1.主イエスの裁判の不当性
ゲツセマネで祈られたイエス様は、ユダの裏切りによって捕らえられ、大祭司の屋敷に連れて来られました。そこに、祭司長、長老、律法学者たち、つまり当時のユダヤの政治・宗教・治安を委ねられておりました最高法院のメンバーが集まって来ました。この最高法院と訳されておりますものは、サンヘドリンと呼ばれる議会で、70名の議員と、議長である大祭司によって構成される、ユダヤの自治を任されていた機関でした。そこでイエス様の裁判が行われたと聖書は告げています。
しかし、この時の裁判にはいろいろと異常な点、不当な点がありました。第一に、この裁判は夜に、しかも大祭司の屋敷で行われたということです。当時、サンヘドリンは昼間に、神殿の中で行われなければならないと決まっていました。しかし、イエス様が捕らえられたのは夜。神殿はもう閉まっています。本当ならば、次の日の朝を迎えてから神殿で行われるべきものでした。しかし彼らは、大祭司の家で、夜にイエス様の裁判を行ったのです。
第二に、この裁判はイエス様を死刑にするための裁判であったということです。裁判というものは、その人に罪があるかないかを明らかにして、罪状が確定したら、罰を決める。そういうものでしょう。しかし、この時の裁判は、55節に「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」とありますように、イエス様を死刑にするために開かれた裁判でした。結論が決まっているのです。ですから、これを裁判と呼んで良いのかどうか。まことに異常で不当な裁判でした。
第三に、この裁判においては、イエス様に不利な偽証が何人もの人によって為されました。偽証は、十戒の第九の戒においてはっきり禁じられていることです。しかも、その偽証を求めたのが、サンヘドリンのメンバーたちだったというのです。十戒を徹底して守ることによって神様の前に義とされる。これを信条としているのが当時のユダヤ教の指導者たちである彼らでした。それなのに、自ら十戒を破りイエス様を死刑にしようとする。これもまことに異常なことであり、不当なものでありました。
第四に、偽証が食い違っていたのでそれを採用することが出来ず、イエス様の罪状を定めることが出来なかったというのです。ユダヤの裁判において、証言は複数の人によって証言されなければ採用されません。多分、当初は祭りの間はイエス様に手を出さないことにしていたのに、ユダの裏切りによって急遽イエス様を捕らえて裁判することになったからでしょう。偽りの証言をする者たちが、綿密に打ち合わせをして口裏を合わせるということが出来ず、証言が食い違ってしまったのです。ここで証言が成立しないのですから、イエス様は無罪放免とされるべきでした。しかし、そうはならなかった。全く異常なことであり、不当なことでした。
今、このイエス様の裁判の異常性、不当性について述べてきましたが、最後に、根本的にこの裁判が異常であり、不当である理由を述べます。それは、この裁判そのものが「人間が神を裁いている」という点です。人間が神様を裁く。全く倒錯しています。これがこの裁判の最も根本的な問題なのであり、人間の罪とは何であるかということがはっきり顕れているところなのです。
私共の罪は、私共が神様を裁き、神様を亡き者にする、そこに極まります。こう言っても良いでしょう。人間は自分にとって都合の良い神を求めます。家内安全、商売繁盛。自分に利益をもたらす神を求める。そこに生まれる神が偶像なのです。それは人間が造り上げる神です。しかし、まことの神様は、人間が造るのではなく、人間を造られたお方です。ですから、まことの神様は人間の都合の良いようにはなりません。当たり前のことです。しかし、それに我慢がならない。自分の言うことを聞かない、自分に利益をもたらすためではなくて勝手に働く神など無くて良い。あくまで私が主人であって、神様を主人としてこれに仕えることが出来ない。それが罪です。イエス様が受けられた裁判には、そのような人間の罪が顕わになっているのです。
2.三日で神殿を建て直す
人々が為した偽証の中で、一つだけがここに記されています。58節「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」これは偽証です。イエス様はこのようには言っていないのです。しかし、全くの偽証かというと、そうでもありません。ヨハネによる福音書2章19節に、イエス様が「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われたことが記されています。イエス様がここで言われた神殿とは、御自身の体のことでした。イエス様が十字架に架かって死に、三日目に復活される。それによって、人間と神様との間の新しい親しい交わりが与えられる。また、キリストの体としての教会が建てられる。そのことを言われたわけです。