富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の右におられるキリスト」
詩編 110編1~7節
マルコによる福音書 12章35~37節

小堀 康彦牧師

1.執事の任職に当たり
 先週の礼拝後に開かれた2015年度の定期教会総会において、Y・E姉が新しく執事に選出されました。この後、礼拝の中で任職式を行います。私共の教会の伝統では、牧師・長老・執事が任職される時、頭に手を置いて祈ります。その祈りの形から、これを按手とも言います。牧師や長老や執事が新しく任職される時、今まで牧師であった者、長老であった者、執事であった者が、それぞれの職務に新しく任職される者の頭に手を置いて祈るのです。この按手は生涯有効でありますので、再任された人にはこれを行いません。このような任職の仕方は、それぞれの務めが神様の御用に仕えることであり、それはとても私共の持っている力や能力で全う出来るものではないと考えているからです。ただ神様の憐れみと導きと支えによってのみ、その職務を果たすことが出来る。だから、祈るのです。今日の週報には、この任職に当たり、教会員の方々が誓約する言葉も記されております。私共は教会総会において、投票という方法で長老・執事を選出しました。もちろん、それは私共が選んだという以上に、神様の選びがこの選挙を通して示されたということなのです。しかし、これは神様の選びなのだから私たちには関係ない。選ばれた人と神様との関係だと言って、知らんふりをするのは間違いです。選んだ私共の責任も問われるのです。そのことを、この誓約は明らかにしております。この任職という出来事は、イエス様の救いの御業、イエス様の御支配、イエス様が今生きて働いてくださっていることの、具体的なしるしです。イエス様は、具体的に御自身の業に仕える者を選び、立て、その人を用いて御業を遂行されるからです。

2.もはや、あえて質問する者はなかった
 さて、今朝与えられております御言葉は、イエス様が十字架にお架かりになる直前に、エルサレム神殿においてメシアについて語られたことが記されております。この神殿における問答は、11章の27節から続いている一連の流れの中で為されております。祭司長、律法学者、長老たち、そしてファリサイ派の人とヘロデ派の人、更にサドカイ派の人、そして再びファリサイ派の人との問答が為されました。それらはイエス様を陥れるためのものであり、イエス様がメシアではないということを示そうとしたものでありました。けれど、イエス様はそれらのすべての問いを、見事な答えで退けられました。今朝与えられております御言葉の直前の所に、34節「もはや、あえて質問する者はなかった。」と記されている通りです。いろいろと策を練った質問をしたけれども、どの問いに対してもイエス様が見事にお答えになったので、もう質問してイエス様をやり込めようとする人は出てこなかったというのです。しかしそれは、祭司長、律法学者、長老たちといった、当時のユダヤ教の中心にいた人々、ユダヤ社会の指導者たちが、イエス様に降参したということではありません。イエス様はやっぱり大した者だと、イエス様を認め、イエス様に従う者となったということではないのです。言葉や知恵ではかなわない。だったら後に残るのは何か。実力行使のみです。もうイエス様に質問する者はいなかったというのは、その分イエス様の十字架が近づいたということでもあるのです。

