富山鹿島町教会

礼拝説教

「復活の後の私は?」
申命記 6章4~5節
レビ記 19章17~18節
マルコによる福音書 12章28~34節

小堀 康彦牧師

1.一番大切な掟
 イエス様は、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と問われて、こうお答えになりました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
 イエス様御自身がこのように教えてくださいましたから、私共がどのように生きるのか、何を日々の生活の指針とすれば良いのか、それについてはもう結論が出ているわけです。私共の方がイエス様より賢く、真理を知っていると考えるなら別ですが、イエス様が神の御子であり、私共を救い、私共を導いてくださる方と信じる者にとって、このイエス様の言葉は決定的です。私共はこのイエス様の言葉に従って、神様を愛し、隣人を愛して生きる。それ以外に、私共の歩むべき道はありません。これこそが私共の人生を導き、私共の足下を照らし出してくれる光です。聖書のすべての教えは、この神様を愛し、隣人を愛するという所へと私共を招いていく、あるいはこの神様を愛し、隣人を愛するということの具体的な展開としてあると言っても良いのでしょう。今朝私共に与えられております御言葉は、実に聖書の中心を示しているのです。私共は今朝、この御言葉をしっかり受け止め、心にとどめたいと思います。

2.律法学者からの問い
 さて、この問いをイエス様にしたのは「一人の律法学者」であったと聖書は記します。11章の29節以下、神殿においてイエス様は、祭司長、律法学者、長老たち、あるいはファリサイ派の人々、ヘロデ派の人々、サドカイ派の人々と、権威について、皇帝への税金について、復活について、議論をされました。その一連の議論を聞いていた一人の律法学者が、この「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」どの掟が一番大切なものかと尋ねたのです。マタイによる福音書に記されている共通記事においては、「イエスを試そうとして尋ねた。」とありますが、このマルコによる福音書にはその言葉は記されておりません。この律法学者がイエス様に為した問いは、復活についてのサドカイ派の人々の問いや、ファリサイ派とヘロデ派の人々によって為された皇帝に税金を納めるべきかどうかの問いと比べてみても、イエス様を陥れようとする性格のものではありません。ですから、この律法学者は単純にイエス様の受け答えが本当に知恵に満ちたものであったので、自分の中にあった問いをイエス様に向けたのだと読むことも出来ます。しかし、イエス様の答えに対して、この律法学者は32節で「先生、おっしゃるとおりです。」と答えていますから、律法学者は既にこの答えを持っており、イエス様が本当に律法を知っているのか、どの程度律法について理解しているのかを試したのだ。そう読むことも出来ると思います。実際、イエス様がなさった答えは、イエス様のオリジナルではなく、有名な律法学者が既に教えていることであったということが分かっています。
 こう言っても良いでしょう。このイエス様の答えは、律法について真剣に学んだことのある人ならば誰もが知っている、そういう答えであり、神様が与えた律法全体の急所であった。当時、律法学者たちは600以上もあった掟について考え、議論し、生活のすべてをそれに適合したものにするために努力しておりました。一般の人々も、この場合はどうすれば良いのかと、実際の生活の中での具体的なことについて律法学者に相談し、律法学者はそれに対して、律法にはこうあると言って指導していたのです。子育ての問題とか、隣の家との境界線をめぐるトラブルとか、離婚の問題とか、あらゆる生活上の問題が律法学者のもとに持ち込まれ、それを「律法にはこう記されている」と言って指導するのです。それは、今でも保守派のユダヤ教徒たちの間では日常的に行われていることです。そのような律法の専門家から見ても、イエス様の答えは完璧なものでした。律法を与えた神様の御子であり、神様の御心と一つであられたイエス様なのですから、当たり前と言えば当たり前です。

