富山鹿島町教会

礼拝説教

「子どもの祝福」
サムエル記 上 2章1~10節
マルコによる福音書 10章13~16節

小堀 康彦牧師

1.ハンナの祈り
 今、旧約のサムエル記上2章にありますハンナの祈りをお読みいたしました。ハンナはには長く子どもが与えられませんでした。彼女は子が与えられるようにと祈りました。子が与えられたなら、その子は神様におささげいたしますとまで祈りました。神様はそのハンナの祈りを聞き、男の子を授けました。それがサムエルです。そしてハンナは、祈った通り、生まれた子を神様にささげ、神様に仕える者とするために、祭司エリのもとに連れて来ました。その時に祈った祈りが、今お読みした、ハンナの祈りと呼ばれる祈りです。 このハンナの祈りには、神様の全能の力をほめたたえると共に、この世の力ある者が神様によって小さくされ、小さな者が神様によって大きくされるということが歌われております。子がいないということで辛い、肩身の狭い思いをしていたハンナが、神様によって子が与えられ、大いに喜び、面目を保った思いが歌われています。しかしそれだけではなく、自分に子が与えられることによって目が開かれた神様の御心、神様の御業を歌っているのです。その御心、御業とは、4~8節「勇士の弓は折られるが、よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ、飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み、多くの子をもつ女は衰える。主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる。」とありますように、強い者・豊かな者が弱く貧しくされ、弱い者・貧しい者を高く上げてくださるということです。何もない、取るに足りない自分が、神様の憐れみを受け、子を与えられたのです。神様の憐れみ、神様の御力が、確かに私の上に注がれたのです。何という喜び、何という力。その御業は全地に満ちている。そう歌わないではいられなかったのでしょう。
 このハンナの祈り、ハンナの歌は、新約において、イエス様の母であるマリアがイエス様を与えられることになった時に歌った歌、ルカによる福音書1章46節以下に記されている「マリアの賛歌」に引き継がれております。どちらも、神様の御業によって子を与えられることになった母の歌です。子が与えられるということは、私共の力ではどうにもならない、圧倒的な神様の力に触れる、神様の御業というものを体で受け止める、そういうことなのでしょう。子が与えられる、新しい命の誕生ということにおいては、富も権力もこの世の力というものは一切何の役にも立ちません。ただ神様の御心、御業だけが意味を持ちます。この命というものに目が開かれます時、神様というお方に対してもまた目が開かれる。神様という、日々の生活の中で忘れがちになってしまうお方に対して目が開かれる。このお方に対して思いを至らせないわけにはいかない。それが新しい命の誕生ということにはあるということなのでしょう。
 私共は日々の生活の中で、神様を括弧に入れて、神様を特に意識することなく生きていることが多いでしょう。生活のこと、病気のこと、しなければならないことは山のようにあるわけです。しかし、そのような中で私共は今朝、こうしてここに集い、礼拝をささげています。そして、この礼拝の時、私共のまなざしは天に向けられています。天におられる父なる神様と、その右におられる主イエス・キリストに向けられています。この礼拝において、私共はハンナやマリアが心を神様に向けたように、心を神様に向けています。この時私共はハンナやマリアと同じように、神様の御前に何も誇るべきものは持っていない、ただ神様の憐れみを受けるしかない者として立っています。この世における地位も富も名誉も、ここでは何の意味もありません。ただ罪人としての私がいるだけです。神様の憐れみを求める私がいるだけです。そして、そのような私共に、今朝も神様は御言葉を与え、語りかけてくださいます。順に見て参りましょう。

2.子どもたちを祝福した主イエス
 13節「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」とあります。イエス様はいつものように人々を教えておられたのでしょう。そこに、子供たちが連れて来られました。多分、イエス様に祝福してもらおうと思ったのでしょう。これは当時の人々の習慣からすれば、当たり前のことだったのだと思います。神様の教えを告げる偉い人が来た。ぜひ我が子を祝福してもらおう。我が子が健康で賢くて立派な大人に成長するように祝福してもらおう。そんな思いでイエス様のところに子供を連れて来たのでしょう。ところが、イエス様の弟子たちがこの人々を叱ったというのです。これも良く分かります。イエス様は人々を教えている最中ではないか。せっかく大切な教えを語っているのに、子供など連れて来てどうする。邪魔するな。場をわきまえろ。今は大人の時間だ。そういうことだったのではないかと思います。あるいは、イエス様は病人たちの癒やしをなさっていたのかもしれません。イエス様が大変な問題を抱えた大人を相手にしている時に、自分の子供を祝福してもらおうなんて、何を考えているのか。そういうことだったのかもしれません。  弟子たちにしてみれば、イエス様を守るために行ったことでした。ところが、イエス様の反応は弟子たちの思いもよらないことでした。14節「しかし、イエスはこれを見て憤り、」とあります。「憤る」というこの言葉は、聖書の中でここにしか用いられていない、大変激しい言葉です。「怒りに怒った」と言えば近いでしょうか。イエス様はこの時、烈火の如く怒り、弟子たちを叱りつけたのです。そして、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」と告げられたのです。そして、イエス様は16節にありますように、その「子供たちを抱き上げて、手を置いて祝福された。」のです。

