富山鹿島町教会

冬期総員礼拝説教

「神には出来る」
創世記 18章1~15節
マルコによる福音書 10章23~31節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝私共は、総員礼拝として主の日の礼拝を守っております。一年で一番雪も多く、なかなか出にくい季節ですが、そうであるが故に、あえて総員礼拝として共々に御言葉を受け、聖餐に与って、御国への歩みを確かにしていこう。そのような思いで始められたものです。数日前の天気予報では大雪になるということでしたので、少し心配しておりましたが、幸い雪はほとんどなく、良かったです。
 さて、今朝与えられております御言葉は、10章17節以下の、ある金持ちの人がイエス様に「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねた出来事に続く所です。この時イエス様は、十戒の後半の部分、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え。」と告げました。するとこの人は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と答えました。そこでイエス様は、「あなたに欠けているものが一つある。」と言われ、「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」と言われました。その言葉に、この人は悲しみながら立ち去ったのです。たくさんの財産を持っていたからです。
 これが二週間前の主の日に受けた御言葉でした。イエス様はここで、持ち物を売り払って貧しい人々に施すという良き業がこの人に欠けていると言われたのではありませんし、持ち物をすべて売り払って貧しい人々に施しなさいという律法を新しく加えたわけでもありません。イエス様はこの人に、良き業によって永遠の命を受け継ぐことは出来ない、そのことを教えたかったのです。自分の良き業によってではなく、自らの信仰の不徹底を知り、悔い改めてイエス様に従う、この新しい生き方へと招かれたのです。残念ながらこの人は、この時、イエス様の招きに応えることは出来ませんでした。キリスト教信仰というものは、このイエス様の招きに応える、これがすべてなのです。イエス様が私を招いてくださった。私に代わって、私のために、十字架にお架かりになって、「あなたの罪は赦された。神様はあなたを愛し、我が子として受け入れてくださる。だから、すべてを神様に委ねて、安心してわたしに従いなさい。」そう招いてくださった。この招きに応える歩み、それが私共の信仰の歩みであり、そこに備えられているのが、新しい命、永遠の命なのです。

2.自分の持っている物によっては、神の国に入ることは出来ない
 今朝与えられております御言葉は、この出来事を受けて、イエス様が弟子たちとお語りになった所です。
 まずイエス様は、弟子たちにこう告げられました。23節「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」この言葉は、24~25節でもう一度繰り返されます。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」このイエス様の言葉は、財産のある金持ちが神の国に入るのは難しい。しかし、貧しい者が神の国に入るのは難しくない。何故なら、持っている物を売り払うといっても、貧しい者は売り払うような物は何も持っていないので、すぐにイエス様に従うことが出来るからだ。ああ、よかった。自分は金持ちではなくて。そういうことではないのです。イエス様はここで、人は自分の力、自分の努力、自分の良き業、自分の富、自分の持っている一切の物によっても、神の国に入ることは出来ない、と言われたのです。人間は、自分の力で神の国に入ることは出来ないのです。私共が神の国に入ることが出来るのは、ただ、神様の憐れみによってなのです。だから、27節「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と続くのです。神様が神の国に入れてくださるのです。
 当時ユダヤの人々は、富というものは神様の祝福であると考えておりました。ですから、金持ちは神様に祝福された人と受け止めていたのです。もちろん、ザアカイのように、徴税人のようなあり方で富を得た人は別です。しかし、真面目に働いて得た富というものは、神様の祝福であると考えたのです。それは、私は今でも正しいと思います。しかし、だから金持ちは神様に祝福された人だ、貧しい人は神様の祝福から漏れている。そうなると、「それは違うだろう。」と思います。けれど、当時のユダヤにおいては、ほとんど常識のように、金持ちは神様に祝福された人なのだと考えられていました。だから、その神様に祝福された人が神の国に入れないのならば、誰が神の国に入れるのか、誰が救われるのか、という弟子たちの問いとなったのですし、弟子たちはイエス様の言葉を聞いて驚いたのです。そんな話は聞いたことが無かったのです。ここでイエス様が言われた「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」という言葉は、それは不可能だということなのです。イエス様はここで、「あなたがたが、この人は神様の救いに与るにふさわしい、本当に神様に祝福を受けている人だ、そのように考えるような人であっても、その人が神の国に入ることは不可能だ。」と言われたのです。あの人は本当に良い人だ。素直で明るくて、人の面倒もよく見て、公平で、正義感もあって。そういう諸々の良きもの全てをもってしても、神の国に入ることは私共には出来ないのだ。それは不可能なのだ。そう告げられたのです。
 ここでイエス様は、良き業のすべてをもってしても神の国に入ることは出来ないと言われたのです。何故か。それは、私共人間は例外なく罪人だからです。自分のことしか考えられない罪人としての限界があるからです。だから、この金持ちは「持っている物をすべて売り払え。」と言われると、悲しみながら立ち去るしかなかったのです。彼は真面目で、宗教心もあり、良い人でありました。でも、無理なのです。私共は例外なく、皆罪人だからです。
 では、私共が神の国に入る、永遠の命を受けるにはどうしたらよいのでしょうか。神様の赦しに与るしかありません。自らの罪を悔い改め、ただ神様を信頼し、赦しを求め、イエス様に従う。それしかないのです。神様が赦してくださらなければ、罪人である私共は決して神の国に入ることは出来ないのです。しかし、神様は赦してくださいます。私共を神の国へと招いてくださいます。この神様の愛、神様の憐れみ、神様の赦しによってのみ、私共は神の国に入ることが出来るのです。それが、「人間にできることではないが、神にはできる。」とイエス様が言われた意味なのです。

