富山鹿島町教会

礼拝説教

「信じる者に与えられる神様の義」
イザヤ書 59章15節b~20節
ローマの信徒への手紙 3章21~26節

小堀 康彦牧師

1.召天者記念礼拝の日
 先週私共は、先に天に召された方々を覚えて召天者記念礼拝を守りました。大勢の御遺族の方々が集われました。東京、千葉、名古屋といった遠方からも御遺族の方が来られました。私共の教会は10月の最後の主の日に召天者記念礼拝を守っておりますが、11月の第一の主の日にこれを行っている教会もたくさんあります。それは、中世以来11月1日が「諸聖人の日」として守られていたからです。そして、この聖人に対しての理解が宗教改革によって変わりました。つまり、それまでは教会が認めた特別に徳の高かった人を聖人としていたのですが、宗教改革によってすべてのキリスト者が聖人であるという理解に変わったのです。それで、この11月1日が先に天に召された方々を覚える日ということになったのです。今年は今日11月1日がちょうど主の日になりましたが、なかなかそうはなりませんので、私共の教会のように11月1日の直前の主の日である10月最後の主の日に行うか、あるいは直後の11月最初の主の日に、先に天に召された方々を覚えて「召天者記念礼拝」というものを行うことになっているわけです。

2.宗教改革記念日
 しかし、この召天者記念礼拝と同じ時期に、私共にとって忘れることの出来ない大事な日があります。それは10月31日です。昨日が10月31日でした。テレビの報道では東京などではハロウィンの祭りで大変なことになっていたようですが、富山の駅前にも千人くらいの人が出たそうです。しかし、私共がしっかり覚えておかなければならないのは、勿論この日がハロウィンだということではありません。10月31日。この日は週報にありますように、宗教改革記念日なのです。1517年の10月31日に、マルティン・ルターがヴィッテンベルクの教会に「九十五箇条の提題」を掲げた、そのことを記念しているわけです。今年は2015年ですから、あと2年すると宗教改革から500年を迎えるわけです。今、この「九十五箇条の提題」について詳しくお話しする時間はありませんけれど、中世のカトリック教会に対し、教理の根本において疑義を唱えたものでした。その中心にありましたのが「信仰義認」の教理です。私共は「信仰によってのみ」神様に義と認められる、「信仰によってのみ」罪を赦されて救われるという、福音理解です。福音の中心にあるものです。「信仰によってのみ」と言われたということは、それまでは「信仰によって」だけではなかったということです。「信仰と行い」この二つが揃わなければ救われない、そのように教えていたのです。それに対して、ルターは「聖書はそんなことは言っていない。ただ信仰によってのみ救われるのだ。そうはっきり聖書に記されているではないか。」そう言って、宗教改革の一歩が踏み出されたのです。それが10月31日なのです。
 この「九十五箇条の提題」はラテン語で書かれておりましたので、一般の人々がそれを見てすぐに理解できるようなものではありませんでした。けれども、ルターが記した「九十五箇条の提題」は、グーテンベルクの印刷術という発明もあり、あっと言う間に全ヨーロッパに広まっていきました。そして、全ヨーロッパを二分する大論争が始まりました。それは単なる神学論争にとどまらず、国と国との対立にまで至ることになるのです。そして、カトリック教会から分かれて、プロテスタント教会・福音主義教会が生まれることになったわけです。私共の教会は、長老派、改革派の伝統に立つ教会ですが、これも宗教改革によって生み出された流れにある教会です。ですから、10月31日は私共の教会にとって忘れることの出来ない日なのです。今朝は、この宗教改革を覚えて御言葉を受けてまいりたいと思っています。

