富山鹿島町教会

礼拝説教

「復活の後の私は?」
出エジプト記 3章14~15節
マルコによる福音書 12章18~27節

小堀 康彦牧師

1.私共の救いの完成、復活、終末
 先週私共は、イエス様の御復活を喜び祝うイースターの記念礼拝を守りました。イエス様と一つに結ばれた私共にとって、イエス様の御復活は私共自身の復活の先取りですし、イエス様の十字架は私共自身の罪の裁きであります。ですから私共は、一切の罪を赦され、神の子とされ、やがて時が来ればイエス様と同じように復活することになるのです。これが、キリストの教会が二千年の間保持してきた、救いの希望です。しかし、ここで一つの問いが生まれるかもしれません。それは、私共は復活してどうなるのかという問いです。聖書はこの救いの完成の時私共がどうなるのかということについて、映像を見るように、こんな風になると誰もがイメージ出来るようには記しておりません。その意味では、この救いの完成、終末、復活ということについては、よく分からない所が残るのです。しかし、全く分からないかといえばそんなことはありません。全く分からないことを信じるなどということは出来ないでしょう。
 このことについて記した聖書の代表的な箇所を見てみましょう。ヨハネの黙示録21章1~4節です。こうあります。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」ここで大切なことは三点あります。
 一つ目は、「最初の天と最初の地」すなわち、私共が今生きているこの世界の天と地でありますが、これが「去って行く」。そして、新しい天と新しい地が下って来るということです。新しい天と新しい地の創造です。ここで創世記1章にあるような天地創造が再び為される、そのように考えても良いでしょう。いずれにせよ、私共が今生きているこの世界、この天と地は去って行くということです。
 二つ目は、神様と人が共に住むようになるということです。今も神様は私共と共におられるではないかと思われるでしょうが、もっとはっきりと明確に、いつでもどこでも神様と一緒にいる、そのような神様との親しい交わりの中に生きるようになるということです。
 三つ目は、そこでは死も悲しみも嘆きも労苦もないということです。私共の地上の生涯においては、悲しみと嘆きと労苦がいつも付いてきます。そして、その最後が死です。しかし、死が滅ぼされた復活の命の新しい世界においては、悲しみも嘆きも労苦もなくなるのです。そこは、愛と平和と喜びと賛美に満ちているでありましょう。死が完全に滅ぼされ、完全に神様と共に生き、交わるということになるのですから、当然といえば当然でしょう。
これらのことを念頭に置いて、今朝与えられております御言葉を見ていきたいと思います。

2.サドカイ派
 今朝与えられております御言葉は、十字架にお架かりになる直前、イエス様が、エルサレム神殿においてサドカイ派の人々と復活について問答したことが記されています。
 ここで「サドカイ派の人々」について若干の説明をいたしましょう。18節「復活はないと言っているサドカイ派の人々」と言われています。サドカイ派の人々は復活を信じなかったのです。復活だけではありません。天使も霊も信じません。更に聖書も、トーラー、律法、あるいはモーセ五書と呼ばれる、旧約聖書の最初の五つの書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)しか神様の言葉として認めない。モーセ五書には復活の記述はない。だから復活は信じない。そういうことでした。このサドカイ派の人々というのは、エルサレム神殿を中心とする祭司や貴族といった人々でした。当時のユダヤ社会において社会的地位が高く、経済的にも豊かな人たちだったと考えて良いでしょう。ですから、ローマに支配されている状況も認めていました。親ローマという立場です。今申しましたこのようなサドカイ派の特徴は、ファリサイ派の特徴とちょうど正反対です。だから、サドカイ派とファリサイ派はいつもは仲が悪かったのです。でも、イエス様を亡き者にしようとした時、この二つのグループは手を結びました。

