富山鹿島町教会

礼拝説教

「十字架につけろ」
イザヤ書 53章7~9節
マルコによる福音書 15章1~15節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 私共は主の日の度にここに集い、父と子と聖霊なる神様の御前に立ち、「あなた様こそ私共の主、ただ一人の王です。」と告白します。ここに、イエス様の尊い血によって贖われ、神様の子、僕とされ、神様との親しい交わりの中に生きる者とされた、私共の新しい命があります。私共はこの命に、生まれた時から与っていたわけではありません。私共は神様を知らず、イエス様を知らず、聖霊なる神様も知らず、それ故、神様をないがしろにし、神様と敵対し、自分こそが正しく、神様は自分の幸いに仕える者ぐらいにしか思っていない、まことに傲慢な者でありました。そのような私共を、神様はそれでも憐れんでくださり、愛してくださり、私共を救うために愛する独り子を与えてくださいました。御子は私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになってくださいました。この痛ましい手続きをもって、神様は私共の一切の罪を赦してくださり、新しい命に生きる者へと造り変えてくださった。まことにありがたいことであります。この恵みの故に、私共は今朝もここに集い、父・子・聖霊なる神様に礼拝を捧げているのです。

2.イエス様を十字架に架けた者
 今朝与えられております御言葉には、総督ピラトによってイエス様が十字架に架けられることが決められた場面が記されております。ここには、イエス様の周りを取り囲むように、四つのグループの人々が出てきます。第一には、総督ピラトです。彼は、ローマから遣わされているユダヤの総督でした。彼がイエス様を十字架につけることを決めたのです。第二には、祭司長・長老・律法学者といった、最高法院を構成していたユダヤの指導者たちです。彼らがイエス様を死刑にすべきだと決めて、総督ピラトの元にイエス様を連れて来たのです。第三に、群衆です。「十字架につけろ。」と叫んで、ピラトにイエス様を十字架につける決断を迫ったのでした。第四に、バラバです。彼は暴動を起こして人殺しをし、投獄されていた人です。彼はイエス様が十字架に架けられることになって、本来自分が十字架に架けられることになっていたのに釈放されることになりました。まことにラッキーな人でした。
 イエス様の十字架への歩みを共に読み進める中で思わされることは、イエス様の十字架は、誰か一人の責任、誰か一人の罪によってもたらされたものではないということです。今日の所で言うならば、祭司長・長老・律法学者たちの訴えがなければ、イエス様は十字架に架けられることはなかったでしょう。しかし、彼らだけでイエス様を十字架に架けることが出来たかというと、そうではない。だから総督ピラトの所に連れて来たのでしょう。当時のユダヤの指導者たちには、死刑を執行することは出来なかったからです。だったら総督ピラトが悪いのか。確かに、使徒信条やニカイア信条には「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」とあります。彼ほど、世界中で自分の名前が唱えられている人はいないでしょう。しかも、良い意味ではないのです。イエス様を十字架に架けた人として唱えられ、覚えられているのです。しかし、今日の所を読んでみますと、ピラトはイエス様を何とか十字架に架けないで済むように動いている。しかし、それを阻止したのは、群衆の「十字架につけろ。」という叫びでした。もちろん、祭司長たちがイエス様を亡き者にしようとしなければ、イエス様を捕らえることがなければ、こうはならなかった。また、ピラトが「イエスを十字架には架けない。」と宣言すれば、こうはならなかった。私はこの場面を思いながら、祭司長・長老・律法学者たちと総督ピラトそして群衆が、それぞれ役割を果たしながら、それぞれの人々の中に渦巻く罪が一つになって、爪を立て、牙をむいてイエス様に襲いかかっている、そんなイメージを持ちました。あの人がこう言ったから、この人がこうしたから、そんな個人の力や業によるのではなくて、人間の奥底にある罪が連動して一つになり、黒い怪物のようになってイエス様に襲いかかっている、そんなイメージです。その罪には、積極的なものもあれば、消極的なものもあります。

