1.マルコによる福音書の連続講解を終わるに当たって
今朝与えられた御言葉で、2013年9月から始まりましたマルコによる福音書の連続講解が終わります。二年半ほどかかりました。一つの連続講解が終わりますといつも、その書から離れ難いと申しますか、もっと語るべきことがあったのではないか、あの個所をもう一度語り直したい、そんな思いに駆られます。この教会において、また私の牧師としての歩みにおいても、マルコによる福音書をこのように何年もかけて語り継ぐということは、もう無いのではないかと思います。そう思うと、いよいよ離れがたい思いがいたします。この福音書を読み進めながらいつも思わされておりましたことは、イエス様が十字架にお架かりになり復活されてから数十年後に記されたこの福音書の中には、イエス様の言葉を聞きイエス様の業を見た弟子たちの、イエス様に対する信仰が息づいているということでした。そして、その弟子たちの信仰が、この福音書から御言葉を聞こうとする私共に新しく注がれるということでした。
マルコによる福音書を読み進めていく中で、12名の方が洗礼を受けました。この福音書が告げる福音、この福音書を記した教会の信仰が、その人たちに確かに受け継がれた。そう思うのです。そして、そのことこそが、この福音書に記されたイエス・キリストというお方が今も生きて働いておられる、そのことの確かな「しるし」なのでしょう。イエス・キリストというお方は、たしかに二千年前にユダヤにおいてこの地上での歩みをなさいました。そしてその業には力があり、その言葉は知恵に満ちておられました。神の御子としての力であり、言葉でした。そしてその言葉と業は、時代を超えて、場所を超えて、現代の私共に語りかけ、働きかけ、出来事を起こします。イエス様は今も生きて働いてくださっている。それが、この福音書を記した人、この福音書を記した教会の信仰です。そして、私共が受け継いでいる信仰なのです。
2.何故、主イエスまで記すのか
この福音書の「結び 一」の最後の所は、復活されたイエス様が天に上げられたことが告げられています。19節「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」イエス様は天に上げられた。これは、ルカによる福音書の最後の所、また使徒言行録の最初の所で語られていることと重なります。この福音書の結びは、イエス様が十字架にお架かりになったことが終わりではなく、復活されたことが終わりなのでもない。そうではなくて、その後、天に上げられた。そこまで記さなければこの福音書の結びにならない。この「結び 一」を後で書き加えた人、教会はそう考えたのです。どうしてでしょう。それは、この天に上げられたイエス様こそ、今、自分たちと共にいてくださっているお方だからです。この「結び 一」を書いた人は、イエス様は今自分と共に生きてくださっている、その信仰に生きていた。だから、このイエス様の昇天という出来事を記さないではいられなかったのでしょう。この福音書の最後の所を記した人は、この地上を歩まれた時のイエス様と出会ってはいません。イエス様と共に歩んだ弟子たちの証言を聞いたのです。しかし、これを記した人にとって、イエス様は過去の人ではなかったのです。今、自分たちと共にいてくださっているお方であり、すべてを支配し、導いておられるお方だったからです。
ここでイエス様のことを、「主イエス」と記しています。四つの福音書において「主イエス」という言い方は、ここにしかないのです。20節にも「主」とあります。この「結び 一」を記した人にとって、教会にとって、何よりもイエス様は「主」だったのです。「主」とは、自分の人生の主人ということであり、自分のすべてを捧げるお方ということであり、自分の日々の歩みを守り、支え、導いておられるお方ということです。「主」であるイエス様が、過去の方であるわけがないのです。「主」は、今、私と共に生きて働いてくださっているお方以外ないのです。そのことが、この最後の所にはっきり示されています。
3.復活された主イエスは、弟子たちに神の国について話された
19節「主イエスは、弟子たちに話した後」とありますが、使徒言行録には、イエス様は復活された後、「四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使徒言行録1章3節)と記されています。ですから、ここにはイエス様が「弟子たちに話した」と記されているだけですが、その弟子たちに話されたことは「神の国について」であったということです。このマルコによる福音書1章14~15節に「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』と言われた。」とありますように、イエス様が人々に宣べ伝えたことは神の国の福音でした。つまり、「神の国が近づいた。神の国はもうここで始まっている。神様の救いがここにもう備えられている。だから、悔い改めて福音を信じなさい。この地上の歩みがすべてではない。神様の御心が現れる。神様の御支配、神様の救いがもうここに始まっている。そのことを信じて、新しく生き始めなさい。わたしと共に、わたしに従って、わたしの救いに与って、生き直しなさい。」そういうことでした。そして、復活されたイエス様が弟子たちに四十日にわたって語られ、教えられたことは、「神の国はもう始まっている。そして、イエス様が再び来られる時に完成する。その日を待ち望みつつ、その日に向かって、もう既に救われた者として生きなさい。もう神の国は始まっている。救いは備えられている。この恵みの福音を伝えていくように。」ということでした。
