1.「つまずく」とは
私共は信仰の歩みにおいて、つまずくということがあります。必ずあります。大きなつまずき、小さなつまずき、人それぞれいろいろあるでしょうが、私はつまずいたことはないと言い切れる信仰者は一人もいないでしょう。何につまずくのか。それも人それぞれでしょう。
つまずくというのはどういうことでしょう。そこにあるとは思ってもいなかった石につまずく。石があるのは分かっていたけれど、それを避けたつもりで避けきれずにつまずく。階段は終わったと思ったら、もう一段あってつまずく。足を上げたつもりだったのに、十分に上がっていなくて段差につまずく。つまずくというのは大体そういうことでしょう。
信仰においてつまずくというのも、そういうことです。こうなると思っていたのにそうならない。或いは、思ってもいなかった出来事に遭ってしまう。例えば、キリスト者になれば、真面目にキリスト者として生活していれば、神様が良くしてくれると思う。ところが、とんでもないことが起こる。本当に神様は自分を愛してくれているのか、守ってくれているのか、分からなくなる。この場合、神様につまずいているわけです。これはなかなか深刻です。或いは、人につまずくということもあるでしょう。あの人にこう言われた。あれでもクリスチャンか。クリスチャンなんて、牧師なんて、教会なんて、信じられない。そういうこともあるでしょう。これは人につまずいているわけです。これもなかなか深刻です。或いは、自分は良い人だと思っていたけれど、自分の一言で人をひどく傷つけてしまったことに気付かされる。自分は何と愛の無い人間かと思わされる。イエス様を信じてもちっとも変わらない。もうやめた。これは自分につまずいたわけです。
このように、神様につまずく、人につまずく、自分につまずく、いろいろなつまずき方がある。しかし、共通しているのは、神様はこういう方だ。教会とは、牧師とは、キリスト者とはこういうものだ。或いは、自分はこういう人間だ。そのような自分の考え、理解の仕方、思い込みと言っても良いのかもしれませんが、それが崩れる、崩される。そこでつまずくということが起きるのだろうと思います。自分の思いが裏切られる、破られる、崩される。これはとても辛いことではあるのですけれど、私共の信仰の歩みにおいては、必ず起きることなのです。それは、その人の性格とか、信仰の度合いとか、熱心さとか、そんなことには一切関係なく、必ず起きることなのです。しかも、一度とは限らず、何度でも起きるのです。
どうして、そのようなことになってしまうのでしょうか。私共は誰だってつまずきたくない。信仰のつまずきなど知らずに、天の御国へと真っ直ぐ歩んでいきたい。そう思っています。にもかかわらず、必ずつまずきは起きる。どうしてでしょうか。
それは、この自分の思い、考え、見通し、そのようなものの根っこに、自分を頼る、自分を誇るということがあるからなのです。キリスト教の信仰は、ただ神様を頼るということでありますから、この自分を頼り自分を誇るという心は、打ち砕かれていかなければなりません。その打ち砕かれる時に起きる現象が、つまずきということなのではないでしょうか。打ち砕かれたくない私が抵抗する。正しいのは私だという所に立ち続けようとする。そこでつまずくのです。その意味では、つまずくということは、私共の信仰の成長においてはどうしても必要なこと、とても大切なことなのだとも言えるのです。このつまずきの時にどうするのか。信仰を捨てるのか、祈るのをやめるのか、教会に来るのをやめるのか、聖書を読むのをやめるのか。それとも、そのつまずきの中でなお、聖書を読み、祈り、礼拝に集い、奉仕を続けるのか。このどちらの歩みをするかで、私共の信仰の成長は全く違ったものになってしまうのです。つまずきの時こそ、特別な成長の時、気付きの時、恵みの時なのです。その時にこそ、私共は自分が何者であり、イエス様はどういうお方なのか、福音とは何か、そのことがはっきり示されるからです。
2.皆わたしにつまずく
今朝与えられた御言葉において、イエス様は弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく。」と言われました。ちょうど、過越の食事を終え、ゲツセマネの園に向かわれる途中のことです。このゲツセマネの園でイエス様は祈られ、その祈りが終わると、ユダの裏切りによって捕らえられてしまいます。弟子たちと一緒にいるのはあと数時間。イエス様はもう十字架への歩みを始めておられます。その緊迫した時の流れの中で、イエス様が弟子たちに言われた言葉です。今し方過越の食事の席で、イエス様は弟子の一人がわたしを裏切ろうとしていると告げられたばかりです。そして今度は「あなたがたのうちの一人」ではなく、「あなたがたは皆」です。弟子たちはみんなわたしにつまずくと告げられたのです。例外はないのです。
