1.聖霊なる神様のお働きの中で
先週、私共はペンテコステの記念礼拝を守りました。イエス様が復活されて五十日目、イエス様が天に昇られてから十日目に、弟子たちに聖霊が降った。そして、弟子たちは聖霊に満たされて、いろいろな国の言葉で語り出しました。この日以来、キリストの弟子たちは世界中に出て行って、イエス様の救いの恵みを語り続けています。今朝も、世界中で何百万という教会の説教壇から、その国の言葉でキリストの福音が宣べ伝えられています。大都会の真ん中の教会において、山の中の教会において、砂漠の中の教会において、千人を超える人々を前に、そして数人の会衆に向かって、キリストの福音が宣べ伝えられています。イエス様の福音が告げられている場所も状況も言語も違います。しかし、告げられていることは同じです。それはペンテコステの日に弟子たちが告げたことであり、二千年経っても、全く違った状況においても、告げられることは少しも変わることがありません。それは、キリストの教会が聖霊によって建てられ、聖霊によって導かれ、聖霊によって語るべき事を教えられ、与えられているからです。私は毎週ここに立って説教しているわけですが、私がお話ししますことで、私が発見したこと、今まで教会が知らなかったことなど、何一つありません。私が受けたこと、教えられたこと、そしてそれが本当のことだと分からせていただいたことをお話しさせていただいているだけです。もちろん、言葉や表現は毎回違います。でも、結局同じことを語っているのです。ですから、皆さんは全く同じことをいつも聞いているのです。しかし、その同じ事をいつも新しく聞くのです。語られるキリストの福音はいつも変わらないのに、いつも新しく聞くことが出来る。それは、皆さんがいつも新しくされるからなのでしょう。そこに、聖霊なる神様のお働きがあります。聖霊なる神様は、福音を告げる者にだけ働くのではありません。福音を聞く者にも働くのです。聖霊なる神様のお働きの中で、私共は福音をいつも新しく聞くことが出来るのです。
2.キリスト教会の最初の説教(1)聖霊による預言として
さて、今朝与えられております御言葉は、ペンテコステの日にペトロが行った説教です。これがキリスト教会最初の説教と言って良いでしょう。これから何千億回と語り続けられる、キリスト教会の最初の説教です。小見出しには「ペトロの説教」とありますけれど、これはペトロ個人の説教というよりも、ペンテコステの日に多くの弟子たちによっていろいろな言語で語られた説教であり、キリスト教会の最初の説教と言った方が良いと思います。ペテロの個人的な説教ではないのです。この説教には、その後のキリスト教会が二千年にわたって語り続けてきたことの原型があります。
まずペトロは、21節までの所で、「新しいぶどう酒に酔っているのだ」という批判に応えます。その際ペトロは、旧約のヨエル書を引用して語るのです。この旧約を引用して語るというあり方は、22節以下においても同じです。それは、イエス様によってもたらされた救いというものは、旧約の預言の成就であり、神様の大いなる御計画の中にあるものだということを示そうとしているわけです。イエス様はまことの神の御子であり、救い主・メシアであるわけですが、このことも旧約以来の預言の成就であって、勝手にでっち上げたことではないということを告げているわけです。
ここでヨエル書が引用されているわけですが、17~18節「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」この預言の成就として、今、自分たちは聖霊を注がれて預言しているのだ。酒に酔っているのではない。そうペトロは告げているわけです。
ペトロは預言したのです。キリスト者は預言するのです。キリストの教会は預言する者の群れなのです。何故なら、神様の霊、キリストの霊を注がれているからです。もちろん、ここでいう預言とは、来年の今頃に○○が起きるというような予言ではありません。昨夜、小笠原諸島の方で大きな地震が発生しましたけれど、私共はそんなことが起きるなどとは全く知ることは出来ませんでした。この私共に与えられている預言とは、イエス様とは誰であり、イエス様は何を為され、それによって私共に何が起きたのか、何が与えられたのか、そのことを告げることです。
3.キリスト教会の最初の説教(2)終わりの時
そして、それはヨエル書の預言によるならば、「終わりの時」に起きることです。つまり、もう「終わりの時」は始まっている、そう告げているのです。「終わりの時」とは終末のことです。神様の最終的な裁きの時です。この「終わりの時」が始まったのだから、ぼやぼやしていてはいけない。21節に「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」と言われているように、主の名を呼び求めよ、神様に救いを求めよ、そう告げているのです。
