富山鹿島町教会

礼拝説教

「目を覚ましていなさい」
イザヤ書 40章6~8節
マルコによる福音書 13章28~37節

小堀 康彦牧師

1.いちじくの木から学ぶこと
 イエス様は、御自身が十字架にお架かりになる直前に、世の終わり、終末について預言なさいました。マルコによる福音書13章全体がその預言を記しているのですが、その最後の所、今朝与えられている御言葉ですが、28節「いちじくの木から教えを学びなさい。」と告げられました。いちじくの木から何を学ぶのか。イエス様は続けてこう言われます。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」いちじくの木は、当時のユダヤにおいて最も一般的に見られる木の一つでした。夏に実をつけるのですけれど、その前に青々とした葉が茂るので、いちじくの木は、ユダヤで季節を感じさせる代表的な木だったのです。
 私共も、目にまぶしい新緑の季節になりますと春が来たと思いますし、紅葉を見れば秋だなあと思います。そろそろ冬だ、車のタイヤも替えなければとも思います。そして冬が来て雪が降る。その冬も、桜が咲いて終わります。桜が咲けば春が来たと嬉しくなる。これは自然のサイクルです。季節の巡りを感じさせるものは違っていても、世界中、その土地その土地の季節を感じさせるものがあります。北陸の冬の到来を告げる雷、「鰤起し」などと言われますが、これなどは太平洋側の人はびっくりする現象です。太平洋側で雷と言えば夏と決まっているからです。
 このように、それぞれの土地に季節感をもたらす自然現象はいろいろあるわけですが、イエス様はここで、そのような自然現象を見て季節を感じなさいと言われたのではありません。そうではなくて、季節は移る、時は過ぎる、そのことを知るならば、「やがて終わりが来ること」を悟れと言われたのです。
 私共は、春が来れば次は夏、夏が来れば次は秋、秋が来れば冬、そして冬が過ぎればまた春が来ると思っている。確かに来るのです。しかし、年々ですね、その巡りが早くなるのを感じるでしょう。それは、やがて終わりが来るということなのです。そのことを悟れとイエス様は言われたのです。
 少し前に、世の終わりである大きな終末と、私共の人生の終わりである小さな終末があるということをお話ししました。世の終わりである終末についてはあまりピンと来ない人でも、自分の人生に終わりがあるということは分かります。この二つの終末、大きな終末と小さな終末には重なるところがあります。それは、この世界にしても、自分の人生にしても、それが閉じられることによって完全に終わってしまうのではないということです。大きな終末は、ここでイエス様が「人の子が戸口に近づいている」と言われたように、「人の子」つまりイエス様御自身が再び来られる。そのことによって、この目に見える世界は終わり、新しい世界が来るわけです。それと同じように、小さな終末、私共の人生は死をもって終わるのですけれど、それですべてが終わるのではないのです。死の向こうに、復活の命によみがえってイエス様と再びお会いするということがあるのです。私共は、このことを悟れと言われているのです。
 新聞を開けば、毎日のように、戦争が続いている、テロがあった、大きな地震があった、飢饉がある、経済的な危機が迫っている、そのような報道がある。それらは、イエス様がこのマルコによる福音書の12章ですべて告げておられることです。そういうことは起きるのです。今までも起きたし、今も起きているし、これからも起きるのです。けれど、それが世の終わりではないとイエス様は明言されました。しかし、そういうことが起きたなら、悟らなければならないのです。イエス様が再び来られる。終わりが来る。そのことを悟れ。そうイエス様は言われたのです。