3.メシアはダビデの子?
 イエス様はここで、御自分の方から問いを出されました。誰に出されたのか。35節に「イエスは神殿の境内で教えていたとき」とありますが、イエス様は誰を教えていたのか、そして誰に問われたのか、そのことは記されておりません。普通に考えれば、群衆にということになるでしょう。しかし、マタイによる福音書にあります共通記事においては、このところが「ファリサイ派の人々が集まっていたとき」となっております。このイエス様の問いかけは、一体誰に向かってなされたのでしょうか。私は、イエス様がここで出された問いは、ファリサイ派の人や律法学者、そして祭司長といった、今まで自分に質問してきた人たちに対して、逆に問うた。そう考えて良いと思います。何故なら、ここで為されたイエス様の問いは、その内容から見て、かなり聖書に精通している人に向かって為されたものであったと考えられるからです。聖書に詳しくない人が聞けば、このイエス様の問いは何を言っているのか分からない、何を問うているのか分からない、そのような問いだからです。もしこの問いの対象が群衆であったならば、たとえ話のように、イエス様は誰が聞いても分かる問いを為されたのではないか。そう思うからです。
 イエス様が為された問いとは、こういうものでした。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」この問いを一回聞いて、イエス様がここで何を問うているのか、きちんと分かる人がいるでしょうか。何をごちゃごちゃ言っているのか。何が言いたいのか良く分からない。そのように思われた方も多いと思います。けれども、ここはとても大切な所ですので、丁寧に見ていきましょう。
 まず、「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」でありますが、メシアというのはキリストのことです。ギリシャ語本文では「クリストス」となっていて、口語訳ではそのまま「キリスト」と訳していたのですが、なぜか新共同訳ではすべて「メシア」と訳されています。クリストスはキリストで良いではないかと思いますけれども、メシアと訳しています。旧約におけるメシアは、直訳すると「油注がれた者」となって、それをギリシャ語に置き換えるとクリストスとなるのです。ですから、メシアもキリストも全く同じなのです。新共同訳では、「クリストス」はすべて、わざわざ旧約のメシアに戻して訳しています。「油注がれた者」というのは、旧約において祭司、王、預言者が神様に選ばれて立てられる時、「油注ぎ」という頭に香油を注ぐ儀式を行ったことに由来します。神様に選ばれ、立てられたことを、目に見える形で示したのが「油注ぎ」です。私共の教会が任職の時に行う按手のようなものでしょう。そして次第に、メシアと言えば、神様に遣わされる救い主を意味するようになっておりました。
 イエス様の時代、「メシアはダビデの子」として生まれるということはユダヤの常識でした。それは、そのように旧約において預言されていたからですが、新約聖書も、この預言の成就としてイエス様の誕生を記しているのです。「ダビデの子」とはダビデの子孫という意味ですが、マタイやルカにあるイエス様の系図はそのことを示しておりますし、イエス様がエリコを出て行こうとされた時、目の見えないバルティマイという物乞いが、イエス様に向かって「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」(マルコによる福音書10章47節)と叫びました。この時バルティマイは救い主という意味でイエス様を「ダビデの子」と呼んだのですが、イエス様はそれを否定していません。なのに、どうしてここでイエス様は「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」と言われたのでしょうか。
 問題は「ダビデの子」という言葉が何を意味するのかということでした。「ダビデの子」それは文字通りには「ダビデの子孫」ということです。しかし、それだけではないのです。律法学者たちがメシアを「ダビデの子」と言う場合、それは「ダビデのようなメシア」「ダビデの再来としてのメシア」という意味も持っていたのです。それは、律法学者たちだけに限らず、当時のユダヤの人々のメシアに対する理解はそのようなものでした。つまり、メシアはダビデ王のように、武力をもって周りの国々を平定し、ユダヤに繁栄をもたらす方。当然、ローマ帝国の支配からもユダヤを自由にするでしょう。それが、律法学者たちの、また当時のユダヤの人々のメシア理解だったのです。イエス様はそれに対して、「違う」と言われたのです。このことについて、使徒パウロは、ローマの信徒への手紙1章3~4節「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」と言いました。「イエス様は肉によればダビデの子孫。霊によれば神の子。」ということです。イエス様は、ダビデの子孫であることを否定しようとされたのではないのです。そうではなくて、「ダビデの子」にダビデがもたらしたのと同じような救いや繁栄しか期待しない律法学者たちに向かって、イエス様は、神様がメシアによって与えられる救いとはそんなものではないということを語ろうとされたのです。

4.わたしの主
 次に36節の「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』」ですが、これは詩編110編1節の引用です。この詩編110編1節は、新約聖書に最も多く引用されている旧約聖書の箇所です。イエス様がメシア、キリストについてお語りになられたときに、御自身で引用された旧約の所ですから、イエス様は誰か、どういうお方なのかということを語ろうとする時にしばしば引用されることとなり、新約における引用回数が一番多くなったということなのでしょう。
 まずここでややこしいのは、「主は、わたしの主にお告げになった。」という所です。最初の「主は」の「主」と、次の「わたしの主」の「主」は、ギリシャ語では同じ言葉が使われていますが、元々のヘブル語の詩編においては全く違う言葉が使われているのです。最初の「主」は、天地を造られた唯一人の神様を示す言葉であるヤーウェという固有名詞が使われており、次の「わたしの主」の「主」は、主人を表すアドナイという普通名詞が使われているのです。そして、内容から見て、「わたしの主」というのは、救い主・メシアを指していると考えられるのです。更に、この詩編はダビデが作ったのだから、ダビデ自身がメシアを「わたしの主」と呼んでいることになる。だったら、どうしてメシアはダビデの子なのか。自分の子に向かって、「主」と呼ぶ者がいるか。いない。だから、メシアは単なるダビデの子ではなく、あのダビデさえも「主」と呼ぶような大いなる者なのだ。つまり、神の子なのだ。そうイエス様は言おうとされたのです。

