富山鹿島町教会

礼拝説教

「富は天に積む」
出エジプト記 20章1~17節
マルコによる福音書 10章17~23節

小堀 康彦牧師

1.私にとって
 今朝与えられております御言葉は、長い間、私にとりまして素直に飲み込むことが出来ないものでした。飲み込もうとすると、喉の奥に魚の骨が刺さったようにちくちくと痛む、そのような御言葉でした。理由ははっきりしています。イエス様が、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」そう言われたからです。私が洗礼を受けたのは20歳の時でしたが、その頃私の中には、この世の富、この世の地位、そういうものを手に入れるということに対しての漠然とした、それでいて強い欲求がありました。それを捨てるということが出来なかったのです。その頃の私は、金も富もありませんでした。学生でしたから当たり前です。しかし、それを手に入れたいとは思っていました。ですから、そのような思いを捨てることが出来ない自分は、イエス様が「あなたに欠けているものが一つある。」と言われたように、決定的な所で欠けているのではないか、キリスト者として信仰者として欠けているのではないか、そう思っていたのです。イエス様に真実に従っていると言えないのではないか、そう思っていたのです。他の人が自分をどう見ているかというようなことではなくて、自分としてはそう思っていたということなのです。
 それは、もっと具体的に申しますと、私は洗礼を受けてすぐに牧師への召命を受けたのですが、この御言葉が引っかかって、ずっと一歩を踏み出すことが出来なかったのです。大学を卒業し、会社を辞めて神学校に入ることになったのは27歳の時でしたが、それまでの7年間、ずっとこの御言葉が引っかかったままでした。もちろん、ここでイエス様が「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」という新しい律法を与えたということではありません。これが出来なければ永遠の命を受け継ぐことは出来ない、神の国に入ることは出来ない、そう言われているわけではない。それは分かっていました。しかし、若かった私は、この御言葉の持っている激しさ、厳しさというものは、決して割引いてはならないものとして聞いておりました。そして、それは間違っていなかった。それはこの御言葉に対しての正しい受け取り方だったと思います。何故なら、私はこのイエス様の言葉を、自分に語られた言葉として受け取っていたのです。聖書の言葉、イエス様の言葉というものは、本当に自分に向けて語られた言葉として受け取る時に、初めてその本当の意味が分かるのですし、その言葉によって自分の人生が変わるということが起きる、そういうものなのです。だから、神の言葉なのです。その言葉をもって神様御自身が私共一人一人に語りかけ、その言葉によって私共が神様と出会うということが起きるからです。
 さて、順に見て参りましょう。

2.エルサレムに向けて
 17節「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』」とあります。「イエスが旅に出ようとされると」という書き出しは、何かのんびりした旅行を連想しかねないのですが、もちろんそんなことではありません。これは次の32節からの段落の冒頭に「一行がエルサレムへ上って行く途中」とあることから分かりますように、エルサレムへの旅に出ようとした時ということです。イエス様はエルサレムに何をしに行くのか。それは言うまでもなく、十字架にお架かりになるためです。イエス様はこれから自分が何をするのか、エルサレムで何が起きるのか、はっきり御存知でした。イエス様のまなざしは、この時既にエルサレムの十字架に向けられていたのです。

