1.召天者記念礼拝を迎えて
今日の礼拝は召天者記念礼拝です。先に天に召された愛する方々を覚え、御遺族の方々と共に礼拝を捧げております。お手元にあります召天者の名簿には、昨年の召天者記念礼拝の時から一名の方のお名前が加わりました。この名簿には、召天された方の誕生日、受洗日、召天日が記されております。もちろん、お一人お一人、それぞれの人生において記念すべき日はもっとたくさんあったことでしょう。結婚された日、子供が与えられた日などは、それぞれの方にとってとても大切な日であるに違いありません。しかし、神様によってこの地上での歩みを始めた日、そしてそれが閉じられた日、この二つの日付の間に、神様の御手の中にあったそれぞれの人生があるわけです。そして、その日々の中で、イエス様との出会いが与えられ、イエス様の救いに与り、新しく神の子として誕生した日。この日を境に生まれ変わって御国に向かって歩む者とされた日。それが受洗日、洗礼を受けた日です。私共は今朝、先に天に召された方々が、誠に神様と共に、イエス様と共にあった人生を歩まれた、そのことを心に刻むためにここに集まっております。
一人一人の人生はそれぞれ全く違ったものでありました。この名簿を見ますと、長寿を全うされた方もおられれば、どうしてこんなに若くしてと思わざるを得ない方もおられます。しかし、そのお一人お一人が、神様の御前の中でイエス様の救いに与り、イエス様と共に生きた。そして、そのイエス様と共にあるという恵みの事実は、肉体の死をもって終わったのではなく、今もそして永遠に、変わることがない。そのことを心に刻むために、私共は今朝ここに集っているのです。洗礼を受ける、洗礼を受けたということは、そういうことなのです。昔も今もそして永遠に生き給う主、イエス・キリストと一つに結ばれたからです。
2.この上なく愛されて
今朝与えられております御言葉は、この救いの恵みに与ったことをこのように告げております。4~6節「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」
神様は私共を愛してくださっています。それは、私共一人一人が皆、神様に造っていただいた者だからです。私共に誕生日があるということは、そういうことなのです。神様が私共を造り、私共に命を与え、この地上での歩みを与えてくださいました。ですから、神様は私共一人一人を愛してくださっているのです。それは、私共の出来が良いから、優れたところがあるから、善人であるからではありません。また私共は、自分はこういう人間だ、或いは、あの人はこういう人だ、そのように評価します。しかし、神様はそのような人間の評価とは全く違うところで、そんなものには全く左右されずに、私共一人一人を愛してくださっているのです。それは神様が、私共を造ってくださった方だからです。私共は、人が何と言おうと、手塩にかけて育てた我が子は可愛いものです。それと同じように、神様は私共を造ってくださいましたから、父や母が我が子を愛するように、否、それ以上に、私共一人一人を愛してくださっているのです。残念ながらこの神様の愛に気付く人はあまり多くはありません。しかし、この神様の愛に気付いた人は、この愛を喜び、感謝し、これに応えて生きていきたいと願う。神様抜きに生きるなどということは考えることが出来ない者となります。それが洗礼を受けるということなのです。この神様の愛を知り、これを受け止めて、これを喜び、これに感謝し、これに応えて生きるようにされた者。それがキリスト者なのです。
神様は私共を愛してくださいます。聖書は「わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって」と語ります。この上なく愛してくださった。この「この上ない愛」とは、神様がその愛する独り子、イエス様を私共のために、私共に代わって十字架にお架けになって、私共の一切の罪の裁きを受けさせたというところに表れました。神様は私共を造り、私共に必要なすべてを備えてくださっています。しかし私共は、それを自分の力で手に入れているかのように思い違いをし、神様を軽んじ、神様を相手にもせず、自分の人生は自分のものと、自分の思いのままに生きていました。それは、肉体においては生きていましたけれど、霊においては、神様との交わりにおいては、死んだも同然の歩みを為していたのです。1節で「あなたがたは、以前は時分の過ちと罪のために死んでいたのです。」と言われているのは、そういうことです。しかし神様は、それでも私共を愛し続けてくださいました。その愛をはっきり示すために、神様はイエス様を与えてくださったのです。
イエス様は天から下り、馬小屋でお生まれになり、罪人と共に食事をし、病を癒やし、そして遂に十字架の上で死なれました。私共の一切の罪の裁きを、我が身に負われるためでした。このイエス様の十字架に、神様の私共に対する「この上ない愛」が示されています。神様は、このイエス様を信じる者が、洗礼を受けることによってイエス様と一つになり、既に十字架において一切の罪の裁きを受けた者として、罪赦された者として受け入れることにしてくださった。イエス様と同じ、神の子として受け入れることにしてくださったのです。これが神様の私共に対する「この上ない愛」です。
この召天者名簿にある方々は、神様のこの「この上ない愛」に触れたのです。「この上ない愛」によって、自分が神様に愛されていることを知ったのです。私共にとって何より幸せなことは、この愛を知るということでありましょう。自分が愛されていることを知る。自分が生涯をかけて愛する方と出会う。そして、その愛の交わりの中に生きる。これ以上の幸いはありません。この幸いに生きたのが、この名簿にある方々なのです。
3.度外れた愛によって
