1.神様の救いの連続性の中で
アドベント第二の主の日を迎えています。今年のアドベントの主の日の礼拝において、私共はイザヤの預言から御言葉を受けています。それは、イエス様の御誕生、クリスマスの出来事が、神様の長い救いの歴史の中で与えられたものであることを改めて受け取るためです。私共は、クリスマスの出来事と言えば、マリアの受胎告知から始まって、イエス様の誕生と飼い葉桶に寝かされるイエス様、そして羊飼いたちに天使がそれを告げる場面、あるいは星に導かれる三人の博士たちの旅、そのような情景を思い起こすのではないかと思います。それは一つ一つ意味のあることで、とても大切なことです。しかし、イエス様の誕生の出来事というものは、旧約の歴史と切り離されて、ある日突然起きたということではないのです。神様の長い救いの歴史があって、その御心の成就としてイエス様がお生まれになった。このことを、イザヤの預言を見ながら改めて心に刻みたいと願っているのです。この神様の御手の中にあっての救いの連続性というものを知ることによって、イエス様の誕生、クリスマスの出来事はそれで終わりではない。私共の所にまで続いているし、その先もある。イエス様が再び来たり給うその日まで続く、神様の救いの歴史の中に、今私共は生きている。そのことをしっかり受け止めたいと思うからです。
2.イザヤの預言の成就
さて、今朝与えられている御言葉は受胎告知の場面、マリアが天使ガブリエルからイエス様を生むことになることを告げられた時のことです。天使ガブリエルはマリアにこう告げました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカによる福音書1章30~33節)天使ガブリエルは、マリアから生まれる男の子が、ダビデの王座に着くことになっている、そしてその支配は終わることがないと告げたのです。この天使の語ったことは、実に今朝与えられましたイザヤ書9章5節の言葉の成就なのです。イザヤはこう語りました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」ここでイザヤは「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」と語りました。「生まれた」「与えられた」と告げた。この時みどりごはまだ生まれていないのです。確かに、イザヤがこれを語ったのはイエス様が生まれる700年も前のことです。イエス様はまだ生まれていない。しかしイザヤは「生まれた」「与えられた」と告げたのです。それは、神様がそうすることにされたのだから、もう既に起こったのと同じくらい確実なことであるということを示そうとしている言い方なのです。これを預言者的過去という言い方をします。そして、その幼子によって、6節「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。」というのです。天使ガブリエルによって語られた「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」との言葉は、まさにこのイザヤ書の預言を受けてのものであることが分かるかと思います。
3.ダビデ契約とその後
ここで、ガブリエルが告げた言葉の中で「ダビデの王座とその王国」という言葉があります。これは、サムエル記下7章11節b~13節及び16節にあります、ダビデに与えられた預言者ナタンの預言に従っています。読んでみます。
「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」
これはダビデ契約とも呼ばれますが、ダビデの王家は永遠に続くと神様によって約束していただいたのです。このナタンの預言がダビデに告げられたのは紀元前1000年頃のことです。ところが、ダビデの子ソロモンが死にますと、国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。北イスラエル王国はダビデ家ではない者によって支配され、クーデターに継ぐクーデターで国は乱れ、ちょうど二つの国に分裂してから200年後、紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされてしまいました。その時代が、このイザヤ書9章が預言された時代です。
このあたりの経過については、先週の説教においてもお話ししましたが、南ユダ王国に対して、北のシリアとイスラエル王国が同盟を結んで一緒にアッシリアに対抗しようと、軍勢をもって南ユダ王国に迫った。これがシリア・エフライム戦争です。その時、預言者イザヤは南ユダ王国のアハズ王に、「シリアも北イスラエル王国も恐れることはない。ただ神様を信頼せよ。」と告げるのですが、アハズ王はこれを聞かず、アッシリアに援軍を求めてしまうわけです。イザヤ書8章12~13節「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」と神様は告げたのです。しかし、アハズ王はこれを聞きませんでした。その結果、アッシリアは大軍をもってシリア・北イスラエル王国に攻めてきて、これを破るのです。アッシリアとシリア・北イスラエル連合とでは、国の大きさ、強さの桁が違いますので、まともに戦ったら勝てるはずのない相手です。果たして、シリアの都ダマスコはアッシリアによって滅ぼされます。そして、北イスラエル王国も北の方から順にアッシリアの軍勢によって侵略されていくのです。北イスラエル王国の都サマリアが陥落したのは、紀元前722年です。北イスラエル王国はアッシリアによってまず北の方から攻められたのですが、その一番北に位置していたのがゼブルンの地、ナフタリの地でした。9章4節に「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」とあります。これは、もう戦う者もいなくなる、戦う必要もなくなる、そのような平和を歌っているのですけれど、逆に、この時イザヤの目の前にあったゼブルンの地、ナフタリの地の現実は、血にまみれたイスラエルの兵士の屍が累累と続く光景だったのではないかと思います。そのような現実の中で、イザヤは救い主として誕生する幼子を預言したのです。
4.ダビデ契約の成就
この時、まだ南ユダ王国は滅びていません。しかし、神様を頼ることなく、アッシリアに頼った南ユダ王国の命運もまた、風前の灯火でした。南ユダ王国は、アッシリアには貢ぎ物を献げることで滅ぼされはしませんでしたが、その次に興ったバビロンによって滅ぼされます。紀元前587年のことです。北イスラエル王国が滅びて150年程後のことです。イザヤは、それもまた神様によって知らされていたでしょう。だったら、あの預言者ナタンによってダビデに与えられた約束は反故になったのか。イザヤは、「そうではない」と告げたのです。ダビデ王家は、ダビデの国は、全く滅んだように見えたとしても、神様の約束、神様の救いの御計画はそれにもかかわらず継続している。それが、ひとりのみどりごの誕生によって証しされる。そう預言したのです。そして、そのイザヤによって預言された「みどりごの誕生」、それこそがイエス様の誕生、クリスマスの出来事だったのです。