もう終わりの時が始まった。ぼやぼやしてはいられない。この感覚はすべてのキリスト者に与えられているものでしょう。これを終末的信仰とも言います。この終末感とでも言うべきものが、私共の生き方を決定付けていると言っても良いと思います。ぼやぼやしていられないのです。もちろん、だからといって、これが最後の食事になるかもしれないからおいしいものを食べよう、というようなことではないでしょう。このぼやぼやしてはいられないというのは、神様の御前に立って裁きを受ける、その備えをして生きるということです。神の御前に生きるということです。ヨエル書の言葉で言うならば、「主の名を呼び求める者」として生きるということです。
4.キリスト教会の最初の説教(3)聖霊によって明らかにされる旧約聖書
このヨエル書の言葉は、ファリサイ派の人々や律法学者なら誰もが知っていたことでしょう。しかし、ペトロのように、今ここでこの預言が成就した、とは読まなかった。それは、この後で引用される詩編16編や詩編110編についても同じです。彼らは知っていた。しかし、それがイエス様を、イエス様の救いを指し示す言葉、イエス様を預言する言葉として読むことはなかったのです。ここに私共の聖書の読み方の決定的に重要な所、そしてユダヤ教やイスラム教と全く違う所があるのです。
私共の聖書の読み方は、イエス様によって救われた者として、その救いを預言している書として旧約を読むのです。イエス様を抜きにしては、聖書の語らんとする所は隠されている。そう考えているのです。そして、そのことを明らかにしてくださるのが、聖霊なる神様なのです。ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が注がれ、初めて旧約に預言されている事柄が明らかにされたのです。そしてそれは、イエス様が律法学者やファリサイ派の人々と、律法について議論したときにも明らかにされたことでした。
こう言っても良いでしょう。聖書という書物は、その中に何が記されているかを知るためには、それを読んでいるだけでは分からないのです。自分が実際に出会う出来事、聖霊なる神様が起こされる救いの出来事、それによって初めて、この言葉はこういうことを言っていたのかということが分かる。そういうものなのです。あるいは、分かっていたつもりであったことが、ある出来事によって、いよいよ本当に分かる。そういうことがあるのです。私共は、信仰の歩みを為し続けていく中で、様々な信仰の経験をしていきます。そのことを通して、いよいよはっきりと聖書が語っていることが分かっていくのでしょう。そして、そこにこそ聖霊なる神様のお働きというものがあるのです。
5.キリスト教会の最初の説教(4)主イエスの十字架・復活・昇天
さて、ペトロは次に、「イエス様こそ神様に遣わされた方であり、そのことはイエス様が為された数々の奇跡によって明らかです。そのイエス様をあなたがたは十字架につけて殺してしまいました。しかし、イエス様は、神様によって復活させられました。わたしたちは、そのイエス様の復活の証人なのです。」と告げるのです。ここでペトロは、イエス様の十字架と復活を語ります。このことこそ、キリストの教会が二千年の間変わることなく宣べ伝えてきたことなのです。
25節以下、ペトロは詩編の16節を引用します。ここで何より引用したかった所は、27節にあります「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。」という所です。イエス様の復活は、このように詩編において預言されていたことであり、イエス様はその預言の成就として復活されたとペトロは告げるのです。
この復活されたイエス様は、今どうしておられるのか。ペトロは33節で「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」と告げるのです。イエス様は「神の右に上げられ」た。天の父なる神様の右に、神様と同じ力、権能を持っておられる。そして、そこから聖霊を注いでくださった。自分たちが今こうして語っているのは、この聖霊なる神様によってなのだ。そうペトロは語ったのです。このイエス様が天に昇り、父なる神様の右におられるということも、34~35節において、詩編110編の一節を引用するあり方で、ペトロは論証しています。
このように、イエス様の十字架も復活も昇天も、旧約において預言されていることであり、イエス様こそこの預言を成就されたメシア、キリストなのだ。これこそペトロが聖霊に満たされて告げたことであり、代々のキリスト教会が宣べ伝えてきたことなのです。そして、このことこそ、私共が信じている内容なのです。
6.キリスト教会の最初の説教(5)あなたがたが十字架につけて殺した
ペトロはこのように、イエス様こそ救い主・メシアであることを告げ、そして最後に36節「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」と告げたのです。あなたがたは救い主を殺したのだ。メシアを殺したのだ。ただで済むと思っているのかということです。イエス様の十字架の出来事は、ほんの50日ほど前のことです。このペトロの説教を聞いた人の中には、50日程前、イエス様が十字架に架けられた時に、「十字架につけよ。」と叫んだ人もいたのではないかと思います。あるいは、十字架に架けられたイエス様を「救い主なら、そこから降りてみよ。」となじった人もいたかもしれません。そのような人にとって、この言葉は耳を覆いたくなるような、厳しい、激しい言葉ではなかったかと思います。これは脅かしと言えばそうかもしれません。しかし、これは単なる脅しなどではないのです。自分がしたことをちゃんと見なさい、自分の罪を認めなさいと、悔い改めを迫っているのです。