神殿とは、神様が御臨在され、そこにおいて人間と神様との交わりが与えられるところです。イエス様は、それが御自身の十字架・復活によって、新しいあり方となる。目に見える神殿ではなくて、キリストの体という教会によって与えられるようになると告げたわけです。しかし、人々はそうは聞かなかったのです。イエス様は自ら神殿を打ち倒すとは言っていないのです。そんなつもりもありませんでした。しかし、彼らにはそう聞こえたのです。彼らにしてみれば、神殿といえば目に見える、現に目の前にあるエルサレム神殿しか考えることは出来ませんでした。だから、それを三日で建て直すとは、人間の手によらずにイエス様が奇跡によって、再び目に見える神殿を建てると言ったと受け止めたのです。つまり、目に見える神殿の持つ権威の否定としか聞くことが出来なかったのです。大祭司にしても、祭司長にしても、神殿があるから現在の自分の地位があるわけです。そして、当時のユダヤ社会は、このエルサレム神殿を中心とした社会でした。ですから、このエルサレム神殿に依存しない信仰など考えられなかったし、そのようなことを主張するイエス様は、ユダヤ社会を破壊する者、ユダヤ社会に争乱を生み出す者でしかなかったのです。
ここでは真理が問題になっているようでいて、実は、自分たちの利害関係だけで、大祭司を始め最高法院の人々は動いているのです。彼らは自分たちの既得権を守ろうとしているだけなのです。大祭司たちはもちろん信仰者です。それが、自らの地位と既得権を守ろうとして、罪無きお方を殺す。あってはならないことです。しかし、この様なことは歴史の中でたびたび起きました。私は、中世のヨーロッパにおいて行われた魔女裁判を思い出します。また、先の大戦中に国家神道の前に多くの宗教が弾圧されたことも思い出します。この様なことは、あってはならないことです。しかし、歴史の中で何度も起きてきました。その反省の中で、信教の自由というものが確立されてきたのです。これは、私共が何としても守らなければならないものだと私は思います。これは、私共自身が大祭司たちのようにならないためにも必要なものなのです。
3.沈黙を破って
さて、次々と不利な偽証が為される中、イエス様は沈黙を守ります。61節「イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。」とある通りです。私共は、このイエス様のお姿に、預言者イザヤがイザヤ書53章7節において預言した、苦難の僕を見るのです。イザヤはこう預言しました。「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」まさにイエス様は、これから御自分の上に下される十字架の死を思い、これを受け入れ、覚悟の上で何もお答えにならなかったのでしょう。御自身を死刑にしようとしているこの人たちの罪を担って、代わって神様の裁きをお受けになるために、イエス様は黙って何も言われなかったのです。
しかし、大祭司を始めこの場にいたサンヘドリンのメンバーたちには、そのようなイエス様のお心は分かりません。偽証する者を立てて証言させたけれども失敗し、罪状を定めることさえ出来ない。大祭司たちの方が追い詰められ、焦ったのかもしれません。大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、自らイエス様に尋ねました。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」それでも、イエス様は何もお答えになりません。遂に大祭司は核心に迫る問いをイエス様に投げかけました。「お前はほむべき方の子、メシアなのか。」「ほむべき方」というのは、神様と言うのをはばかって使う言葉ですので、ここで大祭司は「お前は神の子、メシアなのか。」と問うたということです。これに「はい」と答えれば、死刑になるに決まっています。イエス様もそんなことは分かっていました。しかし、イエス様はこうお答えになったのです。
62節「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」ここで「そうです。」と訳されている言葉は、単に「そうです。」と言っているのではないのです。これはギリシャ語で「エゴー、エイミ」という言葉ですが、英語で言えば「I am 」というだけの言葉です。しかし、これは神様が自らを告げる時に使われる言葉なのです。出エジプト記3章において、モーセが神様からの召命を受けます。この時のモーセと神様とのやり取りの中で、モーセが神様の名前を問います。その時神様は「わたしはある」と答えられたのですが、これをギリシャ語に翻訳されると「エゴー、エイミ」となるのです。つまりイエス様は、「わたしは神である。あなたたちはわたしが全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」そう宣言されたということなのです。
