富山鹿島町教会

礼拝説教

「終末に至るまでに」
詩編 67編1~8節
マルコによる福音書 13章1~13節

小堀 康彦牧師

1.終末信仰
 共々にマルコによる福音書を読み進めて参りましたが、今日からマルコによる福音書の13章に入ります。このマルコによる福音書の13章は、小黙示録と呼ばれております。小黙示録というのは、新約聖書の最後にあります大きな黙示録、ヨハネの黙示録を念頭に置いての言い方です。ヨハネの黙示録も、この小黙示録と言われるマルコによる福音書の13章も、共に終末についての預言が記されております。終末というのは、いつ、どんなあり方で来るのか、はっきりした形で私共に示されているわけではありません。しかし、キリスト教の信仰においてはとても大切なものです。終末が来て、私共の救いが完成されるからです。天地創造から始まった私共が今生きているこの世界が終わって、新しい天と地が生まれる。その時、イエス様は再び天から来られ、生きている者も既に死んだ者も、すべての者を裁かれる。そして、救いに与る者は復活の体を与えられ、永遠の命に生きる者とされる。これが、聖書が告げております終末の、おおよそのことです。しかし、それがいつ、どのようなあり方で来るのかという具体的なことになりますと、分からないことが多いのです。私共には隠されている。そう言わざるを得ません。
 確かに、終末については分からないことが多いのです。しかし、ここでイエス様御自身が終末について、それに至るまでのことを告げておられるということは、覚えておかなければなりません。よく分からないから、そんなものはないのだ。そんなことは私が生きる上では関係ないのだ。そうは言えないということです。イエス様御自身が告げられたのですから、終末は必ず来るのです。私共はそのことを信じ、その時に備えて、この地上での生涯を送るのです。それが、キリスト者の地上における基本的な歩み方なのです。
 このことについて、私共の信仰を言い表しております日本基督教団信仰告白においては、「愛の業に励みつつ、主の再び来たり給うを待ち望む。」と言い表しております。また、使徒信条においては、「天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり。」の後、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審き給わん。」と告白しております。復活されて天に昇られたイエス様が、再び来られる。そして、生きている者も死んだ者も審かれる。そのことを知っている者として、この地上にあっては、愛の業に励みつつ、主が再び来られるその日を待ち望みつつ歩む。それが私共の歩み方なのです。

2.神殿崩壊の預言
 今朝与えられております御言葉においても、いつ、どんなあり方で終末が来るのかが記されているわけではありません。ここでイエス様がお語りになったのは、終末そのものではなくて、終末が来るまでのこと。世の終わりが来るまでに何が起きるのか、その時私共はどのように歩まなければならないのか、そのことが告げられているのです。
 さて、イエス様のこの終末に至るまでの預言は、弟子の一人との、こういうやり取りから始まりました。 1~2節「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。』」イエス様は11章27節から、エルサレム神殿において、ファリサイ派の人々や律法学者やサドカイ派の人々と様々な論争をしましたが、それを終えて神殿を出て行こうとされた時、弟子の一人が、「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」と言ったのです。当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王が40年以上かけて造り続けた、大変立派なものでした。最初のエルサレム神殿は、イエス様の時代より1000年ほど前にソロモン王が建てたのですが、それはバビロン捕囚の時、紀元前6世紀に破壊されてしまいました。そして、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民は神殿を再建しました。これが第二神殿と呼ばれるものです。それはソロモン王が造ったものよりも小さく、貧弱なものでした。バビロン捕囚から戻って造ったのですから、彼らが当時造ることが出来た精一杯のものだったとしても、ソロモンが造ったものに比べれば貧弱であっても仕方がなかったのです。しかし、ヘロデ大王は40年以上にわたってこの神殿に手を加え続け、イエス様の時代には、朝日に照らされると黄金に輝くと言われるほどに、大理石と金をふんだんに使った荘厳で豪華な建物になっていたのです。ガリラヤの田舎から出てきたイエス様の弟子の一人が、その建物の素晴らしさに目を奪われたのも当然でした。これほど立派で豪華な建物はユダヤのどこにもなかったからです。
 この弟子の言葉に対して、イエス様が告げられた言葉はこうでした。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」つまり、この建物もいずれ崩れ落ちる日が来ると言われたのです。このイエス様の預言は、この時から40年後、紀元後70年にユダヤがローマ軍によって滅ぼされた時、瓦礫の山と化することによって実現してしまいました。その意味では、このイエス様の預言は成就したと言って良いのですけれど、イエス様はそのような出来事の予言するためだけにこれをお語りになったのではなかろうと思います。
 イエス様は、もっと普遍的に、どんな立派な建物もやがては崩れる。目に見えるものはすべて過ぎ去るものだ。あなたは目に見える荘厳さに目を奪われているけれど、もっと大切なものに目を向けなければいけない。そう言われたのだと思うのです。更に言えば、イエス様はこれから十字架にお架かりになるわけです。そのことによって、神殿において動物の犠牲を献げることによって成り立っていた礼拝のあり方も変えてしまわれる。目に見える神殿ではなくて、イエス様を信じる私共一人一人が聖霊の宮となり、いつでもどこでも、イエス様の名によって集う者たちによって礼拝をささげることが出来る、そういう時代が来る。もう、そこまで来ている。そうお告げになったのではないかと思うのです。

