1.私共に直接関わるイエス様の御復活
今朝私共は、イエス様の御復活を喜び祝い、礼拝をささげるために集まって参りました。イエス様が金曜日に十字架に架かって死なれ、日曜日に復活された。この出来事は二千年前にただ一度起きたことでありますけれど、ただ昔々こういうことがあったということではありません。イエス様が父なる神様によって復活させられたというこの出来事は、直接私共に関わることなのです。だから、私共はこのことを喜び祝うのです。どのように私共と関わるのか。
それは、イエス様は私共の初穂として復活させられたのであって、私共もまたイエス様と同じように、時が来れば復活させられるということです。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一15章20~21節で、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」と告げています。イエス様は神の御子であり、神様と一つであったから、自分の力で復活した。そういうことではないのです。聖書は、イエス様の復活についてはいつも受け身の形、”復活させられた”と記しています。翻訳の都合上、”復活された”と訳されていても、原文ではすべて受け身の形で記されているのです。イエス様は父なる神様によって復活させられたのです。それは、私共もまた、父なる神様の御力によって復活させられるということを意味しています。私共の中に復活する力などあるはずもありません。しかし、天地を造られた父なる神様にはお出来になります。イエス様は、私共の一切の罪の裁きを十字架の死によって担われました。私共がアダム以来の罪によって死ぬべき者とされている、その様と同じように十字架の上で死なれ、三日目に復活させられたことによって、私共もこの地上の命が死をもって終わっても、やがて時が来れば復活させられる、そのことの確かな証しとなってくださったのです。使徒パウロはこのことについて、ローマの信徒への手紙6章4~5節「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」と告げています。私共が洗礼を受け、キリスト者となったということは、主イエス・キリストと一つにされたということです。主イエス・キリストと一つにされた以上、イエス様の十字架は私の罪の上に下された神様の裁きであり、イエス様の復活は私の復活の初穂なのです。だから、私共はイエス様の復活を自分のこととして喜び祝うのです。
2.信仰による認識としての復活
これは、信仰による認識です。実験して再現することによって、誰もが疑うことなく受け入れることが出来る認識ではありません。聖霊なる神様によって与えられる認識です。誰も証明することは出来ません。しかし、このことを知らされた者は、人生において出会うどのような苦しみ、悲しみ、嘆きによっても、踏みつぶされることはありません。生きる力と勇気、希望と喜びを、完全に失うことはありません。何故なら、復活を信じる者は、死を打ち破って復活を与え給う神様が、その全能の力をもって私共を守り、支え、導いてくださることをも信じることが出来るからです。死は、私共にとって一切のものを空しくしてしまう、最も力ある、最大の敵です。どんな豊かな富も、栄光も、知性も、麗しい交わりも、死がやって来ればすべては空しくなります。死はすべてを飲み込み、すべてを消し去っていきます。死に対抗することが出来る人は誰もいません。しかし、天地を造られたただ一人の神様だけは別です。死さえも、神様の御前ではまったく無力なのです。天地を造られた神様は永遠から永遠まで生きておられ、すべてをその御手の中で支配しておられます。この方が私共に、死を打ち破り永遠に生きる道、復活の命の道を備えてくださったのです。
しかも、そのために神様は、愛する独り子であるイエス様を私共のために、私共に代わって十字架にお架けになりました。そこまでして私共を救いたい、死の滅びから救い出したいと思われた。その神様の愛の御手は、私共が死んでから初めて私共の上に伸ばされるのでしょうか。そんなことはあり得ないでしょう。全能の父なる神様の愛の御手は、どんな時でも私共と共にあるのです。死さえも打ち破られる全能の神様が、私共と共にいてくださるのです。ですから、私共は決して絶望しないのです。この神様の御手の中にある明日を信じるからです。死に比べれば、私共を襲う苦しみは、最終的、決定的なものではありません。神様は、その死さえも滅ぼす全能の力をもって、必ず道を拓いてくださる。私共はそのことを信じて良いのです。イエス様の復活を信じるとはそういうことです。やがて私共も死ぬでしょう。しかし、それが終わりではない。神様によって復活させられる。とするならば、その神様の救いの御手は、私共が死を迎える前から、つまり今、神様は私共を捕らえてくださっているはずなのです。私共はそのことを信じて良いのです。そうでなければ、どうして神様は私共に聖霊を与え、信仰を与えてくれるでしょうか。私共に信仰が与えられたということは、私共が既にこの神様の大いなる御手の中にあるということの確かな「しるし」なのです。
3.イエス様の復活を期待していなかった婦人たち
