富山鹿島町教会

礼拝説教

「仕えられるためではなく、仕えるために」
イザヤ書 25章4~10節
マルコによる福音書 10章32~45節

小堀 康彦牧師

1.レントを迎えようとする時
 今年のイースターは4月5日です。クリスマスは12月25日と決まっているのに、イースターは毎年、その日が変わります。どうしてだろうと思っている方もおられるかもしれません。クリスマスは太陽暦を用いるようになってから定められたので日が変わることがないのですが、イースターは太陽暦を用いる前から定まっておりましたので、毎年太陽暦に換算して決められます。それで、日が変わるのです。では、どうやって決めるかと申しますと、春分過ぎの満月の後の、最初の日曜日がイースターということになっています。そして、このイースターの前の期間、日曜日を除く40日間を受難節(レント)と言って、クリスマスの前のアドベントのように、イースターに向けて備える時とされています。今年は、来週の水曜日、2月18日から始まります。イースターの7つ前の主の日の週の水曜日です。私共は改めてこの日に何かするということはありませんけれど、この日は「灰の水曜日」と言って、悔い改めの祈りを捧げ、イエス様の十字架の御苦難を覚えることになっています。
 今朝与えられております御言葉は、32節「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。」と始まっております。イエス様たちがエルサレムに向かって進んで行く。エルサレムで待っているのは十字架です。イエス様はその十字架に向かって歩み出されたのです。ここから後の所はすべて、エルサレムにおける十字架に向かっての歩みです。これ以前の所は、イエス様がおもにガリラヤ地方を中心に活動されたことが記されておりました。この時期を「ガリラヤの春」と言ったりします。この言い方からも想像出来ますように、これ以前の所では、イエス様は村から村へと旅をしながら人々を癒やされたり、教えを宣べたりと、少し穏やかな日々を過ごされていた時期と言えるでしょう。しかし、次の11章においてイエス様はエルサレムに入られるわけですが、それ以降に記されていることは、受難週と呼ばれる一週間の出来事なのです。まさにレントに入ろうとするこの時、エルサレムに向かって歩み出されるイエス様の姿を、共に心に刻むことの出来る幸いを感謝しています。

2.エルサレムに向かって
 イエス様は、エルサレムへ向かうこの時、「先頭に立って進んで行かれた」と聖書は告げています。この先頭に立って進んで行かれるイエス様の姿には、自らの意思で、はっきりと、ぶれることなく、十字架に向かって進むイエス様の心が表れています。それに対して、イエス様に従う弟子たちはどうだったかと申しますと、「それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」と記されています。ここには、十字架に向かうイエス様と弟子たちとの間の温度差のようなものが表れていると言って良いでしょう。イエス様は、御自分が十字架に架かるということがどういうことなのか、はっきり分かっておられるわけです。しかし、イエス様に従う弟子たちはそれが分からない。しかし分からないなりに、何か大変なこと、恐ろしいことであることだけは分かる。それで、敢然とエルサレムに向かって進んで行かれるイエス様を見ながら、驚き、恐れたのでしょう。この恐れは、自分はイエス様について行けるのか、ついて行ったらどうなるのか、そういう恐れであったろうと思います。
 その恐れを裏打ちするように、イエス様は弟子たちに、これから起こることを話されたのです。33~34節「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」ここでイエス様は、エルサレムにおいて何が起きるのかということをお告げになったわけですが、イエス様の十字架と復活の予告は、これで三度目です。8章31節と9章31節においても告げられておりました。8章31節の時は、その後でペトロがイエス様をいさめました。9章31節の時は、その後で弟子たちは誰が一番偉いのかと話します。どちらも、弟子たちにはイエス様の十字架の苦難の意味が全く分からなかったことを示しています。それは今回も同じです。弟子たちには分からないのです。しかし、恐ろしいとんでもないことが起きる、そのことだけは分かった。この三回目は、今までの二回に比べて、より具体的で、何が起きるのかということが丁寧に語られています。弟子たちは、いよいよその時が近づいている、そのことだけは分かった。それ故に、彼らは驚き恐れたのです。