3.善い先生?
 そのようなイエス様に、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねたのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」このある人というのは、22節を見ますと、「たくさんの財産を持っていた」人であることが分かります。また、同じ記事を記しているマタイによる福音書とルカによる福音書を見ますと、マタイによる福音書では「金持ちの青年」とあり、ルカによる福音書では「金持ちの議員」となっています。ですから、この三つの福音書の言っていることを合わせると、この人は金持ちで若くて議員だったということになります。しかも、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」とイエス様に尋ねるほど、真面目な人です。人が羨む全てを持っているような人であったのかもしれません。若くて真面目で金持ちで社会的地位もある、いわゆる良い家の出の人だったのでしょう。この時の彼のイエス様への問いは、真面目で真剣なものだったと思います。彼はイエス様を試したり、茶化したりしに来たのではありませんでした。それは、彼の「走り寄って、ひざまずいて」という姿勢からも分かります。
 これに対してのイエス様の答えは、この人から見れば拍子抜けというか、全く期待外れなものでした。イエス様はこう答えられました。18節「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」このイエス様の答えには、少し説明が必要だと思います。ここでイエス様は「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。」と言われますが、それはこの人が用いた「善い先生」という言い方の「善い」という言葉は、神様にしか用いない言葉だったからです。それほどまでに、この人は、イエス様を高く評価していたということでしょう。しかし、イエス様はこの呼びかけの中に、そしてこの問いそのものの中に、この人の問題性、はっきり言えば間違い、方向違いを見ておられたのです。どうして、この人はこのような言い方でイエス様を呼び、またこのような問いをしたのでしょうか。それは、イエス様を「神様から遣わされた偉い預言者」、或いは「律法を正しく、新しく教えてくれる教師」だと思ったからでしょう。しかし、そのようなあり方では決して永遠の命を受けることは出来ないことを、イエス様はここで教えておられるのです。イエス様はここで、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と言われますが、これは、「自分は神ではないのに、どうしてわたしを善いと言うのか。」と言われているのではないのです。イエス様は神なのです。ですから、「善い」は「先生」としてイエス様に用いるのではなくて、神様としてのイエス様に向かって用いなければならない。わたしは、律法を正しく、新しく教える先生などではない、神なのだということなのです。だったら、イエス様に対しての正しい呼び方はどうなるのでしょうか。私は、ヨハネによる福音書20章28節にあります、復活の主イエスに出会った時に弟子のトマスが発した言葉、「わたしの主、わたしの神よ。」だと思います。もし、イエス様に対してそのように呼びかけるとするならば、この人は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」とは尋ねなかったでしょう。「わが主よ、わが神よ。」と呼ぶのならば、「主よ、憐れんでください。」と続けたはずです。そうであるならば、イエス様の答えは、全く違ったものになっていたでしょう。
 しかし、この人はイエス様を先生だと思っておりますから、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」とイエス様に尋ねたのです。イエス様が、何か新しい律法を、今までにない斬新な律法解釈を示してくれるのではないかと期待したのでしょう。その新しい何か良いことをすれば、永遠の命を得られる、神の国に入ることが出来る、そう考えているのです。しかし、そうではないのです。先週見ましたように、子どものように神の国を受け入れる。つまり、何も出来ない、ただ与えていただくしかない。自分の中には永遠の命にふさわしい所など少しもない。ただ神様の憐れみを求めるしかない。そのような者として神様の国を、永遠の命を受け取るのでなければ、これを受け継ぐことは出来ないのです。しかし、この人は、自分の中に更に加えて何か良いこと、正しいことをしなければ神の国を受け継ぐことは出来ないと思っていた。それこそが根本的な問題であり、間違いなのです。そのことをイエス様はこの人に教えようとされたのです。

4.十戒の前半は?
 イエス様は更に19節で、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と言われます。これは多少順番が違っていますけれど、十戒の後半の戒めです。そして、それに対してこの人は20節で「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と答えるのです。正しいこと、神様の御心に従って生きることについて、新しいことは何もないのです。既に律法に記されている通りなのです。イエス様は十戒の後半の所を告げられました。そして、この人は、そういうことはみんな幼い時から守ってきたと答えます。これも正直な答えだったと思います。真面目なユダヤ人なら、物心ついた時から十戒に従って生きるのは当然のことだったからです。
 しかし、イエス様はどうして、十戒の後半だけをここでお語りになったのでしょうか。前半はどうしたのでしょう。前半は、永遠の命を受け継ぐことと関係ないということではないでしょう。そんなことはあり得ません。私は、この前半が語られなかったということが、とても重要だと思っています。十戒の前半、それは「あなたはわたしのほか、なにものをも神としてはならない。」という第一の戒から「安息日を覚えてこれを聖とせよ。」の第四の戒までの所ですが、これは私共と神様との関係を示した所です。後半が、人間同士のあり方を示しているのに対して、前半は、私共が神様とどのように関わるのかが示されているわけです。もっと言えば、前半は後半の前提です。私共が、人との関わり方を全うするための信仰の有り様、神様との関わり方を示しているのです。ところが、その所が抜けている。つまり、神様を神様とする、神様を愛し、神様に仕え、神様に従う、そのような者は人と人との関わりにおいて、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」ということを為すことになる。そういうことだと思うのです。
 イエス様は、十戒の後半をこの人に告げれば、そういうことはみなやっています、と答えることを分かっていたと思います。そして、この人の根本問題、神様との関係がどうなっているのか、そのことを「あなたに欠けているものが一つある。」と言ってお告げになったということなのではないかと思うのです。
 この人は、自分は十戒の後半をすべて守ってきたと答えているわけですが、そのあり方が、マタイによる福音書5章においてイエス様がお語りになったような徹底性、「ばか」と言う者は既に殺すなとの律法を破っている、みだらな思いで他人の妻を見る者は既に姦淫の罪を犯している、というような徹底性を持っていなかった。だから、その不徹底をここでイエス様は示されたのだと読む人もいるでしょうが、私はそうではないと思います。
 イエス様がここで本当に問題にしているのは、十戒の第一の戒、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」ということなのです。神様だけを神とする。神様だけを頼る。それが神様とのあり方ではないか。しかし、あなたは神様だけを頼りとしていない。自分の良き行いを頼りとし、自分の富を頼りとしているではないか。それが問題なのだ。それでは、神の国に入ることは出来ない。永遠の命を受け継ぐことは出来ないのだ。思い違いをしてはいけない。永遠の命という天の富は、手に入れるのではなくて、神様の憐れみの中で与えられるのだ。そのことを信じ、その神様の御手の中にすべてを委ね、神様の憐れみを求めて生きよ。そう言われたのだと思うのです。

