1.献げる
聖書は私共に、全く新しい生き方、美しいあり方を教えます。それは「献げる」という生き方、「献げる」というあり方です。私共は、どうすれば手に入るか、自分のものにすることが出来るか、そのことにばかり関心があり、興味を持ちます。それはお金であったり、富であったり、社会的な地位や名誉であったりします。しかし、それらを手に入れてどんなに自分のものにしても、美しくないのです。一方、自分の持っているものをどう用い、どう使うか、そのあり方によって私共は美しくなれる。そして、それは「献げる」というあり方なのだと、聖書は教えてくれるのです。教会に来ても、どうすればお金持ちになれるかは教えてくれません。しかし、自分の持っているものをどのように用いれば美しくなれるか、そのことは教えてくれます。それが「献げる」というあり方です。
私共がこの「献げる」という生き方をする根拠、また最も徹底した献げ方が示されているのがイエス様の十字架です。十字架は、二千年前における犯罪人に対する刑罰ですから、それ自体が美しいはずはありません。人間が十字架に架けられて殺される姿が美しいはずがないのです。目をそむけたくなるように悲惨であり、残酷なものです。しかし、イエス様の十字架は違います。私共はここから目をそらさないのです。イエス様は、天と地を造られたただ一人の神様の御子でした。全く罪無きお方であり、父なる神様と共に天におられました。しかし、天から降ってきて、人間と同じ姿と成り、自らの欲に引きずられて罪の中に生きる私共のために、私共に代わって神様の裁きをお受けになりました。それがイエス様の十字架です。イエス様は、御自分の命そのものを十字架の上で献げられたのです。このイエス様の身代わりの死によって、私共は一切の罪の裁きを免れ、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るようになり、新しい命に生きる者とされました。イエス様は、私共のために私共に代わって御自身の命を献げられたのです。だから、イエス様の十字架は美しいのです。
私共は、このイエス様によって、全く新しい、そしてまことに美しい生き方、「献げる」という道へと招かれました。私共の能力を、富を、時間を、人生を、祈りを、「献げる」というあり方で用いる。それが私共に与えられた新しい歩み方なのです。
「献げる」というあり方は、普通に考えれば「損をする」ことです。自ら進んで損をすることです。得をすることではありません。私共は、いつもどこかで損か得かと計算しているところがあります。しかし、この「献げる」というあり方は、その損得の計算を吹き飛ばしてしまうのです。そして、その損得を吹き飛ばした所に現れてくるのが、愛なのです。聖書は、この愛に生きるようにと私共を招くのです。ここにこそ、私共の本当の幸いがあるからです。
2.過越の祭りと除酵祭
さて、今朝与えられております御言葉、マルコによる福音書14章は「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。」と始まります。イエス様は、過越祭に十字架にお架かりになりました。それは金曜日でした。ですから、14章に記されておりますことは二日前、聖書ではその日を含めて数えますので、これは木曜日のことであることを示しております。
この過越祭と除酵祭というのは、イスラエルの民がエジプトの奴隷だった時、モーセという指導者が神様によって立てられ、エジプトを脱出しました。イエス様の時代より一千年以上前のことです。この時の出来事を記しているのが旧約聖書のエジプト記です。エジプトの王であるファラオは、貴重な労働力であるイスラエルの民がエジプトから出て行くことを許しませんでした。そこで神様は十の災いをエジプトに下して、遂にイスラエルの民をエジプトから脱出させられたのですが、その最後の災いは、エジプトの初子を、家畜も含めてすべて殺すという凄惨なものでした。そしてその時、イスラエルの人々が救われるように、イスラエルの家にはその災いが来ないように、その災いが過ぎ越して行くように、目印をつけました。その目印は、羊の血を門の鴨居と柱に塗るというものでした。この印がある家は災いが過ぎ超して行ったのです。この出来事を記念して守られる祭りが、過越祭でした。また、この時イスラエルの民は急いでエジプトを出ましたので、パンを発酵させる時間がありませんでした。このことを覚えて、パンの生地を発酵させる酵母菌、わたしたちの言うイースト菌ですね、これを家から除いて、酵母菌を入れないパンを食べる。これが除酵祭です。酵母を除く祭りと書いて、除酵祭です。
3.罪にまみれた知恵
この祭りはイスラエルの人々にとって、民族のアイデンティティーを確認する大切な祭りであり、民族意識が最高潮に達する時でもありました。世界中からユダヤ人たちが帰ってきて、この祭りに参加しました。
この時、祭司長たちや律法学者たちは、イエス様を殺そうと考えたのです。どうして、当時のユダヤ教の指導者たちは、イエス様を殺そうとしたのでしょうか。更に2節には、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう。」と言っていたとあります。どうして、祭りの間はやめておこうと考えたのでしょうか。