3.イエス様とピラト
 ここで消極的なのはポンテオ・ピラトです。彼は、何とかイエス様を助けようとしたのです。しかし結局、彼はそうしなかった。彼は知っていたのです。イエス様が十字架に架けられねばならないような悪いことは何もしていないということを。そして、イエス様が祭司長たちに連れて来られたのは、「ねたみ」のためであることも知っていたのです。しかし、彼はイエス様を無罪にしなかった。15節にはっきりと、「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」とあります。彼は、ローマの総督でありながら、ローマの法に従ってイエス様を裁くことをせず、群衆の叫び声に負けて、イエス様を十字架につけることにしたのです。自分を守るためです。イエス様を無罪放免にすれば、群衆が騒ぎ出し、暴動になりかねない。そんなことになれば、総督としての自分の立場が悪くなる。総督としての能力をローマから疑われかねない。ピラトはローマ帝国という巨大国家の権力を代表していました。しかし彼はその力を、自分を守るために用いたのです。そして、イエス様を十字架につけることにしたのです。国家もまた、イエス様の御前においてその罪を明らかにされるのです。
 まず、総督ピラトはイエス様にこう問いました。2節「お前がユダヤ人の王なのか。」多分祭司長たちがそのような者としてイエス様を訴えたからでしょう。最高法院でのイエス様の罪状は、イエス様が「神の子、メシアである。」と明言したからでした。しかし、これはユダヤ教の内での話です。ローマは、そのような宗教問題には関わりません。このような問題は、どちらの味方をしても、統治する側にとっては争乱の種を生むだけですから、ローマはそんなことには決して関わらないのです。そこで、祭司長たちは、イエス様が「ユダヤ人の王」と称し、反乱を企てていると訴えたのでしょう。神の民であるユダヤの人々にとって、ユダヤのまことの王は本来神様しかいませんから、その意味では間違ってはいないのです。
 しかし、ローマ人である総督ピラトにとって「ユダヤ人の王」とは、具体的にユダヤを治める者でしかなく、それはローマから遣わされている自分しかおりませんでした。この時ピラトの目の前にいたのは、祭司長たちに縛られ、力も権威も無い、一人の男に過ぎません。ピラトは侮蔑のまなざしをイエス様に向けて、勝ち誇ったように、上から問うたのです。「お前がユダヤ人の王なのか。」そしてこの時のイエス様の答えは、少々分かりにくい、謎に満ちたものでした。「それは、あなたが言っていることです。」とイエス様は答えました。原文を直訳すると、「あなたが言った。」です。これでは、ピラトの問いに対して肯定しているのか否定しているのか、よく分かりません。口語訳では意訳して「その通りである。」と訳しておりました。そのように理解する仕方もあります。しかし、これは意訳し過ぎではないかと思います。ここでイエス様は、ピラトに対して肯定も否定もしていない。そもそも、ピラトの言う「ユダヤ人の王」とは政治的な王であって、それしか彼は知りませんし、関心がないのです。その政治的な意味では、イエス様はユダヤ人の王ではありません。しかし、神の子という意味なら、まことにイエス様はユダヤ人の王なのです。ですから答えようがない。そういう意味で、ユダヤ人の王というのはあなたが言っていることだ、ということでもあったでしょう。更に言えば、あなたはそう言っているが、わたしがユダヤ人の王であるかどうか、本当はどう思っているのだ。そのようにも読めるでしょう。しかし、ピラトにはそのようなイエス様の思いは全く通じなかったでしょう。ですから、何も答えないイエス様を、ピラトはただ不思議に思うだけだったのです。
 国家という権力を持つピラトにとって、王とは政治上のものでしかありませんでした。その意味では、いつの時代でもこの世の王は、決してイエス様の前に膝をかがめることは出来ないのではないかと思います。しかし、私共もまた、小さなピラトだったのでしょう。自分の力を、自分を守るために用いることしか知らなかった。しかし、私共は新しい命を与えられ、自分の力はイエス様のために、神様の御業のために用いるのだということを知らされたのでしょう。

4.イエス様と祭司長・長老・律法学者たち
 次に、祭司長・長老・律法学者たちです。彼らは、十字架に架けるために、イエス様を総督ピラトの元に連れて来ました。ローマの支配の元にあった彼らには、イエス様を殺すことが出来なかったからです。そして、こうも考えられます。ユダヤ教における処刑の仕方は、石打ちです。これも残酷なものですが、申命記21章23節に「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」という言葉があります。彼らは、何としてもイエス様を十字架に架け、イエス様を神に呪われた者として殺す、そういう意図があったのではないかと思うのです。そうすれば、もう誰もイエス様にはついて行かないだろう。そう願ったのでしょう。そして、そのためには罪状さえも変えて、ピラトの元に送ったのです。目的のためには手段を選ばない。彼らが大切にしていた十戒の第九の戒に「偽証してはならない」とありますが、これを平気で破るのです。
 そして、3節には「そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。」とあります。彼らは、イエス様を十字架に架けるため、それこそ、イエス様がやってもいない、言ってもいないことを、次々とピラトに訴えたのだろうと思います。それほどまでして守ろうとしたのは、自分たちの権威、立場、権力、正当性だったのでしょう。そして、イエス様をねたんだのです。ねたみとは恐ろしいものです。カインがアベルを殺したのも、サウルがダビデを殺そうとしたのも、ねたみのためでした。ねたみ心は、私共を狂わせるのです。
 しかし、イエス様は反論もせず、何も答えず、黙ったままでした。イエス様はこの時、御自身がマタイによる福音書10章28節で言われた「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」との御言葉を思っておられたのではないかと思います。イエス様は何も恐れていないのです。