3.それは何時?どんな徴が?
 しかしその意図は、弟子にはちゃんと伝わっていなかったようです。ですから、3~4節「イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。』」と続くのです。弟子たちには、エルサレム神殿が崩れ去るというイエス様の預言は、この世の終わりと同じように思えたのでしょう。そして、この世の終わりとなれば、それはいつ来るのか、それが来る時にはどんな徴があるのか、そこに関心が向いてしまったのです。
 この弟子たちの関心の向き方は、私共にも分かると思います。世の終わりが来るとするなら、それはいつなのか。それが来る時にはどんな前徴があるのか。それらを知っておけば、前もって対策を取ることが出来るという発想でしょう。しかし、終末というのは全世界・全宇宙において起きることですから、地震や台風でしたらあらかじめ知っていればそこから離れておくというあり方で対処することが出来ますけれど、終末にというものに対してそのような対処の仕方は意味がありませんし、これから逃れるということは誰にも出来ないのです。
 イエス様はこの問いに答えることはしておられません。イエス様は終末がいつ来るのかということに関してははっきりと、父なる神様しか知らないと言われました。32節です。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」とあります。ノストラダムスの大予言ではありませんけれど、いつの時代にも、この世の終わりが○年後に来ると言う人々はおります。しかし、イエス様ははっきりと、「天使たちも子も知らない。」と言われました。子というのはイエス様のことでしょう。○年後に来ると言っている人たちは、自分たちはイエス様よりも賢いということを語っているのであって、話になりません。まことに愚かなことです。イエス様は、この弟子たちの問いに対して、いつ来るのか、その前徴はどんなものか、それには一切お答えになっていないのです。

4.終末前に起こること(1)
 では、イエス様がここでお答えになったことは何なのか。順に見てみましょう。5~6節「イエスは話し始められた。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」と言って、多くの人を惑わすだろう。』」偽預言者の登場です。7節「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」戦争です。8節「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」民族紛争、世界大戦、大地震、飢饉、と続きます。偽預言者、戦争、地震、飢饉。どれも「もうダメだ。世界の終わりだ。」そう思わせるに十分な悲惨な状況です。しかし、イエス様は「慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」と言われているのです。「そういうことは起こるに決まっている。」何という言葉でしょう。確かに、いつの時代でも、自分が救い主だという偽預言者はおりましたし、今でも多分、世界では何千人、何万人といるでしょう。再臨のメシアとは言わなくても、阿弥陀様だ、世直しの神だというのならば、日本にもそのくらいはいるかもしれません。また、イエス様の時代から現代に至るまで、戦争や紛争がなかった年など一年もありません。今でも多くの地域で起きています。地震も飢饉も同じことです。これらの出来事は今までもあったし、今もある。いつでもある。ですから、終末の前徴と呼べるものではないのです。
 更にイエス様は、「これらは産みの苦しみの始まりである。」と言われています。この「産みの苦しみ」という言い方によって、三つのイメージが告げられていると思います。第一に、出産の苦しみというものは、人間が経験する最も激しい痛みであると言われています。それほどの苦しみ、耐え難いほどの苦しみであるということです。第二に、出産の苦しみは、子供の誕生という喜びが後にある苦しみです。それと同じように、この苦しみの後には、永遠の命の祝福というものが備えられているということです。そして第三に、この産みの苦しみは、陣痛から始まって、ある程度の時間続くということです。一瞬で終わるわけではないということです。確かに人類は、イエス様の十字架、復活、昇天の後ずっと、なお苦しい時を過ごしております。出口が本当にあるのかと思えるほどです。しかしイエス様は、それは産みの苦しみなのだと言われる。終末と共にそれは終わるということなのです。
 ここでイエス様が言おうとされたことは、5節、9節で繰り返されていることです。「人に惑わされないように気をつけなさい。」「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。」ということなのです。何に気をつけるのか。どのように気をつけるのか。それは、見えるもの、それが人であれ、目を見張る技術であれ、軍隊であれ、国家であれ、それに目を奪われ、それによって全き救いが与えられるなどということを信じてはいけない。それに頼ってはいけない。そのようなものに心を奪われる自分自身に気をつけなさいということなのであります。イエス様の十字架と復活による救い、イエス様の再臨と共にやって来る終末、新しい天と地、そこに心を向けてこの地上の日々を歩みなさいということなのであります。