3.教会は子どもを祝福し、育む
 弟子たちはイエス様に叱られたことは何度もありますけれど、憤られた、怒りに怒られた、烈火のごとく怒られたというのはこの時だけでしたから、とても印象深かったと思います。イエス様は子供たちを祝福されました。ですから、この時以来、キリストの教会は子供を大切にするということをイエス様の教えとしてきたのです。この箇所は、キリスト教教育の場、特に幼児教育の現場にあっては、何故自分たちは幼児教育をするのか、その根拠とされてきた所です。少しでもキリスト教保育に携わったことのある人ならば、この箇所を何度も聞かされたと思います。私共の教会も、6月の第二の主の日には「花の日礼拝」として幼子と共に礼拝を守っていますし、11月の第二の主の日には「子どもの祝福」を行っています。それは、このイエス様の言葉と業が根拠になっているのです。イエス様が子供を祝福された。イエス様が子供を御自身の所に来させなさい、来るのを妨げてはならないと言われた。だから、教会もまた、子供を祝福するのですし、子供たちをイエス様の所に連れて行くという信仰教育をするのです。
 ここで確認しておかなければならないことは、私共が幼子を祝福し、信仰教育を行うのは、将来の教会の担い手を育てるためではないということです。もちろん、結果としてはそういうことになるでしょう。しかし、教会において子供を祝福し、教育し、子供を大切にするのは、将来への投資が目的ではないのです。最近、少子化ということで、子育て支援ということがよく議論されますけれど、その基調にあるのは将来への投資という考え方です。私は、子育て支援は大変良いと思いますけれど、いつもその議論には違和感があるのです。日本において幼児教育を長く中心的に担ってきたのはキリスト教会でした。幼児教育の担い手を中心になって育ててきたのも、明治以来キリスト教の学校でした。お寺が幼稚園や保育園をやり出したのは戦後でしょう。その町で一番古くからある幼稚園は大抵、キリスト教会の幼稚園です。多くは女性の教育宣教師たちが開いたのです。富山市ではアームストロング宣教師、呉西ではトィディー宣教師です。彼女たちは、イエス様の愛を具体的に現すために、イエス様の愛の業に仕えるために、幼児教育を為してきたのです。イエス様が子供を祝福されたから、そしてその御心はどの国でもどの時代でも変わることがないから、彼女たちは幼児教育に自分の生涯を捧げたのです。幼児教育などということが存在しない、この日本で始められたのです。教会が教会学校を行っているのも同じことです。イエス様の愛が幼子たちに注がれているから、私共はその愛を具体的に現す道具とされて、私共は幼子たちを愛し、祝福し、大切にするのです。
 子供を大切にするというのは、少しも当たり前のことではないのです。人類の歴史の中で、子供が大切にされる社会が生まれたのは最近のことです。それまで、子供というものは、将来の労働力としか見られていなかったのです。極端に言えば、子供は何も出来ない、手がかかる、邪魔な存在だったのです。しかし、育てなければ将来の労働力を得られないので育てる。生産性とか労働力とかで人を評価すれば、そういうことになってしまうでしょう。イエス様の時代もそうでした。しかし、イエス様は、そうではないと言われたのです。確かに、子供は何も出来ない、役に立たない、手がかかるだけ。しかし、その子供には神様の愛が注がれている。神様が、大切なものとして重んじておられる。そこに目を留めなければならない。イエス様は自ら子供を祝福することによって、そう私共に教えてくださったのです。
 私共は、その人の能力や地位や富といったもので人を測ります。しかし神様は、そのようなもので人を見たりはされないのです。その象徴として、イエス様はここで子供を祝福されたのです。これは象徴ですから、子供だけが神様から愛され、大切にされるということではありません。障害を持った者も、高齢になって生産活動が出来なくなった者も、同じです。弱く小さく貧しい者にも、神様は命を与え、愛を注ぎ、慈しんでくださっているのです。ハンナもマリアもその御心を歌ったのです。何もない、取るに足りない私を、神様は憐れんでくださった。何とありがたいことか、何と神様の愛はすばらしいことかと歌ったのです。

