1.律法学者と貧しいやもめ
今朝与えられております御言葉は、イエス様が「律法学者に気をつけなさい。」と注意を促した言葉と、貧しいやもめが献金を献げたことが記されております。律法学者と貧しいやもめ。当時の社会的な地位や立場が全く違う両者が、比較対照されるように記されております。この二つの話をそれぞれ独立したものとして読んで、それぞれからメッセージを受け取ることも出来ます。しかし、このように並んで記されていることから考えるならば、やはり聖書が語ろうとしている意図は、この二つの話を対照的に記すことによって、よりメッセージをはっきりさせよう、浮き上がらせようとしていると考えて良いと思います。
その意図が何かと言えば、私共に信仰の姿勢、私共が信仰者として生きる上で、最も心しておかなければならないことは何かということを教えようとしている。そう言って良いだろうと思います。別の言い方をするならば、信仰者として生きていく上で、私共はどこを見ているのか、何を求めていくものなのか、そのことをはっきり示しているということです。
2.人の前に生きる律法学者
初めの、律法学者に対しての批判の話において告げられておりますことは、神様に見られている、神様の御前に生きているということよりも、人に見られている、人の目ばかり気にしている有り様が批判されております。
「長い衣をまとって歩き回る」とは、自分は律法学者ですということを示す長い衣、それを日常的に着ることによって、日常的に人々から尊敬のまなざしで見られ、人から挨拶される。そういうことを求め、望んでいる心の有り様が批判されているわけです。「会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み」も、人々に重んじられることを求め、それを望むことを具体的に告げているわけです。「やもめの家を食い物にし」というのは、信仰深い、しかし貧しいやもめから、金品を受け取ったり、接待されることを当然のこととしている。更に「見せかけの長い祈りをする」に至っては、祈りさえも、神様の御前に立つことが抜け落ちている。何ということか、ということです。
これは大変厳しい、律法学者に対しての批判です。もちろん、すべての律法学者がそうであったわけではないでしょう。また、彼らとて、初めからそうであったわけではないと思います。律法学者になるということは、本当に大変な学びを幼い時から10年、20年と続けて、やっとなれる。そういうものですから、彼らが律法学者になろうと思って学びを始めた頃、或いは学び続けていた頃の思いというのは、神様の言葉を学んで、神様に喜ばれる人になり、神様の御心に適う道を歩んでいこう。人々をそのような道に導こう。そういう動機、願いをもって熱心に励んだはずなのです。しかし、いつしか、先生、先生と呼ばれるうちに、勘違いをしてしまったということなのではないかと思うのです。
この勘違いというのは、目に見えるものの誘惑という、信仰者なら誰でも受けるサタンの試みに負けてしまったということなのだろうと思います。信仰における誘惑というものは、それに負けても、自分が負けたとは決して気付かないものなのです。気付けば、道を引き返すなり、軌道修正するなりするわけですが、それが出来るくらいならば大した誘惑にはならないでしょう。この目に見えるものによる誘惑というものは、サタンの誘惑であるわけですが、それが誘惑だと気付かせない所に本当の怖さがあるのではないかと思います。
ここでイエス様は、「律法学者に気をつけなさい。」と言われたわけですが、私は律法学者じゃないから大丈夫、関係ない。そんな風にここを読んでは、間違ってしまいます。イエス様は何も、律法学者を批判することが目的で、このように言われたのではないのです。律法学者というのは、当時のユダヤ社会において最も信仰深い人、人々を信仰の道へと導く人として尊敬されていた人なのです。そのように信仰深いと思われている人であっても、このような目に見えるものに引きずられていってしまう。そういう誘惑に誰もがさらされているのだから、あなたがたも気をつけなさい。それが、イエス様が言おうとされたことなのです。
3.神の御前に生きる
私共の信仰の有り様は、宗教改革者カルヴァンが好んだ言葉、私共の教会の伝統においても大切にされてきた言葉で言うならば、「神の御前に生きる」ということです。しかし、神様は目に見えませんので、いつの間にか目に見えるものに心を引かれてしまう。それは人々からの尊敬であったり、人々に重んじられることであったり、社会的地位であったり、或いは富であったりするわけです。これらのものは、私共がイエス様に出会う前に、とても大切にしていたものです。しかし、イエス様の救いに与って変わりました。私共は、人の目や人の評価ばかりを気にして、それを得ようとして一生懸命になるのではない。そうではなくて、神様に喜ばれる、神様の御心に適う道を歩んでいく。それが私共の新しい歩みです。私共は、そのように生きる道を変えたはずなのです。しかし、いつの間にか、目に見えるものの誘惑に負けてしまう。そういうことが起こり得るわけです。