そして、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう。」と言われました。これはゼカリヤ書13章7節の引用ですけれど、イエス様がここで言おうとされたことははっきりしています。「羊飼い」はイエス様でしょう。「羊」は弟子たちのことです。とすれば、「わたし」とは父なる神様ということになります。つまり、神様がイエス様を打つ。十字架にお架けになる。すると、弟子たちは散ってしまう。イエス様を見捨てて逃げてしまう。そう告げられたのです。イエス様は御自身が十字架にお架かりになった後、何が起きるのか、正確にお語りになったのです。そして、実際、その通りになりました。
これを聞いたペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」と明言します。この時のペトロは本気でそう思っていたでしょう。口から出任せに言ったのではないと思います。しかし、イエス様はそのペトロの言葉を受けて、30節「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と告げられました。極めて具体的です。ペトロは自分の言葉がイエス様に信用されていないと思ったのでしょう。ですから、更に力を込めてイエス様に言います。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」そして、他の弟子たちもペトロと同じように言ったのです。
私共はこの話の結末を知っています。ペトロはイエス様の予告通り、イエス様が大祭司の所で裁かれている時、大祭司の中庭において、イエス様を「知らない」と、三度イエス様との関係を否定したのです。そして、鶏が鳴きました。何もかも、イエス様がお語りになったとおりでした。
3.信仰を失わせないために
イエス様はどうしてこの時、弟子たちが皆散ってしまうこと、そして、鶏が二度鳴く前にペトロが三度御自分を知らないと言うことを告げたのでしょうか。理由ははっきりしていると思います。ペトロがそして弟子たちが御自分につまずき御自分を捨てて逃げてしまうことをイエス様は御存知でしたけれど、そのつまずきを彼らの信仰の気付きの時とするため、ペトロの信仰を、弟子たちの信仰を、失わせないようにするためでした。
これほどはっきり予告されたので、ペトロは、このイエス様の言葉を忘れることはありませんでした。そして、イエス様を三度知らないと言ってしまった時、何もかもがイエス様の言われたとおりであったことを知ります。自分の弱さ、不甲斐なさを、イエス様は全部御存知であったことに気付くのです。自分は知らなかった。しかし、イエス様は御存知であった。そのことを知るのです。
そして、イエス様はこの時十字架を語ると同時に、28節で「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と告げています。十字架の死の後、三日目に復活する。そして、ガリラヤに行く。ここでイエス様は「あなたがたより先に」と言われました。それは、文字通り弟子たちよりも早くガリラヤに行くという意味と、「先頭に立って」という意味とに読むことが出来ます。
イエス様の十字架を見た弟子たちは、もうこれですべてが終わったと思ったでしょう。また、自分はイエス様を裏切ってしまったという自責の念を持ったことでしょう。弟子たちはイエス様の十字架につまずいたのです。イエス様の奇跡を何度も見てきた弟子たちです。イエス様は十字架の上でなど死なない。弟子たちはどこかでそう思っていたかもしれません。しかし、死んでしまった。こんなはずではないと思う結果になってしまったのです。しかも、自分は決して裏切らない、つまずかないと言っていたのに、あっさりと裏切ってしまった。そのような弟子たちに、復活されたイエス様はその御姿を現されたのでした。そして、復活されたイエス様は、彼らを再び弟子として召し出されたのです。復活されたイエス様は、御自分を見捨てて逃げ去った弟子たちに対して、恨み言一つ言われませんでした。それどころか、この弟子たちに、全世界に出て行って福音を宣べ伝えることをお命じになったのです。御自身がその先頭に立って行かれると告げられたのです。
4.福音とは