3.富について
 ここでイエス様が、金持ち、財産のある者が神の国に入るのは何と難しいことかと、金持ち、財産のある者とあえて言われた、そのことについても少し考えておく必要があるでしょう。
 私はこう思います。金、財産、富というものの持っている力を、イエス様はちゃんと見抜いておられたということなのだと思います。私共の中には、自分が金持ちだと思っている人はあまりいないでしょう。それどころか、将来のこと、老後のこと、病気にかかることなどを考えると、お金が足りないと心配している人の方が多いかもしれません。しかしそれは、私共がお金、富というものと無縁だということではありません。私共の多くは自分の家を持っていますし、一定の収入もあります。そもそも、金持ちであるかどうかというのは、全く相対的なものです。年収がいくらあれば金持ちと言えるか、その基準は人によって全く違うでしょう。ここで皆さんにアンケートをとれば、どんな結果になるでしょうか。年収が五百万円以上の人が金持ち。いや八百万円以上、いやいや一千万円以上等々、ばらばらの回答が出るでしょう。そして、多くの人は、自分より収入の多い人、自分の倍以上収入のある人を、お金のある人と言うのではないでしょうか。しかし問題は、自分が金持ちであるかどうかということではなくて、このお金、富というものとどういう関係にあるかということなのです。
 私共は、お金や富が一番だとは思っていないでしょう。神様が一番。当たり前です。しかし、無ければ生活出来ないので、お金は大切なものだと思っているでしょう。私もそう思います。お金なんてどうでも良いとは思いません。しかし、そうであるが故に、お金との関わりをしっかりしておかないと、キリスト者としての足をすくわれると言いますか、御国に向かっての私共の歩みが妨げられることになりかねないということなのです。お金や富というものは不思議なもので、自分がそれを所有しているはずなのに、いつの間にか、それによって自分の自由が奪われ、まるでそれに仕えているかのようになってしまう。そういうことが起きるのです。私共にとって、富や財産といったものは、御国に向かって歩んでいくために用いられるべきであるのに、それらを失わないようにすることが目的であるかのように振る舞い始める。そういうことが起きるのです。お金や富そのものは、善でもなければ悪でもありません。それを持ち、それを使う人によって変わるのです。ところが、神様が一番である、神様を依り頼むという信仰の有り様に敵対する人間の罪が、このお金や富と大変結び付きやすいのです。お金にはそういう性質があるのです。そして、私共の信仰の歩みを妨げる。神様を第一とすることを妨げる。そういうことになりやすいのです。つまり、お金や富というものは、私共を神様から引き離す、御国への歩みを止めさせる、そのような私共の心に湧いてくる誘惑と結びついて、私共の歩みを大きく妨げる。そのような働きをしやすいのです。つまり、お金や富というものは、私共の罪が大きく働くようにさせる触媒の働きをするのです。このことはよくよく弁えておかなければならないでしょう。富から自由である。このことが、私共の信仰の歩みにおいて、とても大切なことなのです。

