富山鹿島町教会

礼拝説教

「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい」
ヨナ書 4章10~11節
マルコによる福音書 16章14~18節

小堀 康彦牧師

1.新年を迎えて
 2016年最初の主の日を迎えております。今年最初に私共に与えられております御言葉は、復活されたイエス様が十一人の弟子たちに、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と命じられた所です。この復活されたイエス様の御命令は、伝道への大号令とでも言うべきもので、二千年の間キリストの教会に向けて、すべてのキリスト者に向けて告げられているものです。2016年の最初にこの御言葉が与えられたことを、私共は心から喜び、感謝したいと思います。2016年がこの御言葉に押し出され、私共が生きるすべての場において、この御言葉に従ってゆく、福音を宣べ伝えて行く年でありたい。そう心から願うものです。

2.イエス様にとがめられる者
 さて、この御言葉はマルコによる福音書の「結び 一」という見出しの中にあるわけですが、この「結び 一」というのは、元々のマルコによる福音書にはなかった、後から書き加えたものであると考えられているということは前回も申し上げました。しかし、勝手に誰かが書き加えたというようなものではなくて、マタイ・ルカ・ヨハネといった他の福音書、或いは使徒言行録にあるイエス様の復活の記事を参照して記されたと考えられております。
 今朝与えられております所もそうです。十一人の弟子たちが食事をしているところに復活されたイエス様が現れる。これはルカによる福音書を思い起こさせます。そしてこの時、イエス様は十一人の弟子たちをお咎めになった。何を咎められたかと申しますと、イエス様が復活されたという報告を聞きながら、それを信じなかったからです。前回見ましたように、復活のイエス様は、マグダラのマリアに最初に現れます。これはマタイとヨハネが報告していることと重なります。そして、田舎の方へ歩いて行く途中の二人の弟子にも現れます。これはルカによる福音書による、エマオ途上の二人にイエス様が現れた報告と重なります。彼らは、使徒と呼ばれる十一人の弟子たちにそのことを報告しましたが、彼らはそれを信じなかった。そのことをイエス様は、何と不信仰なのか、何と心がかたくななのかとお咎めになったのです。
 しかし、イエス様の復活という出来事は、その報告を聞いてすぐに信じられるようなことではないのです。私共もそうでしたけれど、十一人の弟子たちにしてもそうだったのです。イエス様はその不信仰と心のかたくなさをお咎めになりましたけれど、このイエス様のお咎めを免れることが出来る人はいないでしょう。イエス様の御復活をにわかには信じることが出来なかったということにおいては、私共はすべて「不信仰で心のかたくなな者」なのです。使徒たちを始め、代々のキリスト者は皆、例外なく不信仰で心のかたくなな者なのです。しかし、そのような不信仰で心のかたくなな者に、復活されたイエス様はその御姿を現されて、信じる者に変えてくださるのです。そしてこの信じない者が信じる者に変えられて、その者たちに世界伝道への御命令が与えられたのです。この復活のイエス様による世界伝道への大号令は、マタイによる福音書が記すことと重なります。信じない者が信じる者に変えられると、即、伝道への御命令が下った。このことは、伝道というものは、そのための専門家によって為されることではないということでありましょう。信じる者へと変えられた者、つまりすべてのキリスト者に与えられた使命だということです。

3.全世界に行って
 この復活されたイエス様の御命令ですが、「全世界に行って」とイエス様は告げられました。この「全世界に行って」というのは、まさに文字通り、全世界へということでしょう。この御命令によって、イエス様の福音はこの日本にまで伝えられて来たのです。代々の教会が、代々のキリスト者たちが、この言葉をまともに、このイエス様の御命令を本気で受け止めたから、キリスト教は全世界に広がったのです。そして、今も広がり続けているのです。
 現在、宣教師を一番多く世界中に送り出している国は、アメリカです。二番目は韓国です。この富山の聖公会、バプテスト教会にも韓国からの宣教師の方が来られて伝道されています。韓国にキリスト教が伝えられましたのは日本とほとんど同じ時期なのですけれど、残念ながら日本の教会はまだ、このイエス様の御命令を自分に向けられた言葉として十分に受け止めることが出来ないでいる所があるのではないかと思います。私共の伝道の視野はとても狭いのです。伝道と言えば自分の教会の伝道、この富山市における伝道くらいしかイメージすることが出来ない。とても世界伝道などということを自分のこととして考えることが出来ない。世界伝道の責任を担う、その志がはなはだ弱い。それは正直に認めざるを得ないでありましょう。しかし、復活のイエス様に出会い、イエス様を信じ、その救いに与った者として、この世界伝道への志を聖霊なる神様によって新たにされたい。そう願うのです。
 しかしそのためには、まず私共自身の日々の歩みが、いつでもどこでもキリスト者である。いつでもどこでも福音の喜びに生きている、神様との交わりの中に生きている。そういうことでなければならないのでありましょう。「全世界に行って」とは、何も海外宣教だけを意味しているわけではないからです。私の隣り人に向かって。これもイエス様が告げられた「全世界」に含まれているということは、もちろん言うまでもないことだからです。