それは、イエス様がこれまで様々な奇跡を行い、教えを語ったので、民衆の中では、イエス様こそ旧約の預言者たちが語っていた、やがて現れるメシア、救い主、キリストではないかという期待が高まっていたからでした。イエス様がメシア=キリストであるとするならば、自分たちが築いてきた当時のユダヤ教における指導的な立場、秩序、それが根底から崩される。そのことを恐れたからです。だから殺そうとしたのです。しかし、民衆の支持がありましたから、民族意識が最高潮に達するこの祭りの時に、そのようなことをすれば暴動になりかねない。だから、祭りの間はやめよう。そう考えたのです。
ここには、自分が手に入れたものを何としても手放したくない人間の姿があります。自分に損害を与える者ならば、殺してでも排除してしまおうとする人間の姿です。これが、結局のところ損か得かで動いてしまう人間の姿なのでしょう。これを美しいと思う人はいないでしょう。しかし、これが損得だけで生きてしまう私共の姿なのです。悲しいまでに罪の中に生きている人間の姿です。「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう。」という知恵は、現実を観察し、それに的確な判断を下しています。なかなか大した知恵です。しかし、この知恵は、罪に染まった黒い知恵、悪知恵に過ぎません。
4.ベタニアの村
聖書は、この祭司長たちや律法学者たちに対比するように、3節からの出来事を記しています。場所はベタニア。エルサレムから3kmほど東に行った、小さな村です。イエス様はこの村の重い皮膚病の人シモンの家におられました。多分、この重い皮膚病にかかっていたシモンを、イエス様が以前、癒やされたのだろうと思います。それ以来、シモンとその家族は、イエス様に感謝し、イエス様を愛し、交わりを持っていたのだと思います。
その家でイエス様が食事をしていた時です。もちろん、この時イエス様は一人で食事をしていたのではありません。シモンの家の人やイエス様の弟子たちも一緒だったと思います。そこに一人の女性が入ってきました。そして突然、驚くべき行動に出たのです。彼女は自分の持っていたナルドの香油の入った小さな石膏の壺を壊して、その香油をイエス様の頭に注いだのです。部屋は、むせ返るほど香油の香りで一杯になったことでしょう。この香油は大変高価なもので、三百デナリオン以上に売ることが出来るものでした。三百デナリオンというのは、労働者の一日の賃金が一デナリオンでしたから、一年分の収入に当たる金額です。この行動は、「非常識な」と非難されても仕方の無い、突飛なものでした。実際、その場にいた人たちの何人かは「憤慨した」と聖書は記しています。
しかし、どうしてこの女性は、こんな突飛な行動をしたのでしょうか。理由は記されておりません。はっきりしていることは、イエス様が8節で「この人はできるかぎりのことをした」と言われているように、この女性は有り余る中からこのナルドの香油をイエス様の頭に注いだのではなくて、この高価な香油はこの女性にとって全財産と言っても良いようなものであったということです。確かに、この女性がどうしてこんなことをしたのか、聖書は何も記していません。ただ言えることは、この女性には、自分の全財産と言っても良いこのナルドの香油を、イエス様の頭に注がないではいられない何かがあったということ、そしてそれは感謝の思いであり、喜びの思いであり、愛だったのだろうということです。
この女性の行動に対して、その場にいた人の何人かが憤慨して、こう言いました。4~5節「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」彼女のことを厳しくとがめたのです。この人たちの言っていることは正論です。「もったいないことを。もっと有効に使うことが出来るのに。」ということです。
三百デナリオン以上で売って、貧しい人に施す。これは良いことであるに違いありません。皆さんもそう思われるのではないでしょうか。しかし、もしこの香油が一デナリオンの価値しか無いものだったらどうでしょうか。人々はこれほど憤慨したでしょうか。この女性のしたことをとがめている人々は、明らかに、三百デナリオンという金額に心が向いています。しかし、この女性はどうでしょう。彼女は、もしこの香油が一デナリオンの価値しかなくても、それが自分の持っているすべてであるとしたなら、同じことをしただろうと思うのです。彼女は計算していないのです。愛は計算しないものだからです。彼女はイエス様に、自分の持つ一番良いものを献げたかったのです。
5.貧しい人への施し
ここで、貧しい人に施すということについて少し考えたいと思います。これが良いことであることは、別に説明はいらないでしょう。しかし、これが神様に命じられたことだということは、あまり知られていないのではないかと思います。先程お読みしました申命記15章7節以下の所で、貧しい同胞に対して、必要とするものを十分に貸し与えなさいと命じられています。そして、その負債は七年ごとに免除しなさい、と1節にあります。10節には「彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。」とも言われています。貧しい人に対して貸すということは、結果的には与えるということになることもあるけれど、そうであっても与えなければならないと言われているのです。これが神様の御命令なのです。それは、自分たちの手で働いて得たものは、神様が祝福し、与えてくださったものだからです。だから、神様が与えよと言われたならば、与えなければならないのです。私共は、自分のものは自分のもの、そう思っているでしょう。しかし、私共が持っているものは、すべて神様が与えてくださったものなのです。自分の命も、富も、家族も、能力も、時間も、すべてです。ですから、自分の持っていると思っているもの、それは本来神様のものなのですから、神様にお返しする。それが「献げる」ということなのです。