3.ところが今や
 先程申しましたように、宗教改革が為されることになったその中心的教理は、信仰義認です。この信仰義認ということを最も明確に告げている聖書の箇所の一つが、今朝与えられております御言葉、ローマの信徒への手紙3章21節以下の所なのです。
 21節は「ところが今や、」と始まっています。口語訳では「しかし今や、」と記されておりました。何が「ところが今や、」「しかし今や、」なのか。このローマの信徒への手紙は1章18節からずっと、人間の罪を語ってきました。ユダヤ人たちは、「自分たちは神様に選ばれた民、だから救われる。しかし、異邦人、つまりユダヤ人以外の者は救われない。」そう考えておりました。それは、自分たちはアブラハム以来神様と契約を結んでいる特別な民であり、律法を与えられている。その中心にありますのはモーセを通して与えられた十戒でありますが、その律法を自分たちは守っているのだから救われる。しかし、異邦人はまことの神様を知らず、神様と契約もしていない。律法も知らず、それを守ることもしていないので救われるはずがない。そう考えていたわけです。
 しかし、律法を守っているから神様から義しいとされ、救われるとするならば、その律法を守るというのは完全に、一回のミスもなく守り通さなければなりません。しかし、完全にこれを守り通すことなど、人間には出来ないのです。たとえば、スピード違反をしたことが一度もない、そんな人はいないでしょう。スピード違反で捕まったことがない人はいるでしょう。しかし、違反したことがないなどという人は、車を運転しない人なら別ですが、誰もいないでしょう。スピード違反ならば警察に見つからなければそれで済みますが、神様はすべてお見通しです。神様の御前に、自分は生まれたときから完全に律法を守ってきたと言い張れる人など一人も居るはずがないのです。
 イエス様はマタイによる福音書の5章において、律法を守るとはどういうことなのかを語られました。22節には「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」とあります。また、27節には「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」とあります。イエス様がこの様に告げられたのは、神様が律法を守ることを求めるというのは、このような厳格さにおいてなのだということを教えるためでした。たとえ実際に人を殺すということをしていないとしても、「ばか」と言うだけで律法を犯しているというのです。実際に姦淫していなくても、心で思っただけでも律法違反をしているのだというのです。神様は私共の心の中までお見通しだからです。
 とするならば、ユダヤ人も異邦人もすべてが罪人であり、誰もが神様の裁きを受ける、そういうことになってしまいます。3章9~10節にこうあります。「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。』」正しい者はいない。一人もいないのです。ですから、誰一人例外なく神様の裁きを受けなければならないのです。そして、「罪が支払う報酬は死」(6章23節)です。つまり、誰一人救われることなく、すべての者が神様に裁かれて滅びる。そういうことになってしまいます。
 「ところが今や、」「しかし今や、」なのです。「律法とは関係なく、」つまり律法を守ったら神様に義とされるということではなくて、「しかも律法と預言者によって立証されて、」つまり聖書に証しされているとおり、聖書が告げているとおりに、「神の義が示されました。」というのです。その神の義とは、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」今までは神の義と言えば、正しくない者、律法に従わない者を罪に定め裁かれる、そういうものでした。「しかし今や、」です。イエス様を信じる、それだけで神様が義と認める、義としてくださる、救ってくださる、そういうことになったと言うのです。
 これは、神様の救いのあり方が、イエス様の到来、イエス様の十字架と復活によって、根本的に変わってしまったということです。「しかし今や、」全く新しい救いの時代に突入した。そう聖書は告げているのです。福音の時代の到来です。「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」です。「信じる者すべてに与えられる神の義」です。ただ信仰。それ以外何も要らない。その人がどんな人生を今まで歩んで来たか、ユダヤ人であるか異邦人であるか、どんな性格か、どんな仕事をしているか、若い人か老人か、そんなことは一切問われないのです。そこには「何の差別もありません。」ただ信仰です。ただ信じるだけで救われるのです。これが福音なのです。

