富山鹿島町教会

礼拝説教

「偽者に惑わされないように」
イザヤ書 52章7~10節
マルコによる福音書 13章14~27節

小堀 康彦牧師

1.マルコによる福音書13章
 マルコによる福音書を読み進めております。マルコによる福音書は16章で終わるのですが、今朝与えられております御言葉は13章です。14章からはイエス様の受難の歩みが具体的に始まりますので、この13章はイエス様がまとまった形で語られた最後の教えと言って良いでしょう。その意味では、イエス様の遺言のような性格もあると言えます。またこの13章は、マルコによる福音書の小黙示録と呼ばれ、イエス様が終末について預言されたことが記されている所です。しかし、よく読んでみますと、終末そのものというよりも、終末が来る前に起きる大変な出来事について記されていることがほとんどです。
 13章の初めから順に見て参りますと、6節に「わたしの名を名乗る者が大勢現れ」とあります。つまり、「私がイエス・キリストだ。」「再臨のイエス・キリストだ。」「イエス・キリストの生まれ変わりだ。」そんなことを言う者が現れるというのです。それも一人や二人じゃない。大勢です。7節には「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞く」、8節には「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」、つまり民族紛争や世界大戦のようなものがあるというのです。また、「方々に地震があり、飢饉が起こる」というのです。更に9節や13節では迫害も予告されております。このように、イエス様は、偽キリストが現れ、戦争、地震、飢饉、迫害が起きるというのです。どれもこれも、その場に居合わせれば「もう世界の終わりだ。」と言いたくなるひどいことです。しかし、イエス様は、7節で「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」と告げられました。確かに、イエス様がこのことを語られた時からずっと、いつでも戦争も地震も飢饉も迫害もありました。偽キリスト、今で言うカルト宗教でしょうが、これもいつの時代にもありましたし、今もあります。しかし、まだ世の終わりではありません。もっと正確に言うならば、もう終わりの時は始まっているけれど、完全には終わっていないということでしょう。何故なら、私共の救い、この世界の救いはまだ完成していないし、この世界はまだ完全に新しくはなっていないからです。
 イエス様がこのような終末についての預言をなさいましたので、終末と言えば何かとんでもなく恐ろしいことが起きる、私共はそのようなイメージを持っているかもしれません。しかし、それらの恐ろしいことは、終末そのものではないのです。終末の前に起きることなのです。そして、それらの恐ろしいことは今までも起き続けてきましたし、今も起きています。  ですから、これらのイエス様の言葉から、私共は「自分たちはもう終わりの時に生きているのだ」ということを知らなければならないということなのでありましょう。この「終わりの時」に生きている私共の為すべきこと。それは決まっております。父・子・聖霊なる神様を信じ、これを愛し、これに従って生きるということであります。目に見える様々な誘惑を退けて、既に救われた者として生きるということです。そして、その終わりの日に生きる私共の姿は、この主の日の礼拝に集うというあり方において、最も明らかに示されるのでありましょう。いつ終わりの時が来ても良いように、主の御前に立たされる日に備えている者の姿が、この礼拝に集う私共の姿なのであります。

2.憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ
 さて、今朝与えられております御言葉において、終わりの日が来る時の徴について、もう一つ加えております。14節「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら‐読者は悟れ‐、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」とあります。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」というのです。これは何を意味しているのでしょうか。戦争や地震や飢饉といったものとは少し違うようであります。
 多くの学者たちは、このイエス様の言葉の背後には、当時のユダヤ人ならば誰もが知っている、すでに起きた具体的な出来事が下敷きとしてあると言います。その出来事というのは、イエス様がこのことをお語りになった時から約200年程前、紀元前167年に、当時ユダヤを支配しておりましたセレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスという王様が、エルサレムの神殿にギリシャの神であるゼウスの像を建てたということがあったのです。まさに、神以外立ってはならない所に、憎むべき破壊者が立った。ユダヤ人たちは怒り、マカベアという人を指導者に立ててこれに対抗し、シリアを打ち破るということがありました。そのことを下敷きにしているというのです。そうなのかもしれません。  あるいは、イエス様がこのことを語られてから40年後、紀元後70年にユダヤはローマによって滅ぼされるわけですが、その時エルサレム神殿は破壊されてしまいます。そのことを指していると言う人もいます。イエス様はこの預言の中で、「そのような時は逃げよ。」と言われたのですが、実際、生まれたばかりのキリスト教会はこの時、エルサレムから逃げたのです。多くのユダヤ人たちがエルサレムに立てこもる中、キリスト者たちは逃げたのです。
 あるいはまた、王様や独裁者が自らを神として、キリスト者に自らを拝むことを強制する。そういうことだって何度も起きました。そのようなことは歴史の中で何度もありました。しかし、イエス様がここで告げられたことは、そういうことだけではないのだと思います。権力者やこの世の王が、本来あがめられるべき神様に取って代わる、そういうことだけではなくて、本来あがめられるべき神様がないがしろにされ、神様以外のものが第一とされ、あがめられる。十戒の第一の戒、「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない。」が公然と破られる。どんなに大切なものであっても、美しいものであっても、それを神様としてはならないのであって、それを神様のようにあがめてしまえば、それは憎むべき破壊者になってしまうのです。それが国家であれ、富であれ、芸術であれ、人間の理性であれ、科学技術であれ、尊敬すべき偉大な人であれ、同じことです。神様以外のものが第一となれば、神様以外のものが神となれば、そこで起きることは、今まで経験したこともないような苦難なのだとイエス様は告げられたのです。