3.十戒の要約としての二つの掟
 イエス様が答えられた第一の掟は、先程お読みした申命記6章の言葉です。これは、「聞け、イスラエルよ。」と始まりますが、この「聞け」というのが「シュマー」です。「シュマー、イスラエル」と言って始まるので、「シュマの祈り」と言われ、ユダヤ人が一日に何度も唱えていたものなのです。そして、第二の掟は、レビ記19章18節にある言葉です。イエス様はここで、第一に神様を愛すること、第二に隣人を愛することと言われましたが、この第一と第二の掟は二つで一つという具合にセットになっている、そういうものとしてイエス様は提示されたのです。二つを分けることが出来ないものとして示された、これがとても大切な所です。神様を愛するだけでもないし、隣人を愛するだけでもないのです。この二つが一つとなって、神様の御心に従うことになるということなのです。
 イエス様が、要するにこれだと教えてくださったこの二つの掟は、律法の要約としてキリストの教会で用いられてきました。私共は聖餐に与る礼拝においては、十戒を唱えています。しかし、十戒に代わってこの二つの掟が唱えられる、そういう礼拝の守り方もあるのです。確かに、十戒の前半は神様との関係を示し、後半は人間との関係を示しており、このイエス様によって示された二つの掟の要約は、十戒を要約したものとも考えられるのです。つまり、イエス様のこの二つの掟は、600以上ある律法から二つを選んだというよりも、それらの律法の大本にある十戒、それを要約するものとしてこの二つを選んだと考えても良いでしょう。

4.第一の掟
 ここでもう少し丁寧にこの二つの掟について見てみましょう。第一の掟は、まず「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。」とあります。これは出エジプトの旅の中で与えられた申命記の中にあるものです。つまり、「イスラエルよ、わたしは、あなたをエジプトの奴隷の家から救い出し、シナイ山で契約した神だ。あなたにとって、神はわたし以外にいない。このわたしが唯一のあなたの神、あなたの主人なのだ。」と言っているわけです。これは明らかに、十戒の第一の戒の言い換えです。そして、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と続くわけです。「あなたをエジプトの奴隷の家から導き出したわたし。あなたと契約を結んだわたし。わたしはそのように全力であなたを愛しているのだから、あなたもわたしを全身全霊をもって愛しなさい。」と言われているのです。何と強烈な愛の告白でありましょう。この「愛しなさい」というのは、ただの命令ではないのです。そもそも、「愛しなさい」と言われて愛せるものではないでしょう。そうではなくて、神様はイスラエルを自分の宝の民として愛したのです。全力をもって守り、支え、導き、エジプトから救い出したのです。その愛があってイスラエルはあるのです。そのイスラエルへの愛という前提があって、「愛しなさい」と告げられているのです。これは神様からの愛の告白であり、この愛の交わりにとどまり続けるようにとの熱い招きなのです。この掟に生きる者は、神様との愛の交わりの中に生きるために、全身全霊をもって応えるのです。それは、神様がそのようにまず私共を愛してくださっているからです。ここに生まれる神様との交わりとしての信仰は、この世の生活における様々な幸、富であったり、家庭であったり、栄誉であったり、健康であったり、そういう幸いを手に入れるための手段、あるいはそういう幸いに加えてあった方が良いくらいの、人生のスパイスとしての信仰、そんなものではあり得ないことは明らかです。この神様との交わりにこそ、私共の人生の幸い、生き方、希望、平安、そのすべてがあるのです。

5.第二の掟
 第二の掟の「隣人を自分のように愛しなさい。」ですが、私共は、何か良い所、優れた所があるから自分を愛するわけではないでしょう。私共は、お腹がすけば食べるし、喉が渇けば水を飲む。疲れれば眠るのです。つまり自分のことを、意識することなく大事にしているのです。自分にはこんな優れたところがあるから、自分を大切にしているわけではないのです。或いは、私共は他人の失敗は厳しく責めても、同じような自分の失敗は笑って済ませる。そのように自分に対しては甘いものでしょう。この掟は、それと同じように、その人が良い人だからとか、自分に良くしてくれるからとか、そういう条件を一切つけないで、その人を受け入れ、その人を赦しなさいというのです。
 さて、このような第一の掟と第二の掟の説明を聞いて、皆さんはどう思われたでしょうか。すぐに「私には無理。」「私には出来ない。」そういう心の反応が引き起こされたのではないでしょうか。私は神様を愛する、愛したい。だけれど、いつでも、どこでも、何をしている時も、神様を第一にすることなんて出来ない。神様を忘れていることだって、しょっちゅうある。或いは、隣人を愛したいと思うけれど、自分のようには愛せない。特にあの人は絶対ダメ。無理。そんな風に思うのではないでしょうか。それが正直な私共の心の動きでありましょう。