4.ただ信じるだけで
 ルターは、このことに気付くまで、神様を恐がっていました。どうすれば救われるのか、彼は悩み抜いておりました。どんなに神様の御前に正しくあろうとしても、悪い思いが次々と湧き上がってきてしまう。それを押さえようがない。彼は修道院に入っておりました。その理由も、正しい人間になり、神様の裁きを逃れたい、救われたい、というものでした。けれど、「修道院の壁は確かに世俗の罪から自分を守ったが、自分の内から湧き上がる罪の思いから自分を守ってはくれなかった。自分は神様に裁かれ、滅びるばかりだ。」そう思っていたのです。彼は聖書博士でした。修道院の中で彼は聖書を学び続けました。そして遂に、「ただ信仰によって救われるという福音の真理」を再発見したのです。
 私共は、自分はそんなに悪い奴だとは思っていないでしょう。人と比べれば、そういうことになるのでしょう。私は毎月、富山刑務所に行っていますけれど、そこで会う人たちも、自分が本当に悪い奴だとは思っていません。それは、神様の御前に立つということを知らないからです。絶対の聖さ、一点の曇りもない聖さ。一切の罪を滅ぼされる神。このお方の御前に自分が生きていることを思えば、私共は恐れ怯えるしかないのです。自らの罪を認めるしかないのです。しかし、この方を知らなければ、人と比べて「それ程悪くはない」と思うものなのです。私共は人には厳しく、自分にはとてつもなく甘い者だからです。
 多くの宗教は、「善いことをして正しい人になって救われましょう。」と教えます。これは大変分かりやすい、納得しやすい教えです。何故ならそれは、この世の常識と全く同じだからです。この世の常識の中に、神様も救いも全部押し込めれば、そういうことになるのです。良い人は救われる。悪い人は裁かれる。良い人は天国に行き、悪い人は地獄に行く。実に分かりやすい。しかし、そんなものは福音ではありません。人間が考え出したものです。甚だしきは、善き人にランクを付けて、一番善い人は神様に近い第一の天国、二番目に善い人は…、ということまで語る宗教さえある。そんな所は天国でも何でもないでしょう。このような教えを語る者は絶対的に聖い方であるまことの神様を知らないし、私共の中にある罪を「大したものではない。」と高をくくっているのだと思います。多少の良い事をするくらいで、罪滅ぼしが出来る程度にしか自分の罪を知らないのです。しかし、神様の御前に立つならば、私共は絶望的に罪に染まっていることが分かります。多少善いことをしたところで、何とかなるようなものではないのです。正しい者はいない。一人もいないのです。「しかし今や、」です。イエス様が来られた。イエス様が私に代わって、私のために十字架に架かって、神の裁きを受けてくださった。だから、私共はこのイエス様を信じるだけで、イエス様の十字架の裁きを自分の裁きとしていただくことになったのです。だから、もう裁かれることはない。信じるだけで良い。これが福音です。23~24節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」とあるのは、そういうことです。
 「贖い」とは、「買い戻す」というのが元々の意味です。イエス様の十字架という代償によって、私共は罪の支配から神様の支配へと、死から命へと、買い戻していただいたということです。このイエス様の十字架という尊い代償を、私共は無償で、タダで与えていただいたのです。それに見合うだけの何か善きことをしたのでもありません。ただ神様の恵みとして、タダで与えていただいたのです。これが福音です。

5.神様を愛し、善き業に励む
 ただ信じるだけで良いのでしょうか。それでは少し話が旨すぎるのではないですか。善いことをする必要もあるのではないですか、と思う人も居るでしょう。しかし、それもまた、私共の常識の中に神様の救いの恵み、福音の恵みを、知らず知らずのうちに取り込もうとしているのです。
 ただイエス様を信じるだけで、一切の罪を赦され、救われる。しかも、そのための手続きは、すべて神様がしてくださった。愛する御子を地上に送り、十字架にお架けになり、私共の一切の罪の贖いとしてくださった。まことに旨すぎる話です。しかし、これが福音なのです。何故、この福音はこんなにも話が旨すぎるのか。理由は単純なことです。それは、神様の愛というものが、それほどまでに徹底的なものだからです。私共の常識の尺度をはるかに超えた、度外れたものだからです。それは実に、神様が神様であられるからなのです。この神様の愛を、神様の救いの御業を、私共のつまらぬ常識という所に堕としてはなりません。ただただ圧倒され、喜び、賛美すべきことなのです。
 ルターは、この福音を知り、神様を愛するということを知りました。それまでは恐ろしい方、自分を裁く方としか思えなかった。彼は神様に怯えていたのです。しかし、この福音によって、イエス様の父としての神様、ここまで徹底的に自分を愛してくださる神様と出会ったのです。もちろん、神様が聖なる方であることを忘れたのではありません。そうではなくて、その徹底的に聖なる方が、徹底的に愛のお方であることを知ったのです。そして、この方を心から愛し、この方の御心に適う歩みを為したいと、心から願うようになったのです。裁かれるのが恐ろしいから善き業に励むのではありません。そうではなくて、この神様の徹底した、驚くばかりの愛に応えるために、この方を心から愛する故に、心からこの方の御心に従いたいと願うが故に、彼は喜びと感謝の中で善き業に励みたいと願う者となったのです。
 私共は今から聖餐に与ります。イエス様が私のために、私に代わって十字架にお架かりになり、一切の罪の裁きを引き受けてくださった。そのことを心に刻むためです。このイエス様の命の代償によって、私共は神様のものとして買い戻されたのです。罪の支配から、サタンの手から、死の縄目から解き放たれ、神の子、神の僕とされた。永遠の命に与る者とされたのです。ただ信仰によってです。何という恵み、何という幸いでありましょう。この恵みを感謝して、神様を愛し、信頼し、従う者として、この一週もまた、それぞれ遣わされている場において、御名をほめたたえつつ歩んでまいりましょう。

[2015年11月1日]

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