4.子どものように
 さて、イエス様は自分のところに子供を連れて来るのを妨げた弟子たちに憤ったのですが、その時に言われたのが、「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」という言葉でした。大変有名な言葉です。ここで注目しなければならないのは、「神の国はこのような者たちのものである。」と言われた「このような者たち」とは、どのような者のことなのかということです。それは「子供のような者」ということでしょうが、それは、次の「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われた「子供のように」というのが、実際にはどのように神の国を受け入れることなのかということでもあります。
 すぐに思いつくのは、子供のように「素直に」「純真に」ということでしょう。しかし、子供はそんなに素直でも純真でもないのではないでしょうか。子供だって嘘はつきますし、わがままですし、我慢することもありません。私は前任地の教会で幼稚園と関わってきましたけれど、2、3歳のやっと言葉を話すことが出来るようになった子供が、自分を守るために嘘をつくことを知っています。ただ子供の嘘は、大人がすぐに嘘だと分かるので可愛いなどと言っていますけれど、嘘をつくのです。聖書は、子供は素直で純真で罪がないとは考えていません。私共は、詩編51編を悔い改めの詩として交読しておりますけれど、そこには「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときもわたしは罪のうちにあったのです。」と告白されています。これは、私共はこの世に生を受けた時から、母に産み落とされた時から、更には母が私共を身ごもった時から、罪人であったということを告白しているのです。ですから、子供の時は素直で純真で罪はなかったけれども、大人になるに従って罪を犯し、罪人になったということではないのです。ですから、ここでイエス様が「子供のように」と言われた場合、それは子供のように素直に純真にということではないということが分かると思います。そうではなくて、この「子供のように」というのは、子供のように何も出来ない者、ただ受けるしかない者、そういう者を意味しているのです。神の国には、自分はこれこれが出来る、こんなに頑張った、努力した、そういうあり方で入るのではないのです。何もない者として、ただただ神様の憐れみを受ける者として、その恵みに与る。そのようにしてしか、入ることは出来ないということなのです。
 弟子たちは、子供たちがイエス様のところに来るのを妨げました。それは、子供たちはイエス様のところに来るのにふさわしくないと思ったからでしょう。子供たちは、イエス様が語ることを理解することも出来ないし、騒いでイエス様の話の邪魔をするかもしれない。そんな子供がイエス様のところに来るのは意味がないと思ったからでしょう。確かに、当時の子供に対する考えに従えば、そういうことになるでしょう。そして、イエス様の弟子たちは、自分たちはイエス様の弟子であり、イエス様にすべてを捨てて従っており、自分たちほど神の国に入るのにふさわしい者はいない、そう思っていたことでしょう。しかし、この福音理解、神の国理解こそ、イエス様を憤らせたものだったのです。このような理解は、本質的にはファリサイ派の人々と何も違いがありません。一所懸命に努力して、頑張って、良い人、義しい人になって、神の国に入るのにふさわしい人になって、神の国に入る。これは大変わかりやすい、救いについての考え方です。しかし、これは福音ではありません。イエス様がお語りになったこと、イエス様が命を捨てて私共のために開いてくださった救いの道では全くないのです。良い人になって、義しいひとになって神の国に入る、救いに与るということで良いのであるならば、イエス様は人として来られる必要もなければ、十字架にお架かりになる必要もなかったのです。弟子たちの、子供たちがイエス様のところに来るのを妨げるあり方は、イエス様の存在そのものを根本から否定するものでしかなかったのです。ですから、イエス様は憤ったのです。怒りに怒ったのです。イエス様は憤ることによって、あなたがたは何も分かっていない、わたしが何のために来たのか、わたしを遣わされた神様の御心が何なのか、何も分かっていない、わたしがこの世に来たのはこの子供たちのように何も出来ない、何も誇るものがない、そういう者を救うためなのだ、そのような者にこそ神の国の門は開かれているのだ、そうお告げになったのです。
 私共には、何もないのです。ただ神様の憐れみを、感謝をもって受け取るだけです。神の国の門を開いてくださったイエス様について行くだけです。
 神の国に入るのにふさわしくない者。それは、自分は神の国に入るにふさわしいと考え、自分を誇る者です。自分を誇る者は、詰まる所、イエス様を必要としません。自分で救いに至ることが出来ると思うからです。神様の憐れみさえ必要としません。自分は正しい者なのですから、神様が自分を神の国に入れるのは当然であって、神様に憐れんでもらう必要はないからです。神様が「正しい自分」を神の国に入れるのは、神様として当然のことをするだけなのであって、憐れみでも何でもないということです。何という傲慢でしょう。このような者こそ、最も神の国にはふさわしくないのです。
 宗教改革者ルターは、最期に「自分は乞食だ。」と言ったと伝えられています。ただ憐れみを施してもらうしかない乞食。神の乞食。神様の憐れみを受け取るしかない乞食です。神様の憐れみを求め続けるしかない私です。それこそが、子供のように神の国を受け入れる者の姿なのでありましょう。私には何もないのですから、イエス様の言葉に従い、イエス様の御業に倣い、イエス様について行くしかありません。そして、そこにこそ、神様の憐れみが現れていくのです。私共の中に光はありません。ただイエス様こそが光です。このイエス様の光に照らされ、神の国への道を、「主よ、憐れみ給え。」と祈りつつ、歩んで参りましょう。

[2015年1月11日]

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