このことはとても大切なことです。弟子たちは、イエス様の十字架によって自分が救われたとは思わなかった。十字架は弟子たちにとって、「もう終わりだ。」ということでしかなかった。しかし、イエス様が復活され、その御姿を現され、更に四十日にわたって神の国について教えられた。そのことによって弟子たちは、イエス様の十字架の意味と、ただ信仰によって救われるという福音をはっきりと教えていただいた。そして、それを信じ、それを伝える者として立てられたのです。
4.主イエスは天に昇り、神の右の座に着かれました
それからイエス様は天に上げられ、神の右の座に着かれました。天とはどこか。神様がおられる所です。地上何百メートルということではありません。これは時間も空間も超えた所です。私共が生きているすべての場所の上に、天は広がっています。私共が喜びの日々を歩んでいるときにも、その上には天が広がっています。私共が嘆きの日々を歩んでいるときも、病室で痛みに耐えながら夜を過ごしているときにも、その上には天が広がっています。そして、神様はそこにおられて、すべてを御覧になり、すべてを支配しておられるのです。イエス様は、その天地を造られた唯一人の神様の、右の座に着かれました。これは、父なる神様と同じ権威、同じ力をもって、地に生きる私共のすべてを御覧になり、支配される方になられたということです。イエス様がクリスマスに人の子として生まれ、地上の歩みをされていた時、イエス様はまことの人となられたわけですから、時間も空間も超えた方ではありませんでした。ユダヤにいながら、この日本にもいるということにはならなかった。しかし、天に上げられることによって、時間も空間も超えた方として、地上のすべての人の歩みの上におられる方になられたのです。それは地上にいる弟子たちと、キリストの教会と、遠く離れてしまったということではありません。そうではなくて、天に上げられることによって、イエス様はすべての時代、すべての場所において、弟子たちと共にいてくださる方となったということなのです。
それが20節において記されていることです。20節「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」とあります。弟子たちは、イエス様の「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(15節)との御命令に従って、イエス様の福音を宣べ伝えたのです。この福音書が記された時、既にイエス様の福音はローマ帝国中に広まっていたと思います。その営みはとどまることなく、二千年後の現在にまで続いています。
そして、天に上げられたイエス様は、その伝道する弟子たちと共におられ、その歩みのすべてを導き続けておられるのです。「主は彼らと共に働き」とあります。天に上げられたイエス様は、父なる神様の霊であり、イエス様の霊である聖霊を注いで、弟子たちと共に働いてくださったし、今も働いてくださっているのです。弟子たちに語る言葉を与え、その言葉が真実であることを証しし、そのために「しるし」をもあたえてくださるのです。
5.「しるし」1.
先週の説教の中でこの「しるし」について、伝道者は誰でもこの「しるし」としての出来事に何度も出会ったことがあると申しました。そのような経験がない伝道者は一人もいないと申し上げました。それは、イエス様が生きて働いてくださっていることの確かな「しるし」としての出来事です。そのことによって、伝道者の語る言葉が真実であるということが証しされるような出来事です。今そのいくつかをお話ししたいと思います。
私が初めて伝道者として遣わされた時のことです。一人の信徒の方が脳梗塞で意識がなくなり、入院しました。その方は高齢で、既に礼拝には来ることが出来ない方でした。私がそれまでその方とお会いしたのは、私が家に訪ねていった一回だけでした。私はその方が入院されてから、毎日病室に行きました。枕元で聖書を読み、讃美歌を歌い、祈りました。15分か20分ですが、毎日通いました。もちろん、何の反応もありません。けれど、20日ほど経った時、突然その方の意識が戻りました。そして、私に向かって「先生」と言ったのです。高齢になり、世話をしていた長男の奥さんのことももう分からなくなっていた方です。でも、私に「先生、ありがとう。」とはっきり言ったのです。その方は、それからしばらくして天に召されました。
「しるし」2.