4.いつでも、どこでもキリスト者
 私は20歳のクリスマスに洗礼を受け、大学生として生活する中で、洗礼を受けた次の4月から毎週2回の聖書研究会を、大学の中で数人の者たちと昼休みに開くことになりました。洗礼を受けて4ヶ月後です。キリスト教教理もよく弁えていない中、何冊かの注解書を読み、準備しました。参加人数は多くはありませんでしたけれど、とても楽しいものでした。ある時、他の学部にキリスト者の学生がいると聞いて、「一緒に学内伝道をしよう。」と誘ったことがあります。彼にはすぐに断られました。彼はこう言うのです。「僕は大学には勉強しに来ているのであって、伝道しに来ているわけではない。だから君と一緒に伝道は出来ない。」私はこの答えの意味が全く分かりませんでした。私も大学には勉強しに来ている。あまり熱心ではないけれど、授業にはちゃんと出ている。友人と一緒に遊びにも行く。でも、自分が生きているすべての場が伝道の場なのではないか。自分がキリスト者として生きるということと、学生として生きる、会社員として生きる、家庭人として生きる、それをどう区別することが出来るのか、私には分からなかったのです。そして、キリスト者として生きる以上、伝道するということと分けることは出来ないと思うのです。伝道者になって30年経ちますが、この時に言われた言葉の意味は、今も分かりません。もっとはっきり言えば、あの答えは間違っていると確信を持って言えます。
 こんなこともありました。夏休みに二ヶ月住み込みで、ホテルとは言えない、山小屋と言いますか、そういう所で合宿に来る学生の食事を作ったり、清掃をしたりというアルバイトをしました。仕事が終わり、夜にはフロントで聖書を読んでいました。すると、合宿に来ていた学生が、「君、クリスチャンなの。」と聞いてきました。「そうだ。」と答えますと、一緒に来ている中にもキリスト者がいると言うのです。「今、連れて来る。」と言って、二人の学生を連れて来てくれました。そして、その二人の学生と一緒に祈りを合わせました。その二人のうちの一人がFさんでした。それから20年程して、お互いに牧師になってから学生時代の話をしていた時に、あの時一緒に祈ったのがあなただったのかと気付いたのです。
 学校祭では、今思うと恥ずかしいような内容でしたが、聖書研究の発表もしました。この学生伝道において、多くの実りがあったわけではありません。しかし、学生として生きるということとキリスト者として生きるということを分けられないものとして過ごした日々は、とても大切な、キリスト者としての基本的なあり方を身に付けさせられた時だったと思っています。  私共は信じない者であったのに信じる者に変えられた。ということは、この復活のイエス様の御命令を与えられて生かされている者なのでありましょう。社会人として、家庭人として、このことをきちんと受け止めたいと思うのです。

5.信じない者を招く
 さて、16節のイエス様の言葉は注意して読まなければなりません。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」ここだけを取り出して読みますと、ドキッとするような言葉です。これを「信じて洗礼を受けキリスト者となった私共は救われるけれども、信じない人は滅びるのだ。イエス様がそう言っている。」そのように自分たちを救われる側に置いて、まだイエス様と出会っていない人々を滅びる側に置き、信じていない人を滅びる者として見下すというのは、このイエス様の言葉を全く間違って受け取っています。イエス様は、そのようなことを言いたいのではないのです。そもそも、使徒たちを始め、私共は皆、信じない者だったのです。信じない者であった私共、そのままでは滅びの宣告を受けるしかなかった私共です。それが今は、信じて洗礼を受け、救いに与る者とされている。何という恵み。何とありがたいことか。そのようにこの御言葉は受け取らなければならないのでしょう。
 そしてその上で、イエス様が自分のために自分に代わって十字架にお架かりになってくださり、復活してくださり、神様との親しい交わり、永遠の命への道が開かれた。これを受け取らなければ滅んでしまう。そのことをも真剣に受け止め、それ故にこの救いへと人々を招いていかねばならないということなのです。
 しかし、どう招いていけば良いのか。イエス様なんていなくても何の問題もない。仕事があり、経済的に恵まれ、健康であり、家族が仲良くやって行ければそれで十分だ。それ以上、何を求めるというのか。多くの人はそのように思っているのでしょう。家内安全、商売繁盛、それで十分。そう思っている。この初詣の時期になると、改めてそのことを思わされるのです。十日前のクリスマスには、多くの人がこの教会に集いました。しかし、その一週間後には、目の前の護国神社にその千倍もの人たちが初詣に来るのです。そして、家内安全、商売繁盛を願う。その人々に向かって、「いや、それだけでは滅んでしまう。」と言っても、なかなか通じない。その通りでしょう。どう語り、どう伝えるのか。これは本当に難しい問題です。