そして、この「この上ない愛」は、私共のこの地上の生涯において幸いを与えるだけではないのです。イエス様は十字架の上で死んで、三日目に復活され、四十日後に天に昇られました。このイエス様と一つにされるのでありますから、このイエス様との愛の交わりに生きる者とされたのですから、この愛の交わりは地上の生涯と共に終わりを告げる、そんなものではないのです。5~6節「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」とあります。神様は私共をキリストと共に生かし、キリストと共に復活させ、キリストと共に天の王座に着かせてくださるのです。私共は、この名簿にある方々が、この地上の生涯において「キリストと共に生きた」ことを知っています。しかし、今朝私共が知らなければならないことは、その方々がキリストと共に生きた以上、キリストと共に復活し、キリストと共に天の王座に着くということなのです。どこまでもキリストと一つにされている、キリストとの愛の交わりの中にあるということです。イエス様は永遠から永遠まで生き給う、神の独り子であります。この方と一つにされた以上、私共もまた、永遠から永遠まで生きるのです。
これは度外れたことです。私共の常識を超えています。私共の常識においては、人は死んだら終わりということでしょう。しかし、神様はそもそも私共の常識の中に収まるお方ではないのです。イエス様が為された数々の奇跡も、復活も、私共の常識の中には収まりません。神様の「この上ない愛」にしても常識の外にあるでしょう。私共の知っている愛は、自分に良くしてくれる人を愛する愛でしかありません。私共は、自分にとって益になる、得になる、価値がある、そういう人を愛するのでしょう。しかし、神様は御自分を無視し、敵対し、怒りを引き起こさせるような罪人、裁き滅ぼしてしまえばよい者のために、天地が造られる前から御自分と一つであられた愛する独り子、イエス・キリストを身代わりに十字架にお架けになるのです。あり得ない愛です。しかし、あるのです。イエス様の十字架は、確かに二千年前、エルサレムのゴルゴタの丘に立ったのです。その三日目にイエス様は復活されたのです。そして、四十日後に天に昇り、そこから御自身の霊である聖霊を注ぎ、私共に信仰を与え、導いてくださっている。
この名簿にあるお一人お一人は、このイエス様の救いの御業の証人、神様の「この上ない愛」の証人なのです。この度外れた、常識に収まることのない神様の御業が、愛が、確かにあることを、その存在をもって証しされたのです。先に天に召された方々の在りし日の姿を思い起こしますと、そこには地上に残された私共のために祈る姿があります。日曜日にいそいそと主の日の礼拝へと集う姿があります。苦しみの中で神様に祈っていた姿があります。讃美歌を歌っていた姿があります。その一つ一つが、神様の愛に生かされた者、イエス様と共に生かされた者の姿であり、神様の愛の確かな証言となっているのです。
4.ただ恵みにより
では、この救いに与るために、私共は何をするのか。何をしなければいけないのか。何もありません。この救いは、私共が何か善きことをした報酬として与えられるのではなく、ただ恵みとして、ただ神様が賜物として与えてくださるものだからです。ただ信じるだけです。5節b「―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―」、8節「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」と告げられているとおりです。
「ただ恵み」です。この名簿にある方々が皆、いわゆる善人であったわけではありません。一人一人皆個性があり、時にはひどいことを言ったこともあったでしょう。皆さんも腹を立てたこともあったと思います。しかし、それと、イエス様の救いに与るということは、何の関係もないのです。私共は欠けがあり、まさに罪人なのです。しかし、そのような者を神様は度外れた「この上ない愛」によって愛してくださり、「我に来よ。」と招いてくださいました。この招きに応えて、イエス様を我が主、我が神と信じる者とされた、その信仰を与えてくださったのも神様です。私共が善き業に励み、それが認められて救われたというのならば、自ら誇ることも出来ましょう。しかし、ただ恵みによって、一方的な愛によって救いに与ったのですから、キリスト者は自らが救いに与ったことについて、何も誇るところはありません。ただ神様の恵みに感謝し、喜び、神様をほめたたえるのです。ただただ有り難いのです。
5.神様を信じ、神様を愛し、神様に従う者として
こう言っても良いでしょう。神様が自分を「この上ない愛」で愛してくださっていることを知った時、私共はこの方を愛するようになる。神様を信じ、イエス様を信じるということは、神様を愛し、イエス様を愛するということです。神様を愛し、イエス様を愛するということは、神様の御心、イエス様の御心、それは同じ御心ですが、この御心に適う歩みをしたいと願うようになるということでしょう。そして、その御心は聖書に記されております。神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕えるということです。この御心に従って生きる者になるのです。神様を信じ、神様を愛し、神様に従う者として生きるということです。そのことを聖書は、10節で「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」と言っています。洗礼を受けるとは、このような者として神様によって新しく造られるということなのです。確かに、この肉体の命も神様に造られました。しかし、その命は罪に染まっていました。その罪に染まった私共の命を、神様はイエス様の十字架の血によって洗い清められ、新しい霊の命、キリストと共にある命、永遠の命、神様との愛の交わりに生きる命に生まれ変わらせてくださったのです。それが洗礼を受けたということなのです。この命は、十字架に架かり、三日目に復活された、永遠に生き給うイエス・キリストの命と一つに合わせられたのですから、肉体の死によって終わるような命ではないのです。
私共はこの礼拝の後、教会の墓地に行きまして共に祈りを捧げます。そこで、私共が心に刻んでおかなければならないことは、この墓地にあるのは愛する者の骨でありますが、その霊は既に天におられるイエス様のもとにあるということです。肉体の死を超えた、霊の命に向かって心のまなざしを向けるということです。そして、この上ない愛をもって私共を愛してくださっている神様を、心からほめたたえたいと思うのです。
[2015年10月25日]
へもどる。