスト者というものが当時ありました。偏狭なナショナリズムに飲み込まれてしまったのです。たった70年前のことです。このことを私共は忘れてはならないでしょう。旧約無くして新約無しです。イエス様はアブラハムの子、ダビデの子としてお生まれになった。ユダヤ人としてお生まれになったのです。

3.アブラハムの子、ダビデの子
 第二に、この系図はイエス様が「アブラハムの子、ダビデの子」であることを示しています。1節は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と始まっています。アブラハムの子、ダビデの子とは、アブラハムの子孫、ダビデの子孫という意味です。
 まず、アブラハムの子ということですが、それはアブラハムの祝福、創世記12章3節にある「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」との神様の約束、イエス様はこれを受け継ぐ者であるということを示しております。アブラハムの祝福は、「地上のすべての氏族」に対するものです。このアブラハムに与えられた祝福の約束が、イエス様によって成就したということなのです。地上のすべての民が、イエス・キリストによって祝福を受けることになるということです。この祝福を受けるのはユダヤ人だけではない。地上にあるすべての民です。ですから、私共は今朝こうしてここに集い、アブラハムを選ばれた天地の造り主である神様に礼拝を捧げているのです。
 さて、イエス様はアブラハムの子であると同時に、ダビデの子であると告げられております。これも、ダビデに対して神様が約束されていたことが成就したということを示しています。その約束とは、サムエル記下7章16節にあります「あなた(=ダビデ)の家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」との約束です。このダビデに対しての約束は、預言者によっても繰り返し確認されてきました。例えばクリスマスに読まれるイザヤ書9章5〜6節「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。」これは代表的なメシア預言の箇所ですが、このようにやがてダビデの子孫としてメシアが生まれるということが預言されてきたのです。そして、その預言の成就としてイエス様はお生まれになった。この系図はそのことを示しているわけです。

4.罪人の歴史を貫く神の憐れみ
 第三に、この系図は罪人である人間の歴史と、それにもかかわらず注がれ続ける神様の憐れみを示しております。この系図は「アブラハムはイサクをもうけ」と始まっているのですが、私共はアブラハムがイサクをもうけた時のことを知っています。アブラハムもその妻であるサラも、自分たちに子が与えられるということを信じることが出来なかった。アブラハム99歳、サラ89歳の時に神様はアブラハムとサラの間に子を与えると言われたのですが、それを信じることが出来ず、アブラハムもサラも笑ったのです(創世記17章17節、18章12節)。そんな馬鹿なことあるはずがないと思った。神様の言葉を信じられなかった。しかし次の年、アブラハム100歳、サラ90歳の時に、イサクが与えられたのです。神様は人間の不信仰にもかかわらず、これを憐れみ、このイエス様に続く系図を守られたということです。
 それは、次の「イサクはヤコブを」にも示されています。イサクには、ヤコブとエサウの双子が与えられました。神様は「兄が弟に仕えるようになる」(創世記25章23節)と告げられましたけれど、イサクは兄のエサウにアブラハムの祝福を継がせようとします。一方、イサクの妻リベカは何とかして弟ヤコブに継がせようとして、イサクをだましてイサクがヤコブに祝福を与えるようにしたのです。その結果、ヤコブは家に居られなくなり、遠くリベカの出身地へ旅立ったのでした。
 また、「ヤコブはユダとその兄弟たちを」にもそれは示されています。ヤコブには12人の男の子が与えられます。しかしヤコブは、愛するラケルの子であるヨセフばかり溺愛し、他の息子たちの反感をヨセフに向けさせることになります。そして、10人の兄たちはヨセフをエジプトに売るということをしてしまうのです。売られたヨセフはエジプトで宰相になり、そのヨセフによってヤコブとその一族は激しい飢饉も乗り越えることが出来ました。兄弟をエジプトへ売るというとんでもない罪をヤコブの息子たちは犯しました。しかし、神様はそれを用いて、アブラハムの祝福の器としてのイスラエルを守られたのです。
 このことは、6節b以下の第二の段落においても、12節以下の第三の段落においても、はっきり示されております。ダビデの子はソロモンです。そして、ソロモンの息子レハブアムの時、イスラエルは北と南の二つの国に分裂してしまったのです。その一番の理由は、ソロモンが晩年、たくさんの女性をハレムに置き、700人の王妃と300人の側室を持ち、彼女たちのために多くの偶像を作ったから(列王記上11章)でした。この第二段落にある名前は、すべて南ユダ王国の王様の名前です。そして、その王様のほとんどは、「神様の目に悪とされることを行った。」と言われているのです。神様の前に罪を犯した、悪を行った王だったとは、偶像礼拝を行い、社会的に弱い人々を守らないということでした。南ユダ王国の王たちは神様の前に罪を犯し続けた。その結果、バビロン捕囚という神様の裁きを受けたのです。しかし、アブラハムの祝福の系図は途切れることはなかったのです。
 12節以下はバビロン捕囚以後ですが、この段落に記されている人の半分は、旧約聖書にも出て来ません。皆ダビデ王家の者でありましたが、落ちぶれてしまったのです。ヨセフは大工でした。ダビデ王家の面影はもうどこにもなかったでしょう。しかし、アブラハムの祝福、ダビデへの約束は、神様の御手の中で途切れることはなかったのです。そして遂に、メシアであるイエス様の誕生となるのです。
 この名前の羅列にしか見えない中に、一人一人の人生があるのです。アブラハムからイエス様まで2000年程あるでしょうか。その間、ここに記された一人一人の人生があり、それは決して神様の御前に正しく清い歩みではなかった。しかし、神様はその一人一人を用いて、アブラハムに約束した祝福、ダビデに約束した救いを、決して反故にされることはなかったのです。この気が遠くなる程の忍耐の末に、神様は遂にイエス様を与えられたということです。