3.十字架の意味
 イエス様はここで、御自身がお架かりになる十字架の意味というものを語られました。それが45節です。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」これは、ヤコブとヨハネとがとんちんかんな願いをイエス様にし、それにイエス様がお答えになるという流れの中で語られたことでありますが、実にイエス様が御自分の十字架の意味を自らの口で告げられたという、とても重要な言葉です。
 「人の子」というのは、イエス様が御自身を指して言う場合の言葉です。イエス様は仕えられるためではなく仕えるために来たというのです。イエス様は救い主、メシアであることは弟子たちも信じておりました。8章におきまして、イエス様が最初の受難予告をされる直前の所で、ペトロが「あなたはメシアです。」とはっきり告げた通りです。しかし、弟子たちの考えるメシアとは、神様から与えられた大いなる力をもってユダヤの民を支配し、導き、ユダヤの民に繁栄をもたらす方でした。軍事的、政治的メシアです。このメシアは、人々を自分のものとして支配し、仕えさせる者です。人々に仕えるなどということはあり得ない。しかしイエス様は、「仕えられるためではなく仕えるために来た」と告げたのです。
 更にイエス様は「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と告げるのです。これが、イエス様が人に仕えるということの内容です。この「多くの人」というのは、イエス様がお語りになったアラム語では「すべての人」という意味を持ちます。身代金というのは、文字通り、それを支払うことによって、その人が解放されるための代償金です。何から解放されるのか。それは罪からであり、死からであり、サタンからでありましょう。それらからすべての人を解放するために、自分は身代わりとなる。そのために十字架につく。わたしはそのために来たのだ。そうイエス様は告げられたのです。これが、イエス様が弟子たちに告げられた十字架の意味です。弟子たちはそんなことを考えたこともありませんでした。メシアが罪人の身代金として十字架にかけられる。こんなことは、弟子たちだけではありません、誰も考えたことがなかったことです。しかしこれだけが、神様に似たものとして造られた人間が、再び神様との交わりを回復し、本来の自分の姿を回復する道でした。神様が備えてくださったただ一つの救いの道でした。その道を拓くためにイエス様は来られたのです。

4.弟子たちの無理解
 さて、イエス様にこれから起こることをはっきりと告げられた弟子たちはどうしたでしょうか。35~37節「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」これは、イエス様が9章31節において二回目の受難予告をされた後で、弟子たちが「誰が一番偉いのか」と話し合った出来事と重なります。ヤコブとヨハネ。彼らはペトロと共に十二弟子の中でも、最もイエス様に近い弟子でした。この三人は、イエス様が特別なことを為される時に、いつもそばにいたのです。5章で会堂長の娘を復活させられた時、9章でイエス様が山の上でその姿を変えられた時、14章でイエス様がゲツセマネで祈られた時、イエス様はいつもこの三人をそばに置かれています。この3人の中でペトロに対しては、マタイによる福音書16章においてペトロがイエス様を「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白したので、イエス様は「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」と告げられました。特別な地位、特別な約束が与えられたのです。考えすぎかもしれませんが、ヤコブとヨハネは、ペトロがイエス様にそのように言ってもらったので、だったら、ペトロといつも一緒にいる自分たちにも特別な地位を与えるという約束が欲しい、そう思ったのではないでしょうか。
 ヤコブとヨハネはここで、「栄光をお受けになるとき」と言っています。多分、彼らのイメージは、イエス様は確かに殺されることになるのだろう。しかし復活する。その時には、イエス様は全能の力をもってローマ軍を破り、世界を新しくし、ユダヤ人が支配する神の国を造られるはずだ。その時には、自分たちをイエス様の右と左に、つまり右大臣・左大臣のような地位に就けてください。そういうことだったのではないかと思います。彼らはどこまでも上下関係、ピラミッド型の社会、そういうものの発想から自由になれなかったのです。それは、イエス様の御支配、神の国というものを、この世の延長でしか考えることが出来なかったということでありましょう。
 イエス様はこの願いに対して、38節「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と告げます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」というのは、イエス様がメシアであるとはどういうことなのか、イエス様が十字架の苦しみを通して建てられる神の国がどういうものであるか、それがちっとも分かっていないということでしょう。そして、「わたしが飲む杯」「わたしが受ける洗礼」とは、これからイエス様が味わうことになる十字架の苦しみを言っているわけです。それに対して彼らは、「できます。」と明言するのです。確かにここで「できます。」彼らは明言しました。しかし、本当に出来たでしょうか。出来なかったのです。イエス様が捕らえられた時、ペトロがイエス様を三度「知らない」と言ったように、ヤコブもヨハネもイエス様を捨てて逃げたのです。彼らは、この時何も分からなかったのです。
 彼らは、イエス様は十字架に架けられて死ぬ。そのイエス様に自分たちもついて行くのだ。そして、復活されるイエス様と一緒に神の国を支配するのだ。この時、弟子たちはそう思っていたのです。これはヤコブとヨハネだけではありませんでした。41節を見ると、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」とあります。他の弟子たちも腹を立てたということは、彼らも同じように思っていたということでしょう。ここにあるのは、何か良いことをして神の国に入るという発想です。イエス様に最後までついて行って、その見返りとして、神の国で高い地位に就く。これは実にわかりやすい。良いことをすれば救われる。悪いことをすれば裁かれる。これは、この世の秩序と神の国の秩序を同じように考えているわけです。ですから、分かりやすいのです。信仰無しで分かるのです。多くの宗教が教えているのもこれと大差ありません。しかしこれは、イエス様が与えようとされた福音ではないし、イエス様によってもたらされる神の国の姿ではないのです。