2.目を覚ましている
 悟ってどうするのでしょうか。それは、終わりが来ることを知っている者として生きよ、いつ終わりが来ても良いように備えて生きよ、ということです。この「終わりがいつ来ても良いように生きる」、それが「目を覚ましている」ということなのです。
 イエス様は32節で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」と言われました。大きな終末がいつ来るのかは、イエス様も天使たちも知らないのです。天地を造られた父なる神様しか知りません。いつの時代にも、「○年○月に世の終わりが来る。」と言って不安をあおる人々がいます。しかし、彼らはみんな嘘つきです。特にキリスト教系の宗教でそのように言う人たちは、全く嘘つきです。イエス様はこのように、「わたしも天使たちも知らない」と言われたのですから、いつ終わりが来るかを自分は知っていると言う人は、自分はイエス様よりも天使よりも知恵があると言っているのと同じです。これはあり得ないことでしょう。勘違いをしているとしか言いようがありません。
 イエス様はここで、終末がいつ来るのかは分からないと言われたのですが、分からないから備えていなければならないということなのです。イエス様がこのことを告げられて2000年経つけれど、まだ「終わりの日」は来ていないではないか。だったら、自分の目の黒いうちには来ないだろう。そう思う人も多いかもしれません。しかし、たとえそうであっても、私共一人一人にやがて来る小さな終末から逃れられる人は誰もいないのです。そして、それはいつやって来るか分からない。私はおどかしているのではありません。イエス様も私共を恐れさせようとされたのではないのです。そうではなくて、終わりが来ることを知らない者のように、ただ面白おかしく生きれば良いということではダメだ。そしてまた、終わりが来るのだから何をやっても無駄だと、すべてを諦めて生きるのでもない。イエス様が再び来ることによって来る終わり、新しい世界の創造、そして自分の人生の終わり、イエス様の御前に立つその日が来ることを知っている者は、第三の道を歩むのだ。それが「目を覚まして生きる」ということなのです。
 「目を覚ましていなさい。」ということを、33節、35節、37節で、イエス様は繰り返しお語りになりましたけれど、その前に31節で、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と告げられました。天地は滅びる。それがいつ来るのかは分からない。でも、心配することはない。何故なら、イエス様がお語りになった言葉、救いの約束、それは決して滅びないからです。天地が滅びても滅びることのないイエス様の言葉、救いの約束。それはこの世界が終わる時、イエス様が再び来られて世界を新しくされる。御心が天になるごとく、地にもなる。そのような世界を造られるということであり、この地上での生涯を閉じた者が、その時イエス様の御前に復活させられるという約束です。肉体の死を超えた永遠の命、復活の命を与えてくださるという、救いの約束です。その約束は確かなことだから、いつ終わりが来るのかとびくびくすることもないし、どうせ終わるのだから面白おかしく生きれば良いということでもない。いつ終わっても良いように「目を覚まして生きよ」と言われたのです。

3.旅に出る人
この「目を覚まして生きる」というあり方を、イエス様は34節で、「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。」と言われました。このたとえにおいて、「僕たち」とは私共のことです。「家を後に旅に出る人」とはイエス様のことでしょう。
 イエス様はこのことを教えた数日後に十字架にお架かりになるのです。もちろん、イエス様は、十字架にお架かりになって終わったのではありません。三日目に復活され、40日にわたってその復活の姿を弟子たちに現されました。そして、天に昇って行かれました。今は天の父なる神様の右におられ、父なる神様と同じ権威、力をもってこの世界を支配しておられます。しかし、私共はこの目でイエス様を見ることは出来ません。その意味で十字架にお架かりになられるイエス様は、僕たちを残して旅に出るようなものなのです。そしてイエス様は、この地上に残される弟子たちに仕事を与え、責任を持たせ、再び御自身が来られる時まで「目を覚ましているように」と言われたのです。
 イエス様は旅に出たのですから、必ず戻って来られるのです。それがイエス様の再臨です。もう戻って来られないのであれば、僕たちは待つ必要はありません。目を覚ましている必要は無いのです。しかし、イエス様は来られるのです。だから、私共は目を覚まして待っていなければならないのです。

4.目を覚まして祈る
 この「目を覚ましているように」と告げられた門番の仕事、目を覚まして為し続けなければならない仕事、責任とは何でしょうか。ここには具体的には記してありませんが、幾つも考えることが出来るでしょう。以下、三つのことを考えてみます。
 第一に思わされますことは、この「目を覚ましていなさい。」とイエス様が言われたもう一つのとても有名な場面、それは14章32節からのゲツセマネの祈りの場面です。イエス様が捕らえられる直前、イエス様はペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人の弟子を連れて、ゲツセマネの園で祈られました。この時、イエス様は御自身の十字架の死を目前にして本当に必死に祈られたのですが、その時ペトロたちは眠りこけてしまったのです。しかも、起こされても起こされても眠ってしまう。実に三回も眠りこけてしまったのです。その弟子たちにイエス様が言われたのが、「目を覚まして祈っていなさい。」という言葉でした。
 この出来事はペトロとヨハネとヤコブしか知らない出来事ですから、彼らが黙っていればこのように聖書に記されることはなかったでしょう。しかし、この様に聖書に記されているということは、彼らが自分でこの出来事を話したということです。私は、彼らが何度もこの話をしたのではないかと思います。「私たちは、イエス様が十字架にお架かりなる前の日に必死で祈っておられたのに、眠りこけてしまった。イエス様は『目を覚まして祈っていなさい。』と言われた。だから、もう眠りこけることなく、私たちは祈りつつ歩んでいくのです。」そのように話したのではないでしょうか。
 このことを考えますと、「目を覚まして生きる」ということは、祈る者として生きる、祈りを忘れずに生きる、ということになるのではないかと思います。終わりが来る。しかしそれは、イエス様が再び来られるというあり方で来るのです。ですから、いつイエス様が来られても良いように、イエス様の御前に生きる。それは祈る者として生きる、祈りつつ生きるということになるのでありましょう。

