富山鹿島町教会

クリスマス記念礼拝説教

「その名はインマヌエル」
イザヤ書 7章1~17節
マタイによる福音書 1章18~25節

小堀 康彦牧師

1.クリスマスを迎えて  今朝私共は、御子イエス・キリストの御降誕を喜び祝い、礼拝をささげております。天におられた神様の独り子が、地上に降りて人間として誕生した。天地を造られた神の御子が、人間となられた。神が、天を引き裂いて地上に来られた。まことにあり得ない、驚くべき出来事であります。これは、まさに神様が私共と共にいてくださるということを、何の説明もいらないほどに明確に示してくださった出来事です。私共がどのような状況の中を歩んでいても、不安や恐れ、悲しみや嘆きの中にある時でも、天地を造られた神様が共にいてくださる。その全能の御腕をもって私共を守り、支え、導いてくださっている。一切の罪から救い、永遠の命へと導いてくださっている。クリスマスを迎えるにあたって、私共はそのことを心にしっかり刻み込んで、決して忘れることがないようにしたいと思うのです。

2.インマヌエル
 インマヌエル。神、我らと共にいます。このことを心に刻む。それがクリスマスです。今朝はこの後すぐに、二人の婦人が洗礼に与ります。洗礼を受けるということは、このインマヌエルの恵みの中に生きる者になるということです。洗礼を受けるということは、主イエス・キリストと一つにされるということです。洗礼を受けるということは、客観的な出来事ですから、私共が洗礼を受けたことを否定することは誰にも出来ませんし、悪魔でさえそれは出来ません。洗礼を受けた者は、イエス様と一つにされるのですから、まさにインマヌエルそのものなのです。悪魔は、「本当に神様なんているのか。いるとすれば、どうしてあなたはそんな目に遭うのだ。神様なんかより、毎日の生活の方が大切だろう。信仰なんか捨ててしまえ。」そんな風にささやくことがあるかもしれません。その時あなたはささやく者に向かってはっきりとこう言いなさい。「私は洗礼を受けた者だ。インマヌエルの恵みの中にある者だ。」
 人は生きていく上で様々な状況の中を歩まねばなりません。生きているのが辛いというような時もあるでしょう。しかし、インマヌエルなのです。神様は、そのような時も私と共にいてくださいます。インマヌエルの恵みは、私共が順風満帆の歩みをしている時だけのことではないのです。いつでも、どこでもです。愛する独り子さえも与えてくださった神様が、私共を見捨てるなどということはあり得ないのです。悲しみに心が折れそうになった時、どうかこのことを思い起こしていただきたい。そして、「インマヌエル。インマヌエル。」と、何度も何度も心でささやいたら良い。もちろん、口に出しても良い。インマヌエル、インマヌエル。神は私と共にいてくださる。神様は私を愛しておられる。私は神様に愛されている。このことを決して忘れてはなりません。このことさえ心に刻むことが出来るなら、私共はどのような状況の中でも生きる力と勇気とを失うことはありません。インマヌエル。神、我らと共にいます。このことは、世界中でどんなことが起きても、戦争が起きようと、地震があろうと、飢饉に見舞われようと、決して変わることのない真実です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)と聖書が告げているとおりです。

3.正しい人ヨセフの選択
 今朝与えられております御言葉は、マタイによる福音書が告げるクリスマスです。ルカによる福音書では、主イエスの母マリアが、天使ガブリエルによって「あなたは聖霊によって身ごもって男の子を産む。」と告げられました。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えますが、天使は「神にできないことは何一つない。」と告げ、マリアはこれを受け入れたということが記されています。所謂、受胎告知の場面です。しかし、処女(おとめ)マリアからイエス様が生まれるというのは、マリアだけの問題ではありません。何故なら、マリアはヨセフと婚約していたからです。マリアが身籠もり、イエス様を生むということは、当然、婚約者であるヨセフの問題でもありました。ルカによる福音書は、ヨセフについては何も記しておりません。しかし、このマタイによる福音書には、そのことがきちんと記されています。福音書が四つあるということは、四つの内どれが一番正確に記しているかということではなくて、四つで、私共が知らなくてはならないイエス様のお姿が十全に記されているということなのでしょう。
 18~19節「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」とあります。マリアとヨセフは婚約しておりました。この婚約というのは、少し説明しなければ分かりにくいでしょう。当時ユダヤにおいては、結婚の前に約一年間の婚約期間があったのです。婚約すれば、法的には既に結婚したのと同じです。しかし、まだ一緒に生活していない。そういう状態です。この時期に、マリアは聖霊によって身ごもったのです。ヨセフには身に覚えがありません。マリアは、天使ガブリエルが告げたとおりに、ヨセフにも話したでしょう。しかし、そのような話を信じられるでしょうか。ヨセフは信じなかった。信じられなかった。だから、ヨセフはひそかに縁を切ろうと決心したのです。婚約の解消です。これが、ヨセフが悩み抜いた上での結論でした。
 この時、ヨセフにはいくつかの選択肢がありました。第一に、マリアが身ごもったが自分には身に覚えがない、そのことを公にする。先程、婚約は法的には結婚と同じように扱われたと申しましたが、このことを公にすることは、マリアを姦淫の罪に定めることになります。姦淫に対する刑罰は石打ちの刑です。ヨセフがこれを選択することは、律法に適った正しいことでした。しかし、彼はそうしませんでした。
 第二に、マリアをそのまま妻として迎えるというものです。マリアを罪を犯した者として見ながら、何もなかったように振る舞う。生まれてくる子は自分の子じゃないと分かっていながら、何事もなかったかのように育てる。ヨセフにはそれも出来ませんでした。
 第三に、マリアとの婚約を解消する。たとえ婚約を解消しても、マリアのお腹の子は生まれるわけです。その場合、ヨセフは許婚のマリアに子を妊ませておきながら責任を取らない、とんでもない無責任な男という評判になるでしょう。彼は、この第三の道を選んだのです。
 ヨセフは「正しい人」であったと聖書は告げます。ここで「正しい」というのは、律法を守るという意味と、憐れみ深いという二重の意味があったと思います。律法を守るという意味だけで正しいのならば、ヨセフは迷うことなく第一の、マリアを姦淫の罪を犯した者として公にすれば良かったのです。しかし、彼はそうはしませんでした。しかしまた第二の、そのままマリアを妻に迎えるということも出来ませんでした。正しい人だったからです。そして、ヨセフは第三の道、秘かに婚約を解消して、マリアには無事子供を産んでもらい、自分は無責任なダメな男として世の人々の批判にさらされても良い、という道を選んだのです。婚約中という人生で最も幸せに満ちるはずの時、ヨセフは、マリアに裏切られたという悲しみと怒りで一杯になったことでしょう。しかし彼はこの時、自分の感情のままに、その怒りのままに、マリアを姦淫を犯した罪人にすることはなかったのです。この結論に至るまで、ヨセフは悩み抜いたことでしょう。一日や二日では結論は出なかったと思います。しかし、どうするのか決めなければなりません。彼は第三の道を選んだのです。正しい人であったからです。