6.あなたは、神の国から遠くない
 ここで、イエス様の答えを聞いた律法学者に注目しましょう。32~33節「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」とこの律法学者は言います。この人は、イエス様の答えが全く正しいことを知っています。そしてこの人は、この二つの掟に従うことは「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」とまで言うのです。しかし、何かが欠けています。この人は、この二つの掟が何よりも大切だということは知っている。しかし、知っているという所にとどまっているのです。知っているところにとどまっていますから、この掟を守れない自分に気付いていませんし、それが出来ないということに心を痛めてもいないのです。これが問題なのです。自分は出来るし、出来ていると思っている。だから、心は痛まない。しかし、それは本当でしょうか。  この律法学者は、このイエス様の答えに対して、「私もそのことは知っています。しかし、それが出来ないのです。どうすれば良いのでしょうか。」そのように、もう一歩、イエス様に問うべきだったのです。そうすれば、イエス様は必ず、福音の核心に迫る答えを与えてくださったに違いない。その答えとは、「悔い改めて、わたしに従いなさい。」ということであったろうと私は思います。
 イエス様はここで、この律法学者に対して、「あなたは、神の国から遠くない。」と言われました。「遠くない」という言い方は微妙です。イエス様はこの律法学者に対して、「あなたは神の国に入る。神の国に既に居る。」とは言われなかったのです。あなたは大切な所は知っている。頭では分かっている。しかし、それでは神の国に遠くないということではあっても、神の国に入ることは出来ないのです。何故なら、自分は出来る、出来ている、そう思っているのですから、悔い改めるということは起きず、イエス様に助けを求めることがないからです。これでは神の国に入ることは出来ません。聖書を読んで、キリスト教の知識を増やしても、この律法学者と同じ所、「知っている」という所にとどまるならば、その人にとって神の国はどこまでも「遠くない」という所にとどまってしまうのです。そこから一歩、イエス様に向かって踏み出さなければなりません。「主よ、憐れんでください。律法を全う出来ない、罪人である私を憐れんでください。」この一歩です。この一歩を踏み出すなら、私共は神の国に入ることが許されるのです。イエス様が神の国の門を開けてくださるからです。

7.律法の二つの役割
 教会は、律法について、二つの役割があると考えてきました。一つは、悔い改めへと私共を導くということです。この二つの掟は、私共が律法を全うすることが出来ないことを、はっきりと私共に示しています。私共は、神様を愛すること、隣人を愛することにおいて、いかに不徹底であるかを知らされます。それ故、私共は自らの罪を知らされ、イエス様の前に罪の赦しを求めるしかないのです。イエス様はそのような私共を憐れみ、全き罪の赦しを与えてくださり、聖霊を与え、全く新しい人間として生きることが出来るようにしてくださいます。
 このイエス様に新しくされた者にとって、律法は再び、生きる道筋を与えてくれます。これが律法のもう一つの役割です。悔い改めた者にとって律法はもう必要ない、役割の終えて無意味なものになるということではないのです。律法は、神様の子・神様の僕とされた私共にとって、神の国に向かってどのように歩んでいくのかという道筋を示してくれるものとなるのです。
 信仰が与えられたら、この二つの掟に代表される律法を完全に全う出来るようになるのかと言えば、そんなことはありません。これを完全に全うされた方はイエス様だけです。私共の中に、これを全うすることの出来る力はありません。しかし、そのイエス様が私共に聖霊を注ぎ、私共と一つになってくださり、この掟を全うすることが出来る歩みへと導き続けてくださるのです。この聖霊なる神様のお働きの中で、私共は変えられ続けていくのです。私共はそのことを信じて良い。そして、この変化の完成が、終末において私共が復活するあり方で成就するのです。
 悔い改めて、イエス様を信じ愛する者とされた者は、既に神の国に生き始めています。「遠くない」というのは、近くにあるけれど、方向は間違っていないけれど、神の国に入っていないのでしょう。しかし、私共は既に神の国に入り、生き始めているのです。確かにまだ完成はされていません。ですから、この掟を全う出来ないこともしばしばです。けれど、既に私共は神様と共にあるのです。だから、いよいよ神様を愛し、人を愛する者とされていきたいと思うのです。
 神様を愛することは、神様に仕えることです。隣人を愛することとは、隣人に仕えることです。私共は、いよいよ仕える者となり、謙遜な者とならせていただきたいと思うのです。大切なものは、知識ではなく愛なのです。知っている所にとどまることなく、悔い改めて、愛を注いでいただくことなのです。いよいよ愛する者とされるということなのです。いよいよ私共に神様の愛が、イエス様の愛が注がれ、その愛が私共からあふれ出していくよう、共に祈りを合わせたいと思います。 

[2015年4月19日]

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