さて、週の初めの日、つまり日曜日ですが、マグダラのマリアともう一人のマリアが明け方にイエス様の墓を見に行きました。マルコによる福音書やルカによる福音書では、彼女たちは香料を持って墓に行ったと記されています。イエス様は金曜日の午後三時に息を引き取られました。金曜日の日没から安息日が始まりますから、時間がなくて、当時の葬りの作法としての香料を遺体に塗るということが出来なかったわけです。イエス様に従っていた彼女たちにすれば、愛するイエス様を失った嘆きの中にありましたけれど、せめて香料だけでもとの思いに駆られたことは想像出来ます。あるいは、マタイによる福音書にはその記述がありませんので、愛する者を失ってただただ遺体の近くにいたい、その一念で墓に来たのかもしれません。これもまた、愛する者を死によって失ったことのある人ならば分かる思いではないかと思います。
いずれにせよ、彼女たちはイエス様が復活することなど少しも期待していなかった。そんなことは思ってもいなかったのです。しかし、イエス様は御自身が殺されること、そして復活することを三度も予告しておられていたはずです。三度というのは、単なる回数以上の意味があります。三は完全数です。ですから、三度予告したということは、「完全に」「徹底的に」「間違いなく」予告したということです。しかし、彼女たちはそのことを少しも信じていないし、思い起こしてもいない。彼女たちだけではありません。弟子たちにしても同じことです。どうしてでしょう。それは、それほどまでに死というものが絶対的なものであり、それほどまでに復活ということが信じがたいものであるということなのでありましょう。死んだらおしまい。弟子たちもイエス様に従っていた女性たちも、そう思っていたということです。それは昔も今も変わりません。死ぬまでは、死なないように何かと手を尽くし、そのために祈りもする。しかし、死んでしまったら、もう何をやっても無駄。何も出来ない。すべては終わり。昔も今も、人はそう思うのです。それが常識なのです。
しかし、神様は私共の常識の中には収まりません。死と同時に、私共の常識をも打ち破り、イエス様を復活させられたのです。
4.空(から)の墓
彼女たちがイエス様の墓に行きますと、大きな地震があり、イエス様の墓(当時の墓は横穴です)をふさいでいた大きな石がわきに転がり、その上に天使が座ったのです。
墓の番をしていた番兵は、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったと聖書は記します。聖なる神様の御臨在と御業に触れ、ただただ恐ろしかったのでありましょう。私共もこんな風に天使に出会えば、恐ろしくて腰を抜かすと思います。マリアたちも恐ろしかったのです。その彼女たちに向かって天使はこう告げました。5~6節「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」石がわきに転がされていましたので、彼女たちはイエス様の墓の中を見ることが出来ました。彼女たちはイエス様の墓を覗いたことでしょう。そして、墓の中は空っぽでした。イエス様の御遺体はそこにはなかったのです。
聖書は、四つの福音書とも、イエス様がどのように復活し、どのようにして墓から出られたかということについては何も記しておりません。ただ墓の中が空っぽだったと告げているだけです。墓が空っぽだったというだけでは復活したとは言えないではないか。誰かが夜の間に来て遺体を盗んだ。そう考えるのが合理的なのかもしれません。確かに、イエス様の復活を信じないユダヤ人たちは、そのように言います。今朝与えられている御言葉の直後の所に、11~15節「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。『「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。』兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」とある通りです。
聖書は、空の墓を見て彼女たちがイエス様の復活を信じたとは記していません。7~8節「『それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」確かに、あなたがたに伝えました。』婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」彼女たちは、天使にイエス様の復活を告げられ、イエス様は先にガリラヤに行かれるから、そこでお会い出来る。そのことを弟子たちに伝えなさいと言われました。この時、婦人たちは天使が告げる言葉は分かったと思いますが、それが一体どういうことなのか、それは少しも分からなかったのではないかと思います。とにかく弟子たちに伝えよう。イエス様が復活された。ガリラヤでまたお会い出来る。そう天使が言っていた。これをとにかく伝えよう。何が何だか分からないままに、しかし、イエス様は死んで終わったのではないということは何となく分かったでしょう。だから、「恐れながらも大いに喜んだ」のです。そして、彼女たちは弟子たちのもとに急いで走ったのです。
5.復活のイエス様との出会い
聖書は、彼女たちが弟子たちに伝えようと走って行く途中で、復活のイエス様に出会ったと告げています。9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」ここで「おはよう」と訳されている言葉は、「喜べ」という言葉です。挨拶として、朝昼晩いつでも使われていた言葉ですので、このように「おはよう」と訳されていますが、これは少し軽いのではないかと思います。直訳して「喜べ」と訳すのが良いのではないかと私は思います。いずれにせよ、復活のイエス様御自身が彼女たちの前に姿を現されたのです。この復活のイエス様との出会い、これこそキリストの教会が保持してきた復活信仰の根っこにあるものです。
