1.花の日
今日は花の日です。講壇にも花が飾ってあります。「花の日」ですから花を飾るのですけれど、「花の日」というのは、実はキリスト教の「こどもの日」なのです。子どもたちが心も体もこの花のように咲き匂うように、健やかに成長するようにと願って花を飾って礼拝したのが始まりです。19世紀のアメリカの教会で始まり、宣教師たちがキリスト教を伝えると共に、この花の日も伝えられました。ですから、キリスト教系の幼稚園や学校でも、花の日を守っています。多くの場合、花を飾って礼拝した後、その花を持って日頃お世話になっている人たちの所に行き、感謝の心を表します。交番とか消防署とかに行くことが多いようですが、わたしたちの教会学校ではお隣の逓信病院に行きます。今日は、花と一緒にカードもお渡しします。そして、讃美歌も歌うことになっています。「神様、この人たちを早く元気にしてください。」とお祈りもします。
2.愛
教会でいつも大切にしているのは、そのように自分以外の人に対して心を遣うということです。今日は逓信病院に行きますけれど、そこで働いている看護師さん、また入院されている人たち、そのような人たちに対して「頑張ってください。」「元気になってください。」そのような心を持てる人になることをとても大切にしているのです。この心を「愛」と言います。
教会は「愛」を大切にしている所です。愛が大切であることを教えられ、愛を大切にする人になろうという人たちが集まっています。だから教会に来ると、愛という言葉をとてもよく聞くことになります。教会に来ている人にとって、愛という言葉は、いつも聞いている言葉ですから別に驚きはしません。でも、この愛という言葉は、教会以外の所では、それ程普通に使われてはいないように思います。歌の中やテレビのドラマの中では使われても、普段は「愛している」とか「愛されている」とはあまり言わないようです。お母さんがお父さんに「わたしを愛している?」なんて聞くときは、それはそれで大変な時でしょう。そのように愛という言葉をあまり使わないのは、多分、愛というものに、それ程心が向いていないからなのかもしれません。
しかし、教会では違います。日曜日に教会に来て、帰るまでの間に、一回も愛という言葉を耳にしなかった。そんな日はきっと無いと思います。今、ヨハネの手紙一4章7~12節をお読みしましたが、ここには15回も愛という言葉が使われています。この聖書の箇所を読むだけで15回、更に説教の中にも讃美歌の中にもありますから、今日はきっと100回以上、愛という言葉を耳にすると思います。
3.神は愛です
今日は、この愛について、三つのことをお話しします。
一つは、「神様は愛です。」ということです。愛は、わたしたちの心に自然に生まれてくるのではなくて、愛である神様がわたしたちに働きかけてくださって、わたしたちに愛を注いでくださって、それでわたしたちの心に生まれてくるものなのだということです。こう言っても良いと思います。愛である神様に出会って、わたしたちは愛を教えていただいた。愛を知ったということです。
生まれたままのわたしたちは、いつも自分が一番大切です。ですから、他の人のために我慢したり、他の人の気持ちを考えるなんてことは出来ません。赤ちゃんはお腹がすくと泣きます。おしめが濡れると泣きます。何かよく分からないけれど泣きます。そうすると、お父さんもお母さんも、お腹がすいたのかな、おしめが濡れているのかな、抱っこしてやらないといけないかな、いろいろ考えてすぐに動きます。お父さんもお母さんも、ご飯を食べている時だって赤ちゃんが泣けばすぐ動きます。赤ちゃんは、お父さんやお母さんがご飯を食べ終えたら泣こう、今は眠っているから起きたら泣こう、そんな風に気は遣いません。その意味では、赤ちゃんはとてもわがままです。でも、赤ちゃんはそれで良いのです。だって、自分では何も出来ないのですから。赤ちゃんは、そうやって泣く度にお父さんやお母さんが自分のためにいろいろやってくれる、そういう中で愛されているということを知っていきます。赤ちゃんは、放っておいても自然に愛を学んでいくのではありません。自分のために大変なことも喜んでやってくれるお父さん、お母さんに育まれて、愛を学んでいくのです。
神様はわたしたちに、お父さん、お母さんを備えてくださって、愛すること、愛されていることを教えてくださるのです。お父さん、お母さんにしても、赤ちゃんが与えられることによって、自分のことばかり一番にしていてはいけないということを学んでいくのです。愛を学んでいくのです。それはみんな、神様がわたしたちに愛を教えてくださるからなのです。