3.復活なんてないというサドカイ派の議論
 このサドカイ派の人々がイエス様に、復活なんてないのだという議論を仕掛けたのです。彼らはこう言いました。「七人の兄弟がいた。長男は妻を迎えたが、子をもうけずに死んだ。次男がその女性を妻に迎えたが、やはり子をもうけずに死んだ。三男も同様だった。こうして次々と七人の兄弟とその女性は結婚し、最後に女性も死んだ。復活の時には、その女性は誰の妻になるのか。」もちろんこれは、実際にそういう人がいたということではないでしょう。復活なんてものはないのだということを論じるために作った話です。
 ここでサドカイ派の人々が論拠にしているのは、申命記25章5~6節にある言葉です。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」とあります。つまり、兄弟が子を残さずに死んだのならば、その妻を兄弟が娶らなければならないのです。これはレビラート婚と言われる、家系を絶やさないようにするための結婚の取り決めです。しかし、レビ記20章21節には、「兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めたのであり、男も女も子に恵まれることはない。」とあります。つまり、兄弟が生きている時にその妻を他の兄弟が娶ることは汚らわしいことであり、兄弟を辱めることになるのです。この二つの箇所を合わせて考えますと、「兄弟が死んだならば、兄弟の妻を娶れ。生きている時に兄弟の妻を娶ってはならない。」となります。ですから、もし復活してこの女性が誰かの妻となるならば、申命記25章の言葉とレビ記20章の言葉は矛盾することになる。神の言葉である律法が矛盾するということはあり得ない。従って、復活はない。それがサドカイ派の人々がここで言おうとしていることなのです。
 ここでサドカイ派の人々は、復活ということを、この世界の延長として考えているわけです。ここに根本的な誤りがあります。

4.私共の復活の体は?
 しかし、私共もサドカイ派の人々と同じように復活を考えている所があるのではないかと思います。死んで天国に行ったら家族皆で仲良く暮らそうとか考えたり、まるで理想郷のように、復活の後のことを考えるわけです。
 前任地で、こういう婦人がおられました。御主人が若い時にキリスト者となり、自分もキリスト者になった。しかし、御主人は肺結核で30歳そこそこで亡くなった。この婦人は御主人が亡くなった時はまだ20歳代でしたが、二人の息子を女手一つで育て上げ、もう90歳近くなった。その婦人がこう言うのです。「天国に行ったら主人に、こんなおばあちゃんは嫌だと言われるのではないか。」真顔で心配するのです。皆さんならどう考え、どう答えるでしょうか。
 これは、私共が復活する時の姿はどういうものかという問いです。これは、中々深刻な問いです。この問いは、この地上において障害を持って歩まれた方は、復活の時、やはり障害を持った体で復活するのだろうかという問いにもなります。あるいは、癌でボロボロに侵された肉体は、そのボロボロになったままで復活するのか。交通事故の場合はどうか。事故でぐちゃぐちゃになった体で復活するのか。
 このような問いは、すべてこのサドカイ人の問いと同じ過ちを犯しているのです。それは、この地上の命、地上の肉体、地上の親子、夫婦の関係、その延長として復活後の自分を考えているということです。

5.復活の体は天上の体、霊の体
 イエス様はこのサドカイ人の問いに対して、こう答えられました。24~25節「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」ここでイエス様は、「あなたたちは聖書も神の力も知らない」と言われます。律法は、この地上での歩みについて述べているのであり、神様は私共が復活する時、全く新しい世界を創造され、私共はそこに生きることになる。そこでは、私共はめとることも嫁ぐこともない。この地上の生活の延長として復活があるのではないのだ。私共は天使のようになるのだ。天使のようになるとは、全く別の存在になるということでしょう。パウロは、復活の体について、コリントの信徒への手紙一15章40節「天上の体と地上の体がある」と言い、44節「自然の命の体に蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」と言っています。私共の復活は体のよみがえりであって、幽霊のように霊だけがあるというようなものではありません。しかし、その復活の体は、天上の体、霊の体であって、このタンパク質で出来た体と同じではないのです。そうでなければ私共の復活は、単に死んだ体が甦生しただけで同じように罪を犯し、同じように悪口を言い合うことになります。それは、ちっとも救いではありません。
 私共は復活ということについて、復活した後の自分を、この地上での生活の延長として考えてはならないのです。新しい創造に与る、全く新しい私に造り変えられるのです。それはこの体だけのことではありません。夫婦、親子、兄弟、そのような関係もまた、新しくされるということなのです。天使のようになるとはそういうことなのです。このことについてヨハネは、ヨハネの手紙一3章2節で「御子に似た者となる」と言っています。これも同じことです。罪に満ちた私共が、あのイエス様に似た者として造り変えられ、復活するのです。
 「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく」とイエス様はここで言われました。これを残念と思うか、良かったと思うか、人それぞれだと思いますが、これを残念と思うにしろ、良かったと思うにしろ、この結婚という関係もまた、復活する時全く新しいものになるということなのです。復活する私共が全く新しくなるのですから、そのお互いの関係もまた、全く新しいものになるのです。結婚というものは、私共罪ある者が愛を学ぶ、愛の交わりを形作る、そのために与えられた地上における秩序です。しかし、復活において私共の愛もまた完成されるわけですから、結婚という形もまた必要ではなくなるということなのでありましょう。