6.愛を伝える
 先程ヨナ書をお読みいたしました。ヨナは、ニネベの町に悔い改めを求める神様の御心を告げる者として遣わされました。しかし、彼はこの神様の召しを拒否し、逃げたのです。それはニネベという町が、イスラエルを圧迫しているアッシリア帝国の都だったからです。ニネベなど滅んでしまえば良い。それがヨナの本心だったでしょう。しかし、神様はそうではないのです。たとえ異邦人であろうと、神様に敵対している者であろうと、自らの犯している罪に気付かないような者であろうと、これを滅ぼすことは苦しく、悲しく、心痛められるのです。ヨナ書4章11節において、神様は右も左も弁えないニネベの人々が滅びるのを惜しまずにいられようかと告げられました。この神様の御心が具体的な出来事として現れたのが、主イエス・キリストなのです。
 実に独り子イエス様を十字架にお架けになるほどの愛をもって、神様は私共一人一人を愛してくださっているのです。私共が伝えなければならない福音とは、そのことなのです。神様はあなたを愛してくださっている。神様はあなたのことを忘れてもいないし、放って置かれることも決してない。あなたのために必ず道を開いてくださり、導いてくださる。そのことを私共自身が信じて、目の前にいる一人の人に伝えていくのです。伝道はこの神様の愛を伝えるのですから、上から言うようなことでは決して伝えることが出来ません。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」と、上から目線で告げたところで、神様の愛は決して伝わることはないのです。福音は神様の愛であります。この愛を伝えるというのは、ただ言葉だけで伝えることは出来ないのです。神の愛を伝える伝道は、伝える者が伝える相手の人をまず愛さなくては伝えようがない。そういうことではないかと思うのです。

7.しるしと共に
 そのことが17~18節で告げられていることではないかと思います。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」信じる者は福音を宣べ伝える。神様の愛を伝える。そこで「しるし」というものが神様によって与えられるというのです。  この「しるし」は、ここでは「悪霊を追い出す」「新しい言葉を語る」「毒によっても害を受けず」「病人を癒やす」という4つのことが告げられております。この一つ一つを超自然的な現象と受け取ることも出来ます。実際にこういうこともあるのでしょう。確かに、ここで告げられたことは、使徒言行録に記されているように、使徒たちによって、教会によって為されたことでもありました。
 ただこれは、すべてのキリスト者がいつでもどこでも行えるということでもありません。しかし、このことは形を変えながら、キリストの教会においていつも担われてきたことだったということは覚えておいて良いでしょう。それは、教育・医療・福祉という分野において、キリストの教会はこの「しるし」となる働きを担ってきたということです。日本に宣教師が福音を伝えた時、この教育・医療・福祉というものと一緒に来たのです。宣教師たちは聖書を翻訳し、伝道し、教会を建てました。しかし、それだけではなかったのです。学校を建て、幼稚園を建て、女性たちが生活していく職業訓練の施設を建て、そして病院を建てたのです。私共はこのことをしっかり受け継がなければならないと思います。神様の愛の言葉は、愛の業と一つになって、説得力のある言葉として伝えられてきたのです。「しるし」は福音そのものではありません。しかし、福音を信じ、福音に生きる者には「しるしが伴う」とイエス様は告げられた。それは、福音を伝える者の言葉がより力強く、説得力を持つことが出来るように、イエス様御自身が「しるし」を与えてくださるということなのでしょう。私共はそのことを信じて良いのです。
 この「しるし」は、確かに神様は生きて働いてくださっているということを、イエス様が出来事をもって示してくださるということです。「しるし」というものは、伝道していく中で必ず与えられるものなのです。そのことは、すべての伝道者が経験していることです。もちろん、私が祈ればどんな病気も癒やすことが出来る、そんなことではありません。しかし、伝道していくと、どうしてこんなことがと思うような出来事に必ず出会うのです。何度も何度も経験するのです。これは本当のことです。そして、その「しるし」の出来事を語るということが「証し」をするということなのでしょう。私共が伝道に励んでいく中で、必ず「しるし」が与えられ、主が生きておられるということを私共がいよいよ確かに受け止めることが出来ると共に、力ある言葉も与えられていくのでしょう。「しるし」が与えられたから伝道するのではありません。伝道していく中で「しるし」が与えられるのです。
 私共はこの2016年の歩みが、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」との復活のイエス様の言葉に、いよいよ従っていくものでありたい。そう心から願うのです。

[2016年1月3日]

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