4.ペトロの誤解
 さて、イエス様に「神にはできる。神は何でもできるからだ。」と告げられた弟子たちでありましたが、ペトロが、何とも間の抜けた、イエス様の言葉を少しも理解していない発言をいたします。28節「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」ここでペトロは、「あの金持ちは持っている物を捨てられずに去っていきましたが、わたしたちは何もかも捨てて、イエス様、あなたに従ってきました。わたしたちは神の国に入れますね。」と言いたかったのでしょう。イエス様は、「これこれをしたから神の国に入れるというものではない。自分の力ではなく、ただ神様の憐れみによって神の国に入れていただくのだ。」そう言われたのですけれど、この時ペトロはまだ、「何かをすれば神の国に入れる」、そういう所に立っているわけです。イエス様はこの時、「お前は間違っている。」とは言われませんでした。どうしてでしょう。それは、ペトロたちもやがて分かることになるからではないかと思います。この時、弟子たちはイエス様に従っています。そして、イエス様はこの時既に、エルサレムで十字架にお架かりになる旅に出ようとしておられるのです。イエス様の眼差しは、既にエルサレムでの十字架に向けられています。イエス様はもう少しすれば十字架にお架かりになる。そして三日目に復活されるのです。そして、その時になれば弟子たちは皆分かるのです。イエス様に最後まで付いていこうと思っていた、付いていけると思っていたペトロ。彼はイエス様を三度知らないと言って裏切ることになるのです。自分の力ではイエス様に最後まで付いていくことが出来ない、自分の力では神の国に入ることは出来ない。そのことが明らかにされるのです。だから、この時イエス様は、ペトロの間違いをあえて指摘されなかったのだと思います。そして、その代わりに、とても印象に残る言葉を与えられたのです。

5.先の者が後に、後の者が先に
 31節です。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」イエス様はここで順番を語っておられます。先の者が後に、後の者が先になる。これは、私共の人生の現実を言っているわけではありません。ここでのテーマはずっと、永遠の命に与ること、神の国に入ることなのです。ですから、このイエス様の言葉は、「神の国に入る順番が、自分たちの思ったようにはならない。」そういう意味です。何故なら、神の国に入る、神様の救いに与る、永遠の命に与るということは、神様の憐れみによるものだからです。私共の努力の結果として手に入れるものであるならば、先の者は先に、後の者は後に、そうなるはずなのです。しかし、そうはならない。何故なら、それは神様の御心の中で決められることだからです。
 私は、この御言葉には忘れられない思い出があります。私が洗礼を受けた時のことです。洗礼を受けるには牧師に申し出なければならないわけですが、私は何となく気恥ずかしくて、それが出来ないでおりました。すると、同じアパートにいた私より三つほど年上の青年、彼はその教会の長老の息子でお母さんは伝道師でした、しかしまだ信仰告白をしていなかった。その彼が、一緒に行ってあげるから牧師の所に行こう、そう言って連れて行ってくれたのです。牧師館の呼び鈴を彼が押して、牧師が出てくると、「小堀君が洗礼を受けたいそうです。」そう言ってくれたのです。牧師はその時、「君はどうするの。」と尋ね、彼は「いや、僕はまだ。」と答えました。すると牧師は、「『先の者が後に、後の者が先に』だね。」と言ったのです。私はその時、この言葉が聖書にあるということも知りませんでした。数年後、この青年も信仰告白をし、今はある教会の長老をしています。
 私共は何か、順番というものを大切に思っている所があるかもしれませんが、そんなことは全くないのです。後だろうと先だろうと、救いに与れば良いのです。そして、その救いに与らせてくださるのは、ただ神様の御心だけなのです。自分の力で救いに与ろうとする人は、この順番を気にすることになるのではないでしょうか。しかし、順番に意味は無いのです。