もう一度8章23節bに戻りましょう。「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」とあります。このアッシリアによって侵略され、神の民としての夢も希望も失ったゼブルンの地、ナフタリの地。これがガリラヤなのです。このガリラヤは、アッシリアによって移民政策がとられます。アッシリアはこの地に、アッシリアの他の地域に住む人々、イスラエルではない民を多く連れて来て住まわせます。そして、イスラエルの民は別のアッシリアの地方に連れて行ったのです。その結果、この地域は「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになりました。
しかし、イエス様が福音を最初に伝えたのは、この異邦人のガリラヤの地においてでした。マタイによる福音書4章12~17節「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。』そのときから、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」とある通りです。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書9章1節)のです。イエス様が来られたからです。神様の救いを、福音を聞いたからです。ゼブルンの地、ナフタリの地が、アッシリアによって踏み荒らされてから700年も後のことです。何と長い時が過ぎたことでしょう。しかし、神様の救いの御業とはそういうものなのでしょう。イエス様が十字架にお架かりになって復活されてから、この富山の地に福音がもたらされるまで1900年近くかかったのです。しかし、神様の救いの御業は、その間とどまることなく前進してきたのです。そして、その御業は、今も変わることなく前進しているのです。イエス様が再び来られるその日まで、この神様の救いの御業はとどまることがありません。
ダビデ契約は、イエス様の到来によって成就しました。しかし、まだ完成はしていません。イエス様が再び来られる時、それは完成します。ダビデの王座、ダビデの王国とは、目に見えるイスラエル民族による国家ではなく、神の国、神の支配のことだったのです。イエス様の到来によって、イエス様が王として支配される神の国は始まっています。
5.イザヤが告げたまことの王
イザヤが告げた、みどりごとして生まれるまことの王・救い主とはどんなお方なのか。9章5節c「その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」と記されています。これは、富山市民クリスマスで歌われますメサイアの中でも歌われているところです。「驚くべき指導者」は、英語ではwonderful counselor(ワンダフル・カウンセラー)と訳されています。この方は、私共の心の中まですべて御存知であり、私共にとって何が大切で、何が必要であり、何が良いことなのかを知っておられるからです。私共は自分にとって本当に大切なこと、必要なこと、良いことが何であるかを見失います。その結果、心も体も疲れ果ててしまいますし、的外れな願いをもって努力し、その願いが叶わなければ絶望したりする。そのような私共にとって、イエス様は素晴らしいカウンセラーなのです。
そして、イエス様は私共にただ教えるだけではなくて、「力ある神」として、天地を造られた唯一人の神様と同じ力を持ち、私共の人生に関わり、道を拓いてくださるのです。どんな状況の中を私共が歩んでいようと、必ず喜びと希望に満ちた明日へと導いてくださるのです。
イエス様は、天の父なる神様と同じ御心をもって私共に愛を注ぎ、正しき道を教え、出来事をもって導いてくださいます。神の民の歴史、キリスト教会の歴史、私共の人生は、このイエス様の愛、父なる神様の愛の確かさを証しするのです。確かに大変な時もある。どうしてこんな事がということもある。しかし、イエス様の愛は、父なる神様の愛は、私共を捕らえて離すことはありません。この愛は、肉体の死を超えて、長い歴史を貫いて、永遠に変わることがないのです。私共は、このお方の愛の中に今、生かされているのです。
そして、イエス様は「平和の君」です。私共を、この世界を、全き平和へと導いてくださるお方です。私はクリスマスが来る度に、今年こそこの世界が平和であるようにと願いますが、残念ながら今年も世界中で争いがあり、戦いがあり、テロがあります。しかし、必ず全き平和が来る。そう私は信じています。イエス様が来られたからです。そして、イエス様は再び来られるからです。主の平和が世界に充ち満ちる。その日を信じ、待ち望んで良いのです。何故なら、聖書が「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」と約束しているからです。私共はこの言葉を信じ、待つのです。
6.再び来られるイエス様に心を向けて
私は先週の月曜日に東京に行って来ました。午後7時半頃に富山駅に帰ってきたのですが、妻が改札口まで迎えに来てくれていました。そして、妻がこんな話をしてくれました。妻は少し早く駅に着いたようで、一本前の「はくたか」が到着した時のこと。改札口で3歳位と6歳位の兄弟がお父さんに連れられて来ていた。多分、お母さんを迎えに来たのでしょう。「はくたか」が着くと、二人の男の子はじっと改札口を見つめて少しも動かない。次々と改札口から人が出てきます。お母さんはなかなか来ない。二人はじっと見ている。やっとお母さんが出て来た。男の子は3回ほど飛び跳ねて、「お母しゃん!」と言って走って行ったそうです。妻はその姿にいたく感動して、この男の子の姿に、私共のアドベントの日々を歩む姿があるのではないかと思ったそうです。私もそうだと思いました。この子たちはお母さんが大好き。そして、お母さんが必ず帰ってくることを知っている。私共もそうです。私共もイエス様を愛している。そして、イエス様は必ず再び来られることを知っている。だから、いつ来られても良いように、身構えて待っている。そういうことなのでしょう。
ただ今から、聖餐に与ります。代々の聖徒たちは、この聖餐に与りつつ、昔来られたイエス様、今私共と共におられるイエス様、そして再び来られるイエス様に心を向けてきました。私共もこの聖餐に与り、主の再び来たり給うを待ち望む信仰を確かにされたいと願うのです。
[2015年12月6日]
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