イエス様はこれまで、御自分が神の子、メシアであることをあからさまに言うことはなさいませんでした。弟子たちに語ることはあっても、「だれにも言ってはならない。」と口止めしておられました。しかし今、このことを言えば死刑になる、それが分かりきった場面において、イエス様は自らが神の子、メシアであることを明言されたのです。
何故でしょうか。それは、イエス様は神の御子として十字架につく。救い主メシアとして十字架につく。そのことをはっきりさせるためでありました。イエス様は神の御子として、すべての者に罪の赦しを得させる救い主として、十字架にお架かりになるのです。ここは曖昧にすることが出来ないことでした。これを曖昧にしてしまえば、イエス様が地上に来られ、数々の奇跡を為し、教えを語り、そして十字架に架かって死なれるということ、そのすべての意味が曖昧になってしまうからです。それは出来ないことでした。
4.十字架・復活・昇天・再臨
イエス様は十字架に架かり、三日目に復活し、四十日後に天に昇り、全能の父なる神様の右に座られます。そして、そこから再び来られて、生きている者と死んでいる者、すべてを裁かれる。これは、初代教会以来、キリスト教会が保持してきた信仰です。使徒信条において「十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神様の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。」と告白されている通りです。そして、このイエス様に対する信仰は、イエス様御自身がここでそのようにお語りになったこと、約束されたことなのです。このイエス様の約束に根拠を持っているのです。
イエス様は今、どこにおられるでしょう。復活の体をもって、全能の父なる神様の右におられ、神様と共に世界のすべてを支配しておられます。私共は今、そのイエス様を信仰のまなざしをもって見上げ、拝んでいるのです。それが私共の礼拝なのです。
そして、そのイエス様は、時が来れば再び天より下って来られるのです。その時、何が起きるのでしょうか。神様の裁きです。その時には、生きている者も、既に地上の生涯を閉じた者も、例外なく裁かれるのです。神が、神の子が、私共を裁くのです。この終末において、人間が神様を裁くという倒錯した不当な裁きは退けられ、神様による、神の御子による正当な裁き、まっとうな裁きが行われるのです。私共はその日を待ち望み、その日に向かって、この地上の歩みを為しているのです。その歩みにおいて何より大切なことは、神様を神様とするということです。神様を自分の幸せの道具のように考え、扱ってはなりません。私共を造り、私共を支配され、私共を導いてくださっているお方として、これを愛し、これを信頼し、これに従うのです。
5.叩かれた主イエス
大祭司は、このイエス様の言葉を聞いて、衣を引き裂いて言いました。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか。」この大祭司の言葉を受けて、そこにいた最高法院の人々は、イエス様を死刑にすべきだと決議しました。このように、イエス様が十字架に架けられたのは、イエス様が自ら神の子、メシアであることを明言されたからです。イエス様は、神の御子として、メシアとして、十字架に架けられることになったのです。それが御心だったからです。
そして、イエス様の死刑が決められると、人々はイエス様に唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、平手で打ちました。何ということでしょう。これが群集心理とでも言うべきものでしょうか。このようなことを人は平気でするのです。自分より弱いと思ったら、かさにきて、寄ってたかってやっつけるのです。ここにも私共の罪の姿が顕わに現れています。イエス様はこの時にもきっと黙っておられたことでしょう。私共はこのような者になってはならないのです。私共は、寄ってたかっていじめられる人を見る時、この時のイエス様を思い起こさねばならないのでしょう。よってたかって痛めつけられている人を見たり聞いたりする時、私共はそこで叩かれ、唾をかけられうずくまっている人の姿にイエス様のお姿を見いだしていくのです。
今年も8月は、改めて平和を願い、祈る時が何度もありました。自分を守るために邪魔な者を亡き者にする。弱い者を寄ってたかって叩く。それが国家の規模で行われる時、戦争となるのでしょう。主の平和が満ちるようにと祈ると共に、私共が自らのこの罪に支配されることなく、神様の御支配の中に生きることが出来るように、共々に祈りを合わせたいと思います。
[2015年8月23日]
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