そして、これはイエス様を十字架につけよと叫んだ者、イエス様をなじった者に対してだけ言われた言葉ではありません。この「あなたがたが十字架につけて殺した」という言葉は、その場に居合わせることのなかった人に対しても言われているのです。何故なら、イエス様の十字架は、すべての罪人の罪の裁きを我が身に負うためのものだったからです。このイエス様の十字架に、「自分には関係ない」と言える人はいません。もし私はイエス様を十字架に架けたのではないと言い張るならば、イエス様の十字架による赦しとも関係ないということになってしまうでしょう。
7.キリスト教会の最初の説教(6)悔い改めて、洗礼を受けよ
私がイエス様を十字架に架けたのだとすれば、どうしたらその罪から逃れることが出来るのか、そのことが重大な問題になります。あなたがたが救い主・メシアであるイエス様を殺したのだと告げられた人々は、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」と問いました。ペトロはこう答えます。38節「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」これが、キリスト教会が語り続けてきたことです。
イエス様の救いに与るというのは、難しいことではないのです。聖書を読んで、それを理解して、更には教会の歴史を学んで、キリスト教の思想にも通じ、それから信じるに足るものであるかどうかを判断して、信じるに足るものであることが分かったならば信じる。そんなことではないのです。ペトロが告げ、教会が告げてきたのは「悔い改めなさい。」です。自分中心、自分のために神様も世界もある。自分の利益や平安や快楽ばかり追い求める。そのような罪人としての歩みを止めて、神様と共に、神様の御心に従うことを第一にする者として生き直す。自分中心ではなく、神様中心、イエス様中心に生き直す。そして、神様に対して背を向けて生きていた罪を悔いる。罪の赦しを求める。イエス様の名を呼び求めるのです。イエス様に救いを求めるのです。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるのです。
洗礼とはまことに不思議なものです。儀式としては、頭から水を少し掛けられるだけのことです。しかし、この洗礼は聖霊なる神様の御業ですから、私共をイエス様と一つに結びつけ、イエス様と共に生きる新しい命へと私共を導くのです。そして、私共に聖霊が注がれ、その実としての愛、信仰、希望、喜び、平和、感謝、祈り、といったものが与えられるのです。
8.キリスト教会の最初の説教(7)すべての人に与えられている約束
39節を見てみましょう。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならばだれにでも、与えられているものなのです。」と告げられています。悔い改めて、イエス・キリストの名による洗礼を受け、罪の赦しを与えられるならば、聖霊を受ける。これは、キリストの教会が初めから告げている約束なのです。そして、この約束が本当であるということを証しする者として、私共は立てられています。
この約束は、「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも」と言われているように、誰にでも与えられているのです。時代を超え、地域を超え、民族を超え、誰にでも与えられているのです。だから、この約束へと人々を招くために、キリスト教会は世界中に出て行ったのです。実に、この約束は普遍的なものなのです。
この約束に与る人は、確かに「主が招いてくださる者」です。しかし、私共は誰が主に招かれているのか、誰が招かれていないのか、知ることは出来ません。ですから、私共はすべての人を招くのです。主が招いてくださる者ならば、その招きに応えるでしょうし、そうでないのなら、招きに応えることはない。それだけのことです。私共は、この人は招かれている、招かれていない、そのように判断することは許されていません。それは神様だけが知っておられることだからです。私共は神様になってはなりません。ただ愚直に、誰に対しても開かれているこの約束を宣べ伝えていくのです。もう「終わりの時」は始まっているのですから、ぼやぼやしているわけにはいかないのです。この一事に、キリストの教会は立ち続けてきたし、今も立っているのです。
[2015年5月31日]
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