先程、律法学者の人はそれになろうとしていた時、そのために勉強していた頃は、神様を見上げていたはずだと申しましたけれど、それは律法学者として召命を受けた人の場合です。しかし、ひょっとすると、この時代では律法学者は既に社会的地位を持っていましたから、それを手に入れるために律法学者になろうと決めたという人もいたかもしれません。それでは最初から、目に見える誘惑に負けているわけですから、変わりようがありません。その出発から間違っていたということでしょう。
信仰の歩みにおける誘惑というものは、様々な困難に遭った時、「神様は自分に何をしてくれるのか。」という思いと共にやって来るような場合だけではなくて、逆に、自分がこの世的に成功した、富や地位や名誉を手に入れた、そういう時にもやって来るのです。そういうものを一度手に入れますと、何か自分が大した者であるかのように勘違いする。もっとも、この勘違いは、そのようなこの世的な成功を手に入れなくても起きるのですけれど。いずれにせよ、この勘違いは、神様の御前に生きるということを忘れ、人の目や世間体というものばかり気にする中で起きてしまうものなのでしょう。
こう言っても良いでしょう。神様の御前に生きるということは、神様に愛されている自分を知らされ、その愛の中に生きることです。この神様が自分をどのように見て、どのように評価されているのかという絶対評価は、自分の価値というものが、人からの評価のように変わるものではありません。ですから、実に安心していられるわけです。しかし、この神様の御前に生きるということが忘れられてしまいますと、自分の価値というものが自分では分からず、その結果、いつでも人の評価、人は自分をどう見ているのかということばかりが気になってしまう、そういうことになってしまうのでありましょう。
私共が腹を立てる時の理由の一つに、自分が軽く見られたということがあるのではないかと思います。人の評価などというものは、10人いれば十人十色なのですから気にする必要もないのですが、やっぱり気になって腹が立つ。そんな時どうすれば良いのか。神様の御前に立つことです。祈ることです。どう祈れば良いのか。「私を軽く見くびった人をひどい目に遭わせてください。」そうじゃないでしょう。神様をほめたたえることです。そして、その大いなる方が、私のために何をしてくださったか、何をしてくださっているのか、そのことを思い起こすことです。神様に愛されている自分を思い起こすことです。自分が何者であるかを思い起こす。そうすれば、人に何を言われたかなどということは、あまり気にならなくなるものなのです。
「律法学者に気をつけなさい。」とイエス様は言われましたけれど、その意味は、律法学者のようにならないよう、あなたがたは気をつけなさいということなのです。
4.貧しいやもめの献金
次に、貧しいやもめの献金の話です。イエス様はこの時、エルサレム神殿にいたわけです。神殿には賽銭箱がありました。もっとも、この賽銭箱に、神社にあるようなものをイメージすると間違ってしまいます。エルサレム神殿の賽銭箱は金属で出来ていました。そして、投げ入れる所がラッパのように口が開いた形でした。当然、お金を入れると音がするわけです。当時、お札はありませんから、みんな硬貨を献げるわけです。当然、小さな軽い硬貨を投げ入れますと小さな音しかしませんし、大きな重い金貨を投げ入れれば大きな音がするわけです。一つ投げ入れればカラン、カラン、カランと音がします。二つ入れればカラ、カラ、カラと音がします。大きな重い金貨をたくさん入れれば、ジャラン、ジャラン、ジャランと音がしたことでしょう。イエス様はその音を聞いて、このやもめが投げ入れたお金が、レプトン銅貨二枚であることが分かったのでしょう。このレプトン銅貨というのは一日の労働賃金であった1デナリオンの128分の1の価値であり、一番小さな銅貨でした。現代の価値に換算しますと、二枚で100円程度ではないかと思います。一方、大勢の金持ちたちは、大きな金貨をたくさん投げ入れ、ジャラン、ジャラン、ジャランと大きな音を立てていた。
そしてイエス様は、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」と言われたのです。もちろん、金額ではありません。イエス様は、「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われました。ここでイエス様は、金持ちが献げた金額が財産に占める割合と、このやもめが献げた金額が財産に占める割合を比較したのでもありません。そもそも、献金を比較するということ自体、意味がないのです。だったら、イエス様はここで何を言おうとされたのでしょうか。イエス様は、神様にささげる献金でさえも人と比べて、自分の方が多いの少ないのと心を動かす私共を見抜いて、そんなことは全く意味がないことを、「やもめの献金は誰よりも多い」と言うことによって教えようとされたのです。
5.献金は献身のしるし