5.イエス様と群衆
 そして、群衆です。彼らは数日前、イエス様がエルサレムに入られる時、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と叫んで、イエス様を迎えたのです。神殿においてイエス様が話されるのも喜んで聞いていたのです。しかしこの時、彼らは祭司長たちに扇動されてしまいます。総督ピラトが、「釈放して欲しいのはイエスか、人殺しのバラバか。」と問うた時、「バラバを釈放せよ。」と叫び、「イエスをどうして欲しいのか。」と問うた時、「十字架につけろ。」と叫んだのです。私はこの時の群衆の叫びは、声を揃えて何度も何度も叫んだのではないかと思います。12~14節「そこで、ピラトは改めて、『それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか』と言った。群衆はまた叫んだ。『十字架につけろ。』ピラトは言った。『いったいどんな悪事を働いたというのか。』群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び立てた。」とあります。この時群衆は、私共がスポーツ観戦して応援する時に「ニッポン、ニッポン」と言って一つになって叫ぶように、一つになって何度も「十字架につけろ。」と叫んだ。それは、もう誰も止められないような熱を帯びた叫びだったのでしょう。
 群衆は扇動されただけだ。そうかもしれません。一人一人はそれほど自覚のないままに、祭司長たちに扇動されて叫んでいただけなのかもしれません。しかし私には、人間の罪が一つに合わされ、強大な力となり、ローマの総督ピラトでさえも言うことを聞かねばならないほどのものとなった。私はこの時一人一人の罪が合体し、黒い怪物のようなものになってイエス様に襲いかかっているように思えてならないのです。先の大戦へと突入していった際の日本国民の熱狂とも重なります。先の大戦が始まるとき、日本国民は熱狂し、提灯行列をして喜んだのです。やがて自分の夫や子どもたちが戦地に行くというのにです。この時、「十字架につけろ。」と叫んだ群衆は皆で一つの言葉を叫び、高揚した一体感に満ちていたのではないでしょうか。彼らもまた、イエス様を十字架につけるために、決定的な役割を果たしたのです。
 今、総督ピラト、祭司長たち、群衆といった人たちが、それぞれイエス様を十字架に架けるために役割を果たしていったことを見ました。どれが欠けても、イエス様は十字架に架けられることはなかったのです。そして、今朝私共が確認したいことは、この人々は、今朝ここに集っている私共がイエス様と出会う前の姿、私共の心の奥底に今もうごめいている罪の姿だということなのです。誰も、私はピラトではない、祭司長たちではない、この時の群衆ではないとは言えないでしょう。自分を守るためならば、平気で嘘もつくし、誰かのせいにもする。無意識にそうしている。しかし、そのような一人一人の罪が一つに合わさって巨大な罪の台風のような渦を巻いてすべてを巻き込んでいく中で、イエス様は誰も恐れず、何も恐れず、沈黙しておられた。この一切の罪を担い、これに勝利するためでした。

6.イエス様とバラバ
そして、最後にバラバ。彼は人殺しでした。彼こそ暴動を起こした人であり、十字架に架けられるはずの人でした。ところが、イエス様が十字架に架けられることになって、彼は助かってしまうのです。彼は、何もしていません。自分が裁かれ十字架に架けられることから救われるために、彼は何もしていない。ただ、イエス様が十字架に架けられることになっただけです。このバラバこそ、イエス様の十字架によって救われることになった私共の姿なのです。私共はバラバなのです。まことに不思議です。人間の罪は一つの塊となり、神様に敵対し、イエス様に敵対し、遂にイエス様を十字架に架けて殺すことになった。しかし、そのことによって、人殺しのバラバが救われるのです。これが神様の御業というものです。人間の最も罪深い業をも用いて、その救いの御業を貫徹されるのです。私共は、このまことに不思議な神様の御業の中で選ばれ、イエス様と出会い、イエス様を信じて従う者とされました。こうして、イエス様の前にひざまずく者とされました。罪を赦され、神の子とされ、新しい命に生きる者とされました。まことに不思議なことであり、まことにありがたいことです。
 私共は今から聖餐に与ります。これは、イエス様が私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになってくださったことによって、私共がイエス様と一つにされて、永遠の命に与る者とされたことを心に刻むものです。今、イエス様を「十字架につけろ。」と叫ぶ罪から解き放たれ、イエス様を「我が主、わが神」と拝み、ほめたたえる者とされたことを心から感謝し、共々に御名をほめたたえて、この聖餐に与りたいと思います。

[2015年9月6日]

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