5.神の右に座するキリスト
 この詩編は、ダビデ自身が聖霊を受けて、父なる神様が御子であるメシアに語るのを聞いたことを記したものだ考えられます。ダビデが、しかも聖霊によって示されて記された詩編の110編。これは神様の真理を間違いなく示しているはずです。その詩編の110編において、メシアがどういう方と告げられているかと申しますと、神様が「わたしの右の座に着きなさい。」と言われた方だということなのです。神様の右に座られるキリストが、旧約を引用する形で、ここでイエス様の口を通して告げられているのです。これは、イエス様が十字架、復活に続いて、天に昇られ、父なる神様の右に座られるということを、御自身の口を通して、詩編の110編を引用して告げられたということなのです。神様の右に座するキリスト。これは、私共が使徒信条において、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神様の右に座し給えり。」と告白していることです。イエス様は十字架に架かって死なれ、三日目に復活し、天に昇り、全能の父なる神様の右に座しておられる。それが私共のイエス様に対する信仰です。そしてそのことを、イエス様はここで、十字架にお架かりになる前に、既に御自身の口で告げられていたということなのです。
 「父なる神様の右に座す」というのは、父なる神様と同じ権能を持って、父なる神様と同じようにすべてを支配しておられるということです。この「右」というのは、方向や位置を示しているのではありません。もしそうだとすると、向かって右なのか、神様から見て右なのか。前から見て右だとすると、後ろからだと左になるのか。わけの分からないことになってしまいます。そうではなくて、この「右」というのは、神様との関係を示しているのです。「神様と同じ力と権威を持つ方として」という意味なのです。そしてこのことは、父・子・聖霊なる三位一体の神様のあり方を示しているのです。
 このイエス様の御支配は、「わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と言われているように、やがてすべての悪と罪がイエス様によって打ち破られ、全き神様の御支配が現れるようになるということまで預言されているのです。このイエス様の御支配は、この世の王であったダビデのような支配ではなく、十字架と復活による、罪と死に対する勝利であり、すべての民の上に臨む御支配なのです。まことのメシアであるイエス様は、ダビデのような王などはるかに超えた、あのダビデさえも「わたしの主」と呼ばざるを得ない、神の御子であられるということなのです。

6.聖霊によって知らされる
 私共は、主の日の度毎にここに集い、イエス様の御名をほめたたえております。イエス様の前にひざまずき、イエス様を我が主、我が神と拝んでおります。それは、やがて来る神の国の完成、すべての者がイエス様の前にひざまずき、イエス様を拝み、イエス様をほめたたえることになる。そのことの先取りなのです。そして、それは聖霊なる神様の導きよって私共に明らかに示されたことなのです。
 天の父なる神様の右におられるイエス様は、信仰によらなければ、聖霊の導きがなければ、仰ぐことは出来ません。ダビデは、聖霊を受けて詩編110編を語りました。その内容は、聖霊によってダビデに示されたことですから、聖霊によらなければ分からないのです。イエス様を神の御子と信じる信仰によらなければ、決して分かることが出来ないことなのです。律法学者たちは、よく聖書を学んでいましたし、よく知っていました。旧約聖書のすべてを暗記し、諳んじていました。その解釈についても、膨大な注釈を学び尽くしておりました。しかし、彼らは分かりませんでした。イエス様が誰であるかということについては、全く何も分からなかったのです。彼らは、詩編の110編が告げている本当の意味を知ることは出来なかったのです。それは、聖霊によらなければ分かることが出来ないことだからなのです。
 しかし、私共はそれを知っている。いや、知らされている。何と幸いなことでありましょう。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一1章27~29節において「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」と申しました。律法学者は、自分たちは聖書を知っていると誇りました。確かに、聖書を諳んじるほどに知っていました。しかし、聖書が告げる最も大切な所を知ることは出来ませんでした。私共は、知恵なく無学で、力も高い身分もない。しかし神様は、そのような無きに等しい私共を選び、イエス様が誰であるかを教え、イエス様の救いに与らせ、神の子としてくださったのです。本当にありがたいことです。それは、私共が自らを誇ることがないためです。ただ、神様に栄光を帰するためです。私共の中に誇るべきものは何も無い。しかし、聖霊の導きの中で信仰を与えられ、イエス様を我が主、我が神と拝むことを許されています。何という恵み。何という幸い。
 この恵みに感謝し、父と子と聖霊なる神様をほめたたえつつ、新しい御国に向かっての一週間の歩みを、共々に為して参りましょう。

[2015年5月3日]

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