弟子たちがイエス様に伝えるように命じられた福音とは何でしょうか。イエス様を信じて、頑張ってイエス様に従いましょう。そして救いに与りましょうということでしょうか。それは、十字架の前までペトロが持っていた信仰のあり方です。他の誰がつまずいても私はつまずかない。たとえ一緒に死ぬようなことになっても裏切らない。ペトロは本気でそう思っていました。そうすることが信仰者の道であり、イエス様の弟子たる者の姿だと思っていました。しかし、彼はそう出来なかったのです。イエス様はそのことを百も承知で、自分を弟子として召し出してくださっていた。しかも、そのような私を、再び弟子として召し出してくださった。このイエス様の赦しと召しこそが福音なのです。イエス様の十字架は、イエス様を三度知らないと言ったこの私のために、私に代わって、私の罪の裁きをお受けになるためのものであったことをペトロは知りました。ペトロも他の弟子たちも、自分の中に救いに値するものなど何も無いことを知らされました。自分は立派な信仰者ではないことを徹底的に知らされました。そして同時に、そのような自分がなお神様に赦され、愛され、召されている。救われている。そのことを知ったのです。これが福音です。ペトロも他の弟子たちも、この時イエス様につまずいたから、イエス様の与えてくださる救いが何であるか、福音とは何であるかということが分かったのです。信仰深いとか信仰熱心であるということは、良いことであるに違いありません。しかし、そんなものは救いには何の役にも立たないのです。それに、私共の信仰深さや熱心などといったところで、そんなものは実に頼りないものでしかないのです。イエス様はそんなことはすべて承知の上で、私共を召し出してくださったのです。そして、私共に先立って進み行かれるのです。
5.神様の愛の業としてのつまずき
弟子たちは、神様に対するイメージも、イエス様に対するイメージも、すべて十字架で砕かれたのです。自分は漁師という仕事も捨ててイエス様に従ってきた。イエス様を裏切ることなんて絶対に無い。そう思っていた自分に対するイメージまでも粉々に砕かれたのです。そして、福音を知ったのです。まことの神様と出会ったのです。復活のイエス様と出会ったのです。
自分に自信のある人は、信仰の歩みにおいてその自信を砕かれることを必ず経験します。牧師とて同じことです。何度も何度も経験します。それは、何度砕かれてもこの自分への自信というものは、その度に再生されてしまうからです。実に手強い、実にしつこいのです。それが私共の罪というものなのです。神様を信頼するのではなくて、自分の能力、見通し、経験というものに頼る。まことに不信仰です。何度砕かれても、この不信仰が頭をもたげてくるのです。神様はこの不信仰を、まことに深い愛をもって打ち砕いてくださるのです。そして、そこに起きるのがつまずきです。だから、私共は必ずつまずくのです。何度でもつまずくのです。
私は、信仰を与えられて二年ほど経った時、とても辛い体験をしました。生きる力がなくなるほどでした。それまで真面目に教会生活をし、教会学校の教師もし、大学でも聖書研究会を開き、模範的なキリスト者の学生でした。しかし、その辛い出来事が起きました。私の一体どこが悪いのか。神様は何をするんだ。私にこんなことをする神様なら要らない。そう思いました。しかし、教会学校の先生をしていましたので、教会には行きました。でも、説教など聞く気にもなれませんでした。しかし、そうしている中で、ある時、ヨブ記の説教がありました。ヨブは義しい人で、神様の祝福を受けておりました。しかし、子どもたちも財産もすべて失うという出来事に遭います。初めは、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と言っていたヨブでしたが、次第に神様に対して、どうして私はこんな目に遭わねばならないのか、私の一体どこが間違っていたというのかと訴え始めます。そして長い論争の果て、神様が答えたのは、「お前は何者か。わたしは神だ。」というものでした。私はヨブでした。真面目に信仰者として歩んでいれば神様は良くしてくれる。それが当然だと思っていたのです。私はその時初めて、神様は私に良いことをしてくれるから神様なのではなくて、神様は神様なのだ。私は神様に造られた者なのだから、神様をあがめるのは当たり前のことなのだ。神様は私の信仰の良き業によって、私を愛されるのではない。ただ十字架。そのことを知らされたのでした。
ただ十字架。それは、私共の信仰の出発点であったはずです。ところが、いつの間にか、「ただ十字架」というのがお題目になって、自分の良き業によって神様の憐れみを受ける。これだけしてるのだから、神様に良くしてもらって当然。そんな風に思い違いをしてしまうのです。これは、真面目なキリスト者であればあるほど陥る誘惑です。神様はそのような私を憐れんでくださって、辛い出来事を通して、信仰の原点に立ち帰らせてくださったのです。
私共はつまずきます。しかし、つまずきの中で神様の愛と真実は私共を離れているのではなくて、その時にこそ神様の愛と真実とは私共に豊かに注がれているのです。傷付くことによってしか気付くことが出来ない愚かな私共のために、神様はつまずきをも与えてくださるのです。
[2015年7月26日]
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