信仰の歩みにおいて、献金はとても大切なものです。それは、私共が礼拝の中で献金したときに「献身のしるしとして献げます。」と祈るように、実に献金は献身のしるしだからです。私共の献身の思いが、そこに現れるからです。私はこの教会に来て、多分、何十回と言ってきたと思いますが、献金というものは神様と自分との間で決めることですから、相場などというものはありません。「皆はいくらしているのか」ということを考え始めると、それはもう献金ではなくなってしまうのです。献金は、サークルや団体の会費といったものとは全く違うのです。神様への感謝、神様への愛、神様への献身のしるしなのですから、人と比べようがないのです。
私は、洗礼を受ける方に献金の話を必ずしますが、どのくらいすれば良いのかという問いに対して、私はいつも「少し痛いくらいにしてください。」と言っています。痛くもかゆくもないのでは神様に失礼でしょう。でも、痛すぎるのでは続きません。教会によっては、10分の1献金ということを厳しく指導する所もあるようです。私共はそのように10分の1とは言いませんが、この10分の1献金というのが、聖書に根拠を持ち、キリスト教会において大切にされてきたことは覚えておいて良いでしょう。
ここでやもめが献げたのは、「自分の持っている物をすべて、生活費を全部」であったと言うのです。10分の1どころではありません。しかし、イエス様がこのように言われたのだから、このやもめのように皆さんも献金しましょうというのでもありません。献金というものは献身のしるしなのですから、献身のない所に献金もないのです。イエス様はここで、献身するとはどういうことなのかということを示されたのです。
献身というのは、神様に愛されていることを知らされ、神様の御手にある明日を信じ、神様の御手の中にすべてを委ねて歩み出すことです。だから、このやもめは、「自分の持っている物をすべて、生活費を全部」献げたのです。そんなに献げたら、明日からどうなるのだ。そう思う人もいるでしょう。この生活費を全部というのは、その日の生活費ということであって、明日の生活費はここには含まれないと理解する人もいます。なんだ、一日分か。それなら出来る。そう思う人もいるでしょう。しかし、ここで大切なのは、この生活費が一日分であるかどうかということではないのです。この人は、自分の献身の思いをこの献金によって示したということなのです。
このやもめはすべて献げたのです。つまり、完全に献身したということなのです。当時のやもめは、生活手段がない、社会における最も貧しい者だったのです。金も無い、地位も無い、力も無い。しかし、何も無い自分のすべてを、この人は献げたということなのです。そして、神様はそれを喜んで受け取ってくださるということなのです。律法学者と比べるならば、この人には何もありません。しかし、神様を愛し、神様を信頼し、神様の御手に自分のすべてを委ね、献げたのです。彼女はこの時、自分の献金する姿をイエス様が見ておられるということに気づかなかったでしょう。彼女はすべてを献げて、神様に祈ったに違いないのです。もちろん、その祈りは人に聞かせる祈りではありませんでした。ただ神様に感謝し、神様を賛美し、神様との交わりの中にある喜びに満ちたものだったことでしょう。そして、明日のことを思い煩うことなく自分自身を献げ、神様にすべてを委ねたのです。イエス様は、このやもめの姿に、信仰者としてのあるべき姿を見たのです。
6.イエス様の十字架に繋がる献身
また私は、こうも思います。イエス様はこれから十字架にお架かりになられのです。数日後には十字架にお架かりになる。そういう時ですから、イエス様はこれから自分が十字架に架かる歩みを、このやもめが献金する姿に重ねて見ておられたのではないか。そう思うのです。実に献身とは、このイエス様の十字架において極まっております。私共が為す献身というものは、十字架のイエス様と繋がることです。私共は誰も罪に満ちた者です。そのような私共が為す業において、もし聖なる業と言えるものがあるとすれば、それは献身ということなのでしょう。このイエス様の十字架に連なる献身は、イエス様の十字架が人々の賞賛を受けることがなかったように、人々からの賛辞を受けることはないのです。それを求めたところでは、献身にならないのです。見ているところ、求めていることが違うからです。私共は、ただ私のために十字架にお架かりなられたイエス様を見るのです。ただこの方の愛に応え、ただこの方と共にありたいと願うのです。
私共は、イエス様に救われたのですから、そのまなざしをしっかり天に向けるのです。私共の本当の救いは、私共の本当の希望は、私共の本当の目当ては、この地上にはないからです。そのことをしっかりと弁えて、目に見える様々な誘惑を退けて、まことに献身する者として、共々に御国に向かって、神様の御前に新しい一週の歩みを為して参りましょう。
[2015年5月10日]
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