3.偽メシアや偽預言者
 そして、その典型として、22節「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。」とあるように、偽メシアや偽預言者の出現が挙げられているのです。カルトと呼ばれる反社会的な宗教は山程あります。インターネットで「カルト」で検索すれば、山のように出て来ます。ここで具体的な名前を出すことはしませんが、仏教系のもの、神道系のもの、キリスト教系のもの、何でもあります。しかし、イエス様がここで言おうとされたのは、そのようなカルト宗教のことだけではないのです。
 神様以外のものが神様のようにあがめられる時、人間は最も厳しい苦難を味わうことになるということなのです。「私について来れば幸せにしてあげる。」そんな言葉に惑わされてはならないと言われたのです。その人が奇跡を見せようとも、惑わされてはならないのです。あなたがたの本当の幸いは、その人や、その思想や、その組織が約束する、目に見える何かを手に入れるというような所には無いからです。それは私共を幸いにするどころか、最も厳しい苦難を味わせることになるというのです。何故なら、それによって私共は神様に造られた本来の自分を完全に見失ってしまうからです。神様との関係を絶ってしまうことになるからです。これこそ、私共にとって最も辛いこと、まことの命を失うことなのです。良いですか、皆さん。この地上において何を手に入れようと、それらはすべて失われていくのです。消えていくのです。私共が受け継ぐべき良きものは、この地上の目に見えるものには無いのです。ただイエス様のみ。この方だけが私共の一切の罪を赦し、私共を神の子とし、永遠の命を与えてくださるのです。ここにだけ、私共のまことの希望、私共が生涯を捧げて生きるまことの命があるのです。ここを離れて、私共の命は無いのです。
 イエス様はここで、終末の前にどのようなことが起きるのかということをお語りになることによって、終わりの時がもう始まっているのだ、私共が生きているこの時代に起きていることは一体何なのか、そのことを示そうとされたのです。イエス様はこの預言によって、終わりの時に生きていることをしっかり受け止めて、決して惑わされないように気をつけなさいと告げられているのです。

4.再臨
 では、本当に終わりの日が来た時、何があるのか。聖書はいろいろなイメージで終わりの日に起きることを告げておりますけれど、はっきりしていることは、イエス様が再び来られるということです。これを教会では、イエス様の再臨、再び臨むと書いて、再臨と言います。26~27節「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」と言われていることです。
 最初にイエス様が来られた時、それは二千年前のクリスマスの時ですが、その時にはこの赤ちゃんが救い主だとは分かりませんでした。そのことを知らされたのは、ヨセフとマリア、そして何人かの羊飼いと東方の博士たちだけでした。しかし、再臨される時のイエス様はそうではありません。誰が見ても分かる、そういうあり方で来られるのです。そして、世界中から「選ばれた人たち」を呼び集めるのです。そして、新しい世界、永遠の命に与る神の国の完成、私共の救いの完成が為されるのです。私共は、その日を待ち望みつつ、一日一日の為すべき業に励んでいくのです。
 終末ということについて聞いても、あまりピンとこないと言う人もいるだろうと思います。私もそうでした。特に若い時は全くピンときませんでした。しかし終末というものには、イエス様の再臨と共にやって来る終わりの日、これが本来の終末ですが、これを大きな終末と呼ぶことも出来るでしょう。このほかに、私共には各々、確実にやって来る「死」という終わりの日があるのです。これを小さな終末と呼んで良いと思います。大きな終末も小さな終末も、これから逃れられる人は一人も居ません。誰にでも例外なくやって来ます。そして、大きな終末を知り、それに備えて生きる者は、この小さな終末に対しても備えをしている。そう言って良いのです。