確かに、自分のものは自分でどう使うかを決めることが出来ます。しかしそれは、神様に献げるということをしっかり弁えた上で用いるということなのです。ここで、この女性を厳しくとがめた人たちは、これを神様にささげる、その上で貧しい人に施すということを考えたのでしょうか。もし、そのことを本当によく弁えていたのならば、そして、この女性がナルドの香油を献げた方をまことの神の御子と信じていたのならば、このように厳しくとがめることはなかったのではないか、そう思うのです。
6.美しいこと
イエス様はこの女性をかばうようにして言われました。6~7節「するがままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」イエス様は明日、十字架の上で死ぬのです。イエス様はそのことを見つめておられます。貧しい人はいつもあなたがたと一緒にいる。これから、いくらでも貧しい人のために施すことは出来るし、そうしたら良い。でも、わたしはもう明日、十字架に架けられるのだ。そう言われたのです。もし、私共の愛する人が明日死んでしまうと知ったならば、出来る限りのことをその人のためにしよう、したい、そう思うのではないでしょうか。
そして、続けてこうも言われました。8節「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」イエス様は明日金曜日に十字架にお架かりになり、午後の3時に息を引き取られることになります。金曜日の日没、午後の6時頃でしょうか、そこから安息日が始まりますので、イエス様は十字架から下ろされると、取るものも取りあえず、墓に葬られたのです。当時の葬り方は、遺体を焼くことなく、そのまま横穴に入れます。遺体は腐敗し、臭いが出ます。ですから、遺体を葬るときには、遺体には香料を塗ることになっていたのです。しかし、イエス様の葬りの時、そのような時間はありませんでした。その意味で、このナルドの香油が、イエス様の葬り、埋葬の準備となったのです。
更にこう言うことも出来るでしょう。イエス様は救い主・キリストとして十字架にお架かりになるのです。すべての人の罪を担われる。全く罪無きお方として、十字架に架けられる。イエス様の十字架はその意味で、キリストの即位式であると言われます。このキリストとは、「油注がれた者」という意味のメシアというヘブル語を、全く同じ意味のギリシャ語に置き換えた言い方です。旧約において、油注がれて即位したのは、王様、祭司、そして預言者でした。イエス様は、まことの王、まことの祭司、まことの預言者として十字架にお架かりになりました。そのイエス様が、まことの王、祭司、預言者として油を注がれるという事が、このナルドの香油をかけられるという出来事によって成し遂げられたのです。
もちろん、この女性はそんなことは考えてもいなかったでしょう。しかし、イエス様は、この女性の出来る限りの献げ物を、そのようなものとして喜んでお受け取りくださったということなのです。イエス様は、この女性のしたことを、6節で「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」と言われました。この「良いこと」とは、「美しいこと」とも訳せる言葉です。イエス様は、この女性の出来る限りの献げ物をする行為を、美しいことと言ってくださった。そして、御自身の埋葬の準備、キリストの油注ぎとして受け取ってくださった。イエス様はそのように、私共が出来る限りの献げ物を献げることを、美しいこととして受け取ってくださり、私共の思いを超えた意味を与えてくださるのです。
この女性のした行為は美しい業として、二千年経っても、この地球の裏側まで伝えられました。この女性はそんな風になるとは考えたこともなかったでしょう。私共は何も、自分のしたことがそのように世界中の人に覚えられることを求めているわけではありません。しかし、この女性のしたことは、誰よりもイエス様御自身、神様御自身が覚えてくださったことでありましょう。そこに、この女性の喜びがあったのだと思います。
私共は今朝、献げる者として生きるようにと御言葉を受けました。損得を超えて私共に命を与えてくださった神様に、私共のために御自身の命を献げてくださったイエス様に、私共は、自分の持っている力も時間も富も、お献げして歩んでいきたいと思います。私共の献げる物がどんなに小さなものであっても、それが出来る限りの献げ物であるならば、神様は喜んで受け取ってくださり、美しいと言ってくださり、覚えてくださるのです。そこに私共の本当の喜びがあります。
[2015年7月5日]
へもどる。