5.目を覚まして教会を守る
 第二に、ここでイエス様は、弟子たちつまり私共を門番にたとえられているわけです。門番とは、主人の家を守るために立っている者でしょう。もちろん、一人の門番がずっと寝ないで起きているというわけにはいきません。今風に言えば、三交代制ということだったのかもしれません。この主人の家とは、イエス様の家ですから教会のことでありましょう。ですからこれは、教会を守る、イエス様の教え、イエス様の救い、それを盗まれないように、つまり間違ったものに変えられないように守るというようにも読めるでしょう。そして、そのように使徒以来の信仰を守っていくという責任・使命というものは、一人の門番だけに課せられている責任ではありません。僕全員、つまり教会全体に課せられている使命であり、責任なのです。

6.目を覚まして愛に生きる
 第三に、イエス様は一番大切な教えとして、神様を愛することと隣人を愛することを教えてくださいました。ですから、この「目を覚まして生きる」ということは、愛に生きることなのだとも言えるでしょう。神様に愛され、神様を愛する。隣人を愛し、隣人に仕える。この愛に生きることこそ、目を覚まして生きる者の姿なのだと言っても良いと思います。山に籠もって大変な修行をすることなど、イエス様は私共にお求めになったりはしません。そうではなくて、日常の、目の前にいる一人一人に心を遣い、時間を使い、体を使うことです。愛に生きるということは、仕える者として生きるということです。それは、何か困難な人のためにボランティアをするというようなことではありません。もちろん、それは良いことでしょう。しかし、大切なのは、自分の目の前にいる人を愛し、これに仕えるということです。
 祈って、教会を守り、愛に生きる。それが終わりの来ることを知った者としての、私共の責任・使命であり、「目を覚まして生きる」ということなのでありましょう。

7.目を覚ましている者として礼拝を守る
 私共は、毎週ここに集まって主の日の礼拝を守っております。この礼拝を守る中に、祈って、教会を守り、愛に生きる私共の具体的な姿があると言いますか、祈りつつ生きる、教会を守る、愛に生きるということの扇の要の位置にあるのが、この主の日の礼拝なのです。主の日の礼拝を守ることによって、私共は「祈って、教会を守り、愛に生きる者」として整えられ、押し出されていくのです。
 言い換えますと、私共は主の日のたびごとにここに集まって、終わりの日への備えをしている、いつ終わっても良いための備えをしているということなのです。この礼拝において、私共はイエス様の御言葉、イエス様が与えてくださった救いの約束が確かなものであることを心に刻み、その御言葉を信頼して、新しい一週へと歩み出していくのです。その新しい一週間の歩みとは、ただ時が過ぎていく一週間ではなく、明確に神の国に向かっての、イエス様が再び来られる日に向かっての歩みなのでしょう。この礼拝において、私共は祈る者としての姿勢を正され、イエス様の教えを聞き、愛に生きる者としての志を新たにされるのでしょう。
 私共は、高齢になり体が不自由になる中で、礼拝に集うことが難しくなります。あの玄関の階段を上るのが大変になる。一時間座っているのが辛くなる。そういうことがありましょう。しかし、主の日には、何とかして、出来る限り、いや何としてもここに集いたいと願う。それは、私共が目を覚ましている者とされているからなのでしょう。父・子・聖霊なる神様を愛し、これを慕う者とされているからです。神様との親しい交わりの中に生かされているからです。この神様との交わりこそ、イエス様が来られる時、神の国が完成し、新しい天と新しい地において、永遠の命、復活の命を与えられる私共に備えられている救いの先取りです。この礼拝こそ、天地が滅びても決して滅びることのない、イエス様の救いの約束の確かさを味わう時なのです。
 私共の信仰はまことに弱いものです。肉体の衰え、痛み、困難な状況や悲しい出来事に出会う時、すぐに揺らいでしまう。本当に神様は私を愛しておられるのだろうか。そんな風に思ってしまうことがある。誰にでもあります。イエス様はそのことをよく知っておられました。だから、「目を覚ましていなさい。」と告げられたのです。すぐに眠りこけてしまう私共の弱さを御存知だからです。

 今朝、私共はイエス様から「目を覚ましていなさい。」との御言葉をいただきました。「目を覚ましていなさい。」とイエス様は私共一人一人に告げられたのです。このイエス様の御言葉が私共一人一人の心に宿り、この一週間の新しい歩みのすべての局面において私共の一足一足の歩みを導いてくださることを、心から祈り願うものであります。

[2015年6月28日]

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