6.迫害を受けても
 最後に、29節、30節のイエス様の御言葉を見て終わります。イエス様はここで、「持っている物を売り払い、貧しい人々に施せ」というよりももっと激しい、もっと厳しい言葉を告げておられます。しかし、これは丁寧に読まなければなりません。29節「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は」とありますけれど、これは自分から進んで喜んで捨てるということではないでしょう。親・子・兄弟といった家族というものは、神様が与えてくださった愛の交わりを形作る大切なものです。イエス様が、それらを捨てることを良いこととして、私共に勧められるはずがないのです。では、どういうことなのか。それらを捨てるのは、「わたしのためまた福音のために」なのです。つまり、信仰を守るために捨てざるを得ない、そのように迫られることがあるということです。ここではイエス様は、具体的には、迫害を考えておられるのです。それは、次の30節で「今この世で、迫害も受けるが」と言われていることからも分かります。
 日本におりますと、信仰の迫害というものがピンとこないかもしれません。しかし、今年は戦後70年ですが、あの70年前に終わった戦争の時、キリスト者はこの日本で迫害に遭ったのです。日本中の教会から人々が消えたのです。ホーリネスというグループの教会の牧師の何人もが実際に投獄され、獄死したのです。彼らは、このイエス様の言葉を信じ、信仰を捨てなかった。それらの教会では今も、毎年6月26日が弾圧記念日として守られています。
 ここでイエス様は、「今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け」と言われます。これは、この世での約束です。迫害を受けてすべてを失ったように見えても、それに百倍するものを神様は与えてくださるという約束なのです。私共はこのことを信じて良いのです。迫害を受けたホーリネスの教会の牧師は、この御言葉を本気で信じたのです。100倍にもなる兄弟・姉妹・母・子供とは何か。彼らは、それは教会の愛する兄弟姉妹だと受けとったのです。迫害を受け、牧師は投獄され、信徒は散り散りとなっても、やがて100倍の教会となる。伝道の驚くべき進展を神様は与えてくださると信じたのです。そして戦争の後、この約束は果たされました。日本中の教会に人が溢れたのです。そして、「後の世では永遠の命を受ける。」とイエス様は言われます。これは終末において与えられる救いの完成に与る約束です。この世においても、後の世においても、神様の確かな祝福があるのだから、迫害や弾圧に負けてはいけない。そうイエス様は言われたのです。
 私共の信仰は、御国に向かって歩み続けるものです。この世においては様々な困難、迫害、更には富の誘惑と、課題は次から次へとやって来ます。 しかし、全能の父なる神様が、愛する独り子イエス様を与えてくださり、その尊い血潮によって罪を赦し、御国への道を拓いてくださったのですから。そして、主の日の度毎に御言葉を与え、私共を養い、導き、招いてくださっているのですから。この招きに応えて、この一週も御国への歩みを主の御前にしっかり為していきたいと思うのです。
 只今より聖餐に与ります。この聖餐によって、イエス様が為してくださった御業、今共にいてくださること、やがて御国において共に与る食卓を思い起こし、信仰をいよいよ確かにさせていただきましょう。

[2015年2月1日]

メッセージ へもどる。