ここでイエス様は復活された御姿を婦人たちに現されました。そして、その後弟子たちに、しかも何度も、それから多くの弟子たちにその姿を現されたのです。ルカによる福音書や使徒言行録によりますならば、40日間にわたってイエス様はその復活された姿を現されたのです。パウロはこのことについて、コリントの信徒への手紙一15章3~8節「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」と告げています。何人かに現れたということではないのです。主イエスの弟子たちはこの復活されたイエス様に出会ったのです。実に、これがキリスト教を成立させた出来事だったのです。だから、イエス様が捕らえられた時に自分の身を守るために逃げ去った弟子たちが、自分の命も顧みずに「イエスは主なり。」「イエス・キリストは神の子なり。」「イエスは十字架に架かり三日目に復活された。」と宣べ伝えたのです。そして、事実、弟子たちの多くは殉教したのです。それでも彼らは伝えたのです。復活の命があることを知らされたからです。復活の主イエスと出会ったからです。
6.復活のイエス様との出会いの局面
教会はこの復活のイエス様と二つの局面で出会い続けてきました。一つは伝道です。婦人たちが、良く分からないなりに弟子たちにイエス様の復活を伝えようとしたその途中で復活のイエス様に出会ったことが、それを示しています。私共は、イエス様の復活の出来事をどう伝えれば良いのか分からない。それを伝えるべき言葉を知らない。どう語れば信じてもらえるかと考え、戸惑い、躊躇するかもしれません。確かに、皆が信じ、受け入れてくれる説明など思いつきません。イエス様の復活とは、そもそも誰もが信じられるようなことではないのです。しかし、確かなことは、たとえそうであっても教会はそれを伝え続けてきた。そして、それを伝える中で、イエス様が本当に生きて働いてくださっているということを知らされ続けてきたということなのです。信じない者が信じる者に変えられる。この救いの出来事の中に、生けるキリストのお働きを、復活のイエス様の御臨在を、見させていただいてきたのです。だから、キリストの教会は今もこうして立ち続けているのです。
もう一つの局面は、この婦人たちが復活のイエス様に出会って何をしたか。「婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」とあります。これがキリスト教会の最初の礼拝です。今までも、イエス様を「生ける神の子、キリストです。」と告白してはいました。しかし、イエス様を神様として拝んだことはありませんでした。しかしここで、婦人たちは復活のイエス様を拝んだのです。このイエス様は足があったのですから、幽霊ではありません。彼女たちは、復活のイエス様を神様として拝んだのです。ここに、復活のイエス様と出会うもう一つの局面があります。つまり、この礼拝のただ中において、私共は復活のイエス様の御姿を仰ぎ、拝んできたのです。この礼拝において、キリストの教会は復活のイエス様と出会ってきたのです。だから、週の初めの日、イエス様が復活された日曜日に私共は礼拝をささげているのです。この礼拝の中心にあるのは、聞く御言葉としての聖書朗読と説教、そして見る御言葉としての聖餐です。説教において私共は復活のイエス様の言葉を聞き、聖餐において復活のイエス様の体と血とに与るのです。復活のイエス様が「我に聞け。」と告げられ、復活のイエス様が「我が体を食べよ。我が血を飲め。」とパンと杯を差し出されるのです。これにより、私共は復活されたイエス様との親しい交わりに与るのです。
7.復活のイエス様による再召命
復活のイエス様は、10節「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と告げられました。ガリラヤは、弟子たちがイエス様と共に歩んだ地です。イエス様と出会った所です。イエス様の言葉を聞き、イエス様の御業を見た場所です。イエス様は、自分を見捨てて逃げた弟子たちをもう一度召し出し、やり直そうと招かれたのです。
復活のイエス様と出会うということは、このやり直し、生き直しを、復活のイエス様と共にさせていただくということなのです。私共は弱く、愚かで、罪に満ちた者でありますから、その信仰の歩みは少しも誇れるところはありません。つまずいたり、つまずかせたりするのです。しかし、復活のイエス様が招いてくださり、やり直させてくださるのです。恐れることはない。大丈夫。あなたの罪は、裏切りは、わたしを十字架に架けた。しかし、わたしは復活した。あなたの罪は最終的なものでも、決定的なものでもない。大丈夫。もう一度やろう。復活のイエス様は、そのように今朝も私共に呼びかけ、招いてくださっているのです。
私共は今から聖餐に与ります。復活のイエス様が差し出してくださる体と血とに与り、イエス様と一つにされ、最早、死さえも私共を滅ぼすことが出来ない、全能の父なる神様の御手の中にある者とされていることを、感謝をもって受け止め、共々に復活のイエス様をほめたたえたいと思います。
[2015年4月5日]
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