4.神様の介入
 ところがです。そのようにヨセフが決心すると、天使がヨセフの夢に現れて、こう言ったのです。20~21節「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」何ということでしょう。天使は、ヨセフがマリアから聞いていたことと同じことを告げたのです。ヨセフはマリアの言うことが信じられなかった。だから悩み、苦渋の決断をしたのです。しかし、その信じられないヨセフに、神様は夢の中で、天使のお告げを与えたのです。そして、ヨセフは天使が夢で告げる神の言葉を受けて、マリアを信じる者に変えられ、マリアを妻として迎えることにしたのです。所詮、夢の中の話ではないか。そう言って、ヨセフはこの天使の告げる神の言葉を無視することも出来たでしょう。しかし、彼はそうはしませんでした。私は、これが聖霊の働きというものではないかと思います。ここでヨセフはマリアを信じたわけですが、それ以上に彼は神様を信じたのです。ヨセフは、あり得ないことを為される神様の御業を信じたのです。信じる者に変えられたのです。それ故、ヨセフはマリアを信じることが出来たのです。マリアの上に為された神様の御業を信じたのです。神様を信じることが、愛する婚約者を信じるということと一つになったのです。彼は、信じない者から信じる者に変えられたのです。ここにインマヌエルの恵みが現れています。ヨセフもまた、”神、我らと共にいます”という恵みの中に生きる者とされたのです。

4.ヨセフの決断
 ヨセフが神様に告げられたことは、まことに重大なことでした。それは、単に婚約者のお腹にいる子が聖霊によって宿ったというだけではなかったのです。天使は夢でヨセフに、その子は「自分の民を罪から救う」方であるということも告げたのです。自分の民を罪から救うというのは神様がなさることですから、この子は神様の子、救い主ということになるのです。ヨセフはダビデの家系の者でありましたから、ダビデの家系から救い主が誕生するという預言があったことは知っていました。しかし、それが、まさか自分の子として生まれるとは。彼は驚き、戸惑ったと思います。
 マリアとの婚約を解消しないで良くなったのは嬉しいことでした。マリアが自分を裏切っていなかったということを知ったのも嬉しいことでした。けれども、ヨセフはただの大工に過ぎません。今まで見てきましたように、人柄としては憐れみに満ちた、律法を守る、正しい人ですが、自分の子が救い主、メシアとして誕生する、自分がその子の父親となる、それはあまりに重い責任を伴うことです。簡単に「はい、分かりました。」と言えるようなことではないでしょう。しかし、彼はこれを引き受けました。これが、信じる者とされたヨセフの決断でした。彼は、とてつもなく重い責任を引き受けました。これもまた、インマヌエルの恵みなのです。神様が共にいてくださるが故に、そのことを信じるが故に、インマヌエルであるが故に出来た決断でありました。

5.我ら、神と共にあり
 インマヌエル。神様が私と共におられるということは、本当に素敵なことです。この世のどんな力にも負けない、どんな嘆きの中でも消えることのない希望の光が与えられます。生きる力と勇気を与えられます。しかし、それは私共が自分の願いや自分の都合、自分の楽しみだけを追い求めて生きていて、それでも与えられるということではないでしょう。インマヌエルのもう一つの面。それは、私共が神様の御業の道具、器とされる。自分の人生が神様の御業の舞台となる。神様が私の人生の主人となるということなのです。「神、我らと共にいます」ということは、同時に「我ら、神と共にあり」ということでもあるのです。神様の御心に従って歩む所に、インマヌエルの恵みは輝くということなのでありましょう。
 クリスマスのこの時、「神、我らと共にいます」そして「我ら、神と共にあり」との恵みの事実をしっかり受け止め、それぞれ遣わされていく場において、為すべき務めに励んで参りましょう。

[2014年12月21日]

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