こんな事もありました。ある婦人の信徒の方が高齢者の施設に入っていました。身寄りはありませんでした。そして、何も食べなくなって市民病院に入院しました。食べられなくなったのではなくて、食べなくなったのです。そして、担当のお医者さんから「医療として出来ることは何もありません。体はどこも悪くないのです。教会として何とかして欲しい。」という連絡が来たのです。このような連絡が病院から来たのはこの時だけです。私が病室に行くと、ベッドに横たわっている痩せこけた婦人がおりました。「何か食べたいものはありますか。」と聞くと、「ぼた餅」と答えました。私はぼた餅を一個買って、毎日病室に行きました。もう口から食べることを長くしていなかったのですが、ほんの一口、ぼた餅を口に入れました。毎日ぼた餅を持って病室に通いました。すると、一口が二口になり、二週間ほどすると一個食べるようになったのです。それに伴い、病院の食事も食べるようになり、一ヶ月ほどで退院することになりました。お医者さんも驚いていました。
神様はあなたを愛している。あなたの代わりに独り子を十字架にお架けになるほどに、あなたを愛している。あなたの罪はすべて赦された。あなたは神の子とされている。神様を「父よ」と呼ぶことが出来る者とされている。そのことを、私は語ってきました。その言葉が真実であることを、これらの出来事は私に、そして教会の一人一人に改めて教えてくれました。
「しるし」3.
こんな事もありました。幼稚園の父母の会でいつものように聖書の話をしました。すると、一人の婦人が突然止めどなく涙をあふれさせたのです。私はそんな感動的なことを言った覚えがないので、その婦人の涙にうろたえてしまいました。私が話したのは、「子供は神様が与えてくださったもので、親が作ったものではない。だから子どもを堕ろすなんてことはしてはいけない。」そういう話でした。その婦人には既に三人の子どもがおり、四人目がお腹に宿り、これは堕ろそう、そう思っていたそうなのです。ところが、父母の会に出たら、牧師が堕ろしてはいけないと言う。この婦人は、神様が自分のしようとしていることを知って止めたのだと思った。神の言葉を聞いたのです。その子は堕ろされることなく無事に生まれました。そして、この婦人も洗礼を受けました。
「しるし」4.
こんな事もありました。ある長老の奥さんが80歳を越えて教会に来るようになりました。長老はもう20年以上前に天に召されていました。その夫婦には子どもがなく、養女の方に養子を迎え、その方々が家を継いでいました。その養女、養子の方も教会員でした。この老婦人は、自分は死んだらキリスト教で葬式をされることになるのだろう。だったら、ちゃんとしたキリスト者になって、葬式を出してもらう。それが教会に来た理由でした。その人の祈りは、寝たきりにならないようにということでした。寝たきりになれば、仲の悪い養女の世話にならなければならない。それだけは金輪際お断り。そういう人でした。しかし、洗礼を受けた数年後に脳梗塞で寝たきりになってしまいました。お見舞いに行くと、最初の頃は「神様は祈りを聞いてくれない」と文句を言っていました。この養女の方が本当によくお世話をされました。食事から下の世話まで、最後まで自宅で看取られました。この老婦人はだんだん認知症になって行かれました。そして、この養女の方に、「済まないね。私は年をとってボケてしまって、あんたを産んだ時のことを思い出せないんだよ。」と言うようになったのです。養女の方が、嬉しそうに話してくれました。この婦人は養女の方とは同じ家に住みながら、40年以上仲良くすることが出来なかった方でした。しかし神様は、本当の親子になるという、和解の出来事を与えてくださったのです。これもまた、「神は愛です。神様と和解した者は、この地上にあっても和解が与えられる。」と語ってきたことが真実であることを示す、確かな「しるし」でした。
このような話をし出せば、いくらでもある。教会に生きるということは、このような様々な「しるし」の証人になるということです。神様が、イエス様が、生きて働いてくださっている、その確かな「しるし」を見させられ続ける。それが、このマルコによる福音書の「結び 一」を記した人が経験したことだったのです。そしてそれは、いつの時代でも、どの国、どの民族でも同じです。天におられるイエス様が、時代を超え国を超えて、イエス様を信じる者と共にいてくださり、生きて働いてくださっているからです。
皆さんは、天地を造られた神様に愛されているのです。その独り子を十字架にお架けになるほどに、私共は愛されているのです。これは本当のことです。だから大丈夫なのです。イエス様を愛し、イエス様を信頼し、イエス様に従っていくならば、必ず御国へと、救いの完成へと、私共は導かれていくのです。主は生きておられるのですから。大丈夫。安心してください。
[2016年1月10日]
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