5.すべての罪人に開かれた救い
 第四に、この系図には異邦人をも含めて、すべての人を救わんとする神様の御心、イエス様による救いの広さ、徹底性というものも示されています。そのことは、ここに4人だけ記されている女性の名前に表れております。この系図には、アブラハムの妻サラの名前も、イサクの妻リベカの名前もありません。しかし、3節にタマル、5節にラハブ、ルツ、6節にウリヤの妻という4人が記されています。今この4人について丁寧にお話しする時間はありませんけれど、皆、旧約聖書において何をした人であるかが記されている人ばかりです。
 最初のタマルですが、彼女はユダの長男エルの妻でした。しかし、エルはタマルとの間に子をもうけることなく死にます。当時、子をもうけずに夫が死にますと、夫の兄弟が妻として迎えることになっていました。これをレビラート婚と言います。タマルはエルの弟であるオナンの妻となりましたが、オナンも子をもうけることなく死んでしまいます。タマルは次の弟シェラの妻となるはずでしたが、ユダがシェラまで死んではいけないと思って、シェラの妻にはしませんでした。そこでタマルは、何と遊女のふりをしてユダに近づき、ユダの子をもうけたのです(創世記38章)。これは、ユダヤにおいても忌み嫌われていた近親相姦です。
 次のラハブですが、彼女はヨシュアがエリコの町を占領する時に、エリコに住んでいた遊女です。ヨシュアがエリコに斥候を送り込んだ際、この斥候をかくまい、そのことによって滅ぼされなかった女性です(ヨシュア記2章)。
 三番目のルツは、ルツ記にあるように大変立派な女性です。以前、教会学校の子どもたちと遊んだ「聖書カルタ」というものがありました。その中で「る…ルツはかしこいおよめさん」とありました。ルツは夫を亡くし、生活が困窮する中でそれでも姑のナオミを支え続けた、まことに見上げた女性です。しかし、彼女はモアブの女性でした。イスラエル人ではなかったのです。
 最後のウリヤの妻、つまりバト・シェバですが、彼女はヘト人ウリヤの妻でした。ここでバト・シェバと言わず、「ウリヤの妻」という書き方がされています。ウリヤの妻はウリヤの子を産むのが普通です。しかし、ダビデの子を産んだ。この書き方の中に、はっきりとダビデとの間に為された不倫が告げられているのです。バト・シェバはダビデに見初められ、子を宿してしまいます。そしてダビデ王は、夫のウリヤを激しい戦闘の最前線に送り、戦死させます(サムエル記下11章)。謀略による合法的な殺人です。この時の子は死にますが、その後でダビデとの間に生まれたのがソロモンです。
 このように、この4人の女性は近親相姦、遊女、異邦人、不倫といった、旧約においては救われるはずもない人々だったのです。しかし聖書は、わざわざこの4人の名前を挙げているのです。聖書は、イエス様の系図を美しく飾ろうなどとは少しも考えていないのです。それどころかこのような、旧約においてはとても救われるとは考えられない人々、つまり異邦人であり、性的罪を犯した人々、そのような者の子孫としてイエス様は生まれたと告げるのです。
 どうしてでしょうか。それは、イエス様の救いは異邦人、遊女、近親相姦、不倫といった罪人に向かって開かれている。そのことをこの系図によって示そうとしているということなのです。この罪人の系図を担って、イエス様は来られた。罪人のただ中に来られた。それは罪人を赦し、神様の子としての救いに与らせるためでした。私共はこの方によって救いに与ったのです。
 私共にもそれぞれ家系図というものがあるかもしれません。その家系図は、自らが誇るために用いられることになるのでしょうが、イエス様のこの系図は、私共が持っている家系に対する誇りなどというものが、何の意味も無いということを示しているのでしょう。私共の誇りは血筋や家系にあるのではありません。私共の誇りは、ただ私共を神の子としてくださったイエス様にあります。このイエス様を我が主、我が神と崇め、愛し、誇りとし、従ってゆきたい。そう心から願うのであります。

[2016年1月17日]

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