4.愛は求めません
第二に、愛は相手に何かしてもらうことを求めません。
皆さんは、明るく元気に「おはよう。」と挨拶するでしょう。でも、その相手の人が、「おはよう。」と言ってくれないとがっかりしますね。何だ!と思うかもしれませんし、もうあの人に「おはよう。」なんて言わない、そう思うかもしれません。あるいは、その人が「おはよう。」と元気に言うまで、自分の顔をその人の顔に近づけて何回も何回も「おはよう。おはよう。おはよう。おはよう。」と言うかもしれません。でも聖書は、「おはよう。」と言ってくれなくても、元気に「おはよう。」と言い続けるのですと教えます。そして、それが愛なのですと教えるのです。「おはよう。」と返事してくれるのを求めることなく、「おはよう。」と言い続けるのです。
それが、イエス様の十字架によって示された、神様の愛の姿だからです。自分を造ってくれて、必要のすべてを備えてくださる神様に対して、感謝もせず、信頼もせず、神様なんて関係ないと生きていたわたしたちのために、神様は、愛する独り子であるイエス様を、わたしたちの身代わりとして十字架にお架けになったのです。ここに愛があります。神様は、わたしたちが神様を愛したから、信じたから、良い子だから、わたしたちを愛したのではありません。神様なんて関係ないと言って生きていたわたしたちのために、イエス様を与えてくださったのです。自分に逆らい、敵対していたわたしたちのために、一番大切な独り子であるイエス様を十字架にお架けになったのです。ここに愛があるのです。わたしたちはこの愛を教えられ、この愛に生かされ、この愛に倣う者となるようにと招かれたのです。
ですから、返事をしてくれない人にも、わたしたちは明るく元気に「おはよう。」と言い続けるのです。そうすれば、そのうちいつか、その人も「おはよう。」と言ってくれるようになるのでしょう。
5.愛は簡単ではありません
第三に、愛することは素晴らしいこと、美しいことですけれど、簡単なことではありません。コリントの信徒への手紙一13章4~7節に「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とあります。「おはよう」と言っても、「おはよう」と言ってくれない。腹が立つこともあります。でも我慢します。でも耐えなければならないことがあります。そこで、わたしたちは祈ることを学びます。神様が働いてくださることを祈ります。耐える力の無い私が耐えられるようにと祈ります。そして何よりも、愛の無い私に愛を注いでくださいと祈ります。
愛は、自分の中だけで終わりません。私の気持ちの問題ではないのです。具体的な相手がいるのです。愛は、私とその具体的な人の間にあります。私だけのことなら、私が頑張れば良いのでしょうけれど、愛は人と人との間の関係ですから、どうしても神様が相手に働いてくださらなければ成立しません。ですから、わたしたちは祈らざるを得ないのです。そして、この祈りもまた、神様がわたしたちに与えてくださるのです。
6.十字架は揺らがない
わたしたちは神様に愛されています。それに気付いていない人は大勢います。でも、神様に愛されていない人は一人もいません。神様に愛されていなければ、わたしたちのこの地上の命はありませんし、水も空気も食べ物も、お父さんもお母さんも兄弟もお友達も、私たちが生きていく上で必要なものを何一つ手に入れることも出来ないでしょう。この神様の愛は、イエス様の十字架という形で、はっきりと示されました。
わたしたちは苦しかったり、困ったり、悲しかったりすると、本当に神様は私を愛しているのかしらと思ったりすることがあるかもしれません。しかし、そのような時もこの礼拝堂に来るならば、イエス様の十字架はしっかり立っています。少しもぐらぐら動いていません。これは神様の揺らぐことのないわたしたちへの愛の証しです。「ここに愛がある」と示し続ける十字架です。この十字架をしっかり見上げて、どんな時も愛を注いでください、愛の交わりを形作ってください、耐える力を与えてくださいと、祈りつつ歩んで参りましょう。そのように願い、祈る人たちの中に、神様は必ず宿ってくださるのですから。
[2015年6月14日]
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