5.終末前に起こること(2)
 更に、キリスト者は迫害を受けるということも預言されております。9節「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。」12~13節「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」とあります。私共は、現代の日本において、このような目に遭っているわけではないでしょう。しかし、世界に目を向ければ、宗教対立の激しい所では、キリスト者であるというだけで命が狙われるということが起きています。また、今年は戦後70年ですが、70年前の日本においてキリスト教会は、キリスト者はどのような扱いを受けたか、私は忘れてはならないと思っております。
 イエス様はここで、私共を脅そうとしているのではありません。そういうことが起きると言っておられるのです。そして、その時にも神様の守りがある、そのこともはっきりとお告げになっています。11節「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」聖霊なる神様が語るべきことを教えてくださる。だから、今からそんな事態になったらどうしようかと取り越し苦労をすることはないと言われています。

6.終末前に起こること(3)
 この二千年の間に、キリスト者は、キリストの教会は、様々な苦しみ、嘆きを経験してきました。人間的な過ちも犯しました。しかし、はっきり言えることは、この二千年の間に、キリストの福音は世界中に広まったということです。10節「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」とのイエス様の言葉は、私共が心に刻んでおかなければならないことだと思います。いろいろなことが起きる。悲しいこと、苦しいこともある。しかし、終末が来る前に、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならないのです。この世界の、この日本の、この富山の、あらゆる人々に福音が伝えられていかなければならないのです。福音が伝えられていく中で、様々なトラブルに巻き込まれたり、迫害を受けたり、悲しい思いをすることもあるのです。イエス様はそのことも御存知なのです。しかしその上で、これを為さねばならない、為されなければならないと言われたのです。これは、終末に至るまでの間に確かに為されなければならないことなのです。それが神様の御心だからです。私共が伝道するというのは、この神様の御心に従うが故なのです。実に、伝道は終末に至るまで為され続けなければならないことなのです。

7.最後まで堪え忍ぶ者は救われる
 そして、その結論として、イエス様は13節後半「最後まで堪え忍ぶ者は救われる。」と言われました。この「堪え忍ぶ」というのは、じっと我慢しているというよりも、しっかりと信仰を持ち続ける、父と子と聖霊なる神様との交わりの中にあり続けるということです。つまり、どんなことがあってもイエス様を愛し、信頼して歩み続けるということです。そうすれば救われる。終末において復活の命に与るということです。
 目に見える何か、それは健康であれ、生きがいであれ、楽しみであれ、富であれ、この世の栄誉であれ、私共の信仰がそれを手に入れたいがためであるならば、私共は決して「最後まで堪え忍ぶ」ことは出来ないのです。しかしイエス様は、私共が最後まで堪え忍んで信仰を保持することが出来るように、終末に至るまでに起きること、私共が経験することになる困難や苦しみを、あらかじめここで教えてくださったということなのです。そのことを弟子たちに、私共に教えてくださることによって、どんな時代にあっても、どのような状況にあっても、見えるものに頼らず、見えざる神様を信じ、やがて来る終末に目を注いで生きることを教えてくださったのです。終末がいつ来るのか、どのように来るのか、そのことを知ること以上に大切なこと。それは、終末に備えて、イエス様への信仰をしっかり持ち続けて、最後まで堪え忍ぶということです。
 私共にやがて与えられる、御国における栄光を思い、それに与ることが出来るよう、この一週間もまた、確かな信仰の歩みを御前に為して参りましょう。

[2015年5月17日]

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