5.K.S.さんの葬儀
 週報にありますように、元私共の教会員であり、この地上の最後の日までK教会の長老であったK.S.さんが、先週の火曜日の朝、突然逝去されました。55歳でした。3年程前に大腸がんの手術をされ、その後抗がん剤の治療を続けておられました。私が一昨年、K教会の代務者をしておりました時も、抗がん剤の小さなボトルを胸のポケットに入れて、点滴をしながら長老会に出席しておられました。なんてすごい方かと思いました。
 火曜日の早朝、お風呂に入ると言われ、家族の方が気付いた時には、もう亡くなられていたようです。その前の週、I.Y.先生の葬式がK市であり、その折りに元気なお姿を見ていたところでした。K教会でも、逝去された二日前の主の日はいつも通り教会学校の校長として奉仕をされ、会計の奉仕もされ、全くいつもと同じであったようです。月曜日はいつものようにH学院で子どもたちに授業をされておられました。それ故、家族を初め、勤め先のH学院の方々も、教会の方々も、ただただ驚き、悲しく、辛いことでした。
 私は、金曜日、土曜日と、お父さんのK.T.さんを車に乗せてK教会まで送迎することを家族の方から依頼され、ずっとK.T.さんと一緒におりました。前夜式には700名くらいの方がお見えになっていました。前夜式の献花の時には、御遺族の方がお一人お一人と言葉を交わされ、一時間以上かかりました。皆、K.S.さんの元気で明るい声、笑顔を思い起こし、泣くしかありませんでした。
 しかし、その葬儀を通して明らかにされたことは、K.S.さんが永遠の命を信じ、終末を目指して、為すべき事を為し続けられたという、キリスト者としての姿でした。
 多くの小学生も父母と共に参列していました。そして、主の祈りを祈る時、子供たちの大きな声が聞こえ、K.S.さんは子どもたちにこれを伝えるために生きられたのだと思わされました。司式をされたI.M.先生は、前夜式は大人向け、葬式は子ども向けの話をされました。「これはK.S.先生の最後の授業です。死というものをみんなに伝える、最後の授業です。」そう言って、葬式の説教を始められました。そして、K.S.さんが大好きだったザアカイの話を、子どもたちにされました。奏楽は長女のMさんでした。K.S.さんは、当教会において19歳で信仰告白をされましたが、その時まで信仰告白をされなかったのは、「永遠の命」というものが分からなかったからということでした。そして、19歳の時にそれを信じて受け入れ、信仰告白をされた。それからは、それこそ一筋にイエス様にお仕えする者として歩み通されました。私がK教会に行きますと、K.S.ご夫妻、そして長女のMさん、次女のYさんの姿がいつもありました。多少体調が悪くても、仕事が忙しくても、礼拝を休まれることは無かった。それは、K.S.さんにとって生きることは、明確に神の御国を目指して、終わりの日を目指しての歩みだったからなのです。
 骨上げを待っている時に、ご家族と何人かの教会の婦人の方が話をしておられました。そして、私の耳に、長女のMさんが「これで死も怖くなくなった。怖いもん無し。」と大きな明るい声で言っているのが聞こえました。まだ25歳の女性です。娘がこんな言葉を言える程に、イエス様と共に生きることがどういうことなのかを、お父さんのK.S.さんは身をもって教えてこられたのだろうと思わされました。

6.結び
 私共は今から聖餐に与ります。この聖餐は、イエス様が再び来られる時、イエス様と共に食卓に着く食事を指し示し、その恵みを先取りするものです。この食事に与る者は、自らが「主によって選ばれた者」であることを心に刻みます。そして、自らに与えられているイエス様の救いの約束、永遠の命の約束が確かなものであることを受け取るのです。私共の地上の命には終わりがあります。しかし、それですべてが終わるのでもないし、主イエス・キリストにあっての私共の交わりもまた、終わりはしないのです。イエス様によって私共の名が呼ばれ、イエス様の御前に再び立つ時、私共は一人ではない。代々の聖徒と共にその場に立つことになるからです。
 あの十字架に架かり、三日目によみがえられたイエス様。天に昇り、すべてを支配し、私共に聖霊を注ぎ、信仰を与えてくださったイエス様。やがて天より再び降り、選ばれし者たちを御自分のもとに集められるイエス様。このお方以外のいかなる者が与えると言い寄ってくる幸いにも惑わされることなく、イエス様が備えてくださっている御国を目指して、この一週もまた、それぞれ遣わされている所において、神の子、神の僕として、為すべき務めに励んで参りましょう。

[2015年6月7日]

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