6.復活の一番の歓び
 私共の想像力は、どうしても目に見えるものを元にして考えてしまうという限界を持っておりますから、この復活というものは私共の思いをはるかに超えている、そう言わざるを得ません。しかしここで、サドカイ派の人々が犯したような過ちを犯さないように、とイエス様は言われたのですから、私共はイエス様が復活なさったこの事実を元に、自分の復活ということも考えなければいけないということなのでありましょう。イエス様の復活の出来事を切り離して復活ということを考えるならば、どうしてもサドカイ派の人々と同じ過ちを犯してしまうことになるからです。
 私共は、復活された御子イエス・キリストと似た者とされるということなのです。そして私共が復活して会って喜ぶのは、夫や妻、父や母、あるいは自分の子ではなくて、神様御自身であり、イエス様御自身だということなのです。もちろん、地上で親しかった人とも再び会うことになるでしょう。それはそれで嬉しいことであるには違いありません。しかし、それ以上に嬉しいのは、神様とお会いすること、イエス様とお会いすること、神様、イエス様との親しい交わりに生きることになるということなのです。そこに愛の完成があるからです。もし、私共が愛する者と再び会うことが復活における一番の歓びであるとするならば、そのような復活理解は全く間違っています。何故なら、その裏返しは「あの人には会いたくない。」ということになるからです。それでは、ちっとも救いの完成にはなっていません。地上の延長でしかありません。それはイエス様によって与えられた復活の希望ではありません。

7.アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
 イエス様は復活の証拠として、サドカイ派が誤りなき神の言葉として重んじていたトーラー、律法の中の出エジプト記3章の言葉を引用されました。モーセと神様が最初に出会った場面です。神様は御自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言われました。もし、死んですべてが終わりなら、アブラハムもイサクもヤコブも、このモーセと神様が出会った時から400年も前の人なのだから、とっくに死んでいるわけです。しかし、彼らが死んでもう滅んでしまったのなら、神様がその死んだ人の名をもって御自身を紹介するということはあり得ない。何故なら、27節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」とイエス様は言われるからです。「死んだ者の神ではなく、生きている者の神。」それはその通りでありましょう。そうでなければ、サドカイ派の人々だって困ってしまいます。サドカイ派の人々は現実主義ですから、今生きている自分たちにとって神でなければ、信仰なんて何の意味もない。そう考えていた人たちです。ですから、このイエス様の「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」という言葉には頷くしかありません。そして、そうであるならば、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と神様が御自身を指して言われた時、アブラハムもイサクもヤコブも生きていたということではないのか、とイエス様は言われるのです。確かに彼らはとっくの昔に死んでいる。しかし、死んでもなお生きている。これは、永遠に生き給う神様と契約を結んだ者は、肉体の死をもってしても、永遠に生き給う神様との関係を失うことはない。神様の御許に生き続けるということなのであります。そして、その神様の御許にある命が、復活というあり方において、時至れば現れるということなのでしょう。

8.私の神となられた
 アブラハム、イサク、ヤコブの神は、私の神となってくださいました。そして、私共を「我が子よ」と呼んでくださり、私共は神様に向かって「父よ」と呼ぶことが許されています。この交わりは死において終わるどころか、復活において完成されるものなのです。私共はやがて死にますが、それで終わりではなく、復活するのです。それは単に肉体が甦生するというようなことでは全くないのです。それは、キリストに似た者として霊の体によみがえるのであり、救いの完成であり、神様との完全な交わりが与えられることであり、この世界が過ぎ去り全く新しい世界を生きることになるということなのであります。それが、主イエス・キリストの十字架と復活によって私共に与えられている、救いの約束なのです。私共はそのことを信じて生きるのです。
 それは信じ難いことであり、私共の想像を超えていることです。しかし、聖書は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ人への手紙11章1節)と告げております。また、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙二4章18節)と告げております。イエス様の御復活によって私共に与えられた希望は、見えないことなのです。目で見たり、手で触れて確認出来ることではありません。しかし、ここにこそ、私共の確かな希望があるのです。

[2015年4月12日]

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