5.イエス様の招き
 イエス様はこの時、この人に欠けている信仰の根本的有り様を示し、お前はダメだと思い知らせようとしたのではないのです。イエス様は招いておられたのです。21節「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」とありますが、イエス様はこの人を愛のまなざしで見つめておられたのです。そして、21節の最後、「それから、わたしに従いなさい。」と言われた。明らかにイエス様はこの人を招いているのです。イエス様はこの時、この人に無理難題を押しつけて追い払ったというようなことではないのです。イエス様は招いたのです。自分の弟子にして良いと思ったのです。しかし、この人は悲しみながら、イエス様のもとを去ったのです。財産を売り払って貧しい人に施せというイエス様の言葉に、従うことが出来なかったからです。神様を神として、すべてを委ねて信頼する。それが律法の示している信仰の有り様です。そのことを分からせるために、神様は出エジプトの40年の荒野の旅の中、天からのマナをもってイスラエルの民を養い続けられたのです。そして、その神様を信頼するという信仰は、更に具体的に言えば、イエス様に従うということなのです。
 イエス様に従う。それはペトロたちが召された時もそうでしたが、網を捨てて従うのです。ペトロにとってそれは仕事を捨てることになるわけですが、少しも辛いこと、悲しいことではなかった。イエス様といつも一緒にいることだったからです。
 では、この人はその後どうなったのか。聖書は語りません。ですから、詮索しても仕方がないとも言えますが、私は気になります。そんな私が思いを巡らしますと、ヨハネによる福音書に出てくるニコデモが、この人とイメージが重なってくるのです。ヨハネによる福音書には、この金持ちの青年議員の話は出てきません。しかし、やはり議員であったニコデモという人がイエス様の所に来て、永遠の命についてイエス様と話すという場面が3章に記されています。この時ニコデモはイエス様に従う人になったわけではありません。しかし、ニコデモは、アリマタヤのヨセフと共に、十字架にお架かりになったイエス様の遺体を引き取り埋葬したことがヨハネによる福音書19章39節に記されています。私は、イエス様に永遠の命を受け継ぐためは何をしたら良いのですかとの問いを発したこの人も、この時はイエス様のもとを去ったけれども、後にイエス様の弟子に加わったのではないか、そう思うのです。そのように想像することが許されるのではないかと思うのです。それは、私自身が若い頃、このイエス様の言葉に引っかかって献身出来なかったのですが、7年の後に献身しました。そして、献身してイエス様に従うということを心に定めた時には、会社を辞めた後の将来への不安も、生活への不安も全くありませんでした。偉くなりたい、金持ちになりたいとの思いも全くなくなりました。そんなものが、全く心を引かなくなったのです。どうでも良くなったのです。ですから、この時この人はイエス様の元から悲しみながら去ったのですけれど、後にはきっとイエス様に従う者とされた。そしてその時には、自分の財産を献げることに少しも悔いも不安もためらいもなくなった。そう思うのです。人は変わるのです。信仰の歩みも変えられていくのです。何か抵抗があって飲み込めなかった御言葉が、当然のこととして了解する時が来るのです。イエス様が、私共一人一人に愛のまなざしを注ぎ、語りかけ続けてくださるからです。
 永遠の命はどこにあるのか。イエス様と共にあります。このイエス様を愛し、全幅の信頼をもって従い、この方にすべてを委ねて歩む時、私共は永遠の命を受け継ぐ者とされ、天に富を積むことになるのです。貧しい人に施すことによって、天に富を積むのではありません。そうではなくて、ただイエス様を愛し、この方に仕え、この方に従っていく中で、私共はいよいよイエス様との深い交わりに生きるようになります。そこにこそ天の富があるのです。そのイエス様との交わりの中で、天に富が積まれていくのです。
 私共は皆、招かれています。神の国、永遠の命に与るようにと招かれています。イエス様に従うようにと招かれています。私共が受け継ぐ絶大な天の富に目が開かれるなら、私共が持っているものなど何と小さなものであるか、はっきり知ることになるでしょう。それは、今すぐに分かるということではないかもしれません。しかし、イエス様は招き続けてくださいます。それが分かるまで招き続けてくださり、語りかけ続けてくださるのです。何故ならイエス様は、この時イエス様のもとを悲しく去って行ったこの人のためにも、そして私共のためにも、十字架にお架かりになってくださったからです。その十字架の愛をもって、私共を招いてくださっているのです。ありがたいことです。まことに不信仰な私共に、今朝も御言葉を与え、「わたしに従いなさい。」と招いてくださっているのです。この招きに応える者として、ここから新しい一週へと歩み出して参りたい。そう心から願うのであります。

[2015年1月18日]

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