5.神の国の秩序
 イエス様はこう告げられました。42~43節「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。」ここでイエス様はこの世の現実、この世の秩序に対して、神の国の現実、神の国の秩序を教えられたのです。この世の現実、この世の秩序とは、支配者・偉い人が人々の上に立って権力を振るい、支配するということでしょう。ここでイエス様は「支配者と見なされている人々」と言われます。本当の支配者ではないのです。見なされているだけです。大変な皮肉です。本当の支配者は神様しかおられません。しかし、この世には支配者と見なされている人がいる。これは本当の支配者ではありませんので、すぐに変わるのです。昨日まで支配者だった者が、今日はただの人、あるいは獄に入れられる。そういうことが起きる。これは歴史の中ではよくあることです。それは彼らが本当の支配者ではないからです。この世の支配者は軍事的・政治的支配者でしょう。これらの支配者は、負けたら終わりなのです。ですから、いつも力で人の上に立とうとするのです。しかし、イエス様は「あなたがたの間では、そうではない。」と言われます。何故なら、イエス様の弟子は、この世にあっても神の国を指し示す者だからです。神の国の秩序の中に生き始めている者だからです。神の国においては、支配者と見なされる人はいません。ただ独りの本当の支配者である神様がおられるだけです。そして神様は、力によって支配されるのではなく、愛によって支配されるのです。
 愛による支配とは、まず神様が最も愛すべき独り子を私共の救いのために献げてくださり、痛みを負ってくださり、その愛に応えて私共が喜んで神様にお仕えするというあり方で生まれるものです。その神様の愛が、イエス様というお方に現れたのです。イエス様の十字架というあり方で示されるのです。このイエス様の愛に触れ、愛を受け、この愛に応えて生きようとする者、それがキリスト者です。イエス様の弟子なのです。ですから、43節b~44節「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」とイエス様は言われたのです。どうしてか。イエス様が十字架にお架かりになるというあり方で、すべての人の罪の身代金として命を献げるというあり方で、仕える者となってくださったからです。このイエス様に従う、このイエス様に倣うのが、イエス様の弟子の有り様だからです。
 誤解してはいけないのは、ここでイエス様が言われたのは、「偉くなるために、一番上になるためには、まずは皆に仕え、すべての人の僕にならなければならない」ということではないということです。それでは結局の所、人の上に立つ、偉い人になる、一番上になるための手段として、すべての人に仕えるということになってしまいます。すべての人に仕えるという良い業によって、一番上に立つようになるというようなことでは、何も変わりません。そうではなくて、偉くなるとか、一番上になるとか、そういうこと自体がもう、神の国にはないのです。
 宗教改革の三大原理の一つに、万人祭司というものがあります。宗教改革がなされた時、教会にはローマ法王を頂点とするピラミッド状の階級がありました。ローマ法王、枢機卿、大司教、司教、司祭、そして一番下にいるのが信徒です。そして、大司教や枢機卿といった位の高い聖職者は、大領主として、王様や貴族のように人々の上にいたのです。宗教改革者ルターは、「それはおかしい。教会が神の国の写し絵のように、神の国を指し示すものであるとするならば、神様の下に、地位も位もあるはずがない。キリストの弟子としての有り様は、互いに僕として仕え合う。それしかないはずだ。」そう主張したのです。その通りなのです。ですから、私共の教会にも牧師や長老、執事といった職務はありますが、それは神と人とに仕えるための役割の分担でしかありません。上下の関係ではまったくないのです。
 イエス様の弟子である私共は、互いに仕えるというあり方以外の生き方を知らないのです。それは、イエス様がまず御自身を十字架に架けて、私共に命を献げるというあり方で仕えてくださったからです。このイエス様に私共は従っていくのです。私共は既にイエス様の救いに与り、神の国に生きる者とされています。神の国の秩序に生きる者とされているのです。私共は今、イエス様の十字架の救いに与り、イエス様と共に生きています。そして肉体の死を超えて、永遠にイエス様と共にあることになる。そこに私共の喜び、私共の希望があるのです。

[2015年2月8日]

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