1.アドベント第三の主の日を迎えて
アドベント第三の主の日を迎えています。来週はクリスマス記念礼拝があります。一昨日は富山市民クリスマスがありまして、私共の教会からは聖歌隊を含めて30名弱くらいの方が参加されました。第一部では小泉町バプテスト教会の閔先生の力強いメッセージがあり、とても心を動かされました。第二部のメサイアも力強く、喜びを持って主を賛美出来たと思います。また、昨夜はここで富山三教会合同の中高生クリスマス会が行われました。これも10年くらいになります。他の教会の中学生だった子が高校生になった姿を見て、頼もしく思いました。様々な行事を通して、主の御降誕を喜び祝うと共に、主の再び来たり給うを待ち望む思いを強くさせられております。
2.エッサイの根より
さて、今、讃美歌21の248番を歌いました。毎年のようにこの時期に歌われる、大変有名な讃美歌です。この讃美歌は、「エッサイの根より生いいでたる」と歌い始めます。以前用いておりました讃美歌にも入っておりまして、やはり「エッサイの根より生いいでたる」と始まっていました。私は、洗礼を受けたばかりの頃、この歌詞の意味が全く分かりませんでした。そして、「エッサイ」というのは植物の名前なのだろう、しかもイスラエルにおいて余程大切にされている植物なのだろう、などと思っておりました。ある時、青年会のメンバーで教会員のお嬢さんに、「エッサイって何?」と聞きましたら、「人の名前よ。」と言われ、いよいよ何を言っているのか分からないと思ったことがありました。もちろん、このエッサイというのは植物の名前ではありません。イスラエルの歴史の中で最も偉大な王ダビデの、父親の名前です。この讃美歌は、今朝与えられております御言葉、イザヤ書11章1~2節にあります、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」という言葉から生まれたものです。この「エッサイの株」の「株」と訳されております言葉は、「切り株」のことです。つまり、木が切り倒され、残った切り株です。その、もう切り倒され、死んでしまったと思われていた切り株から、一つの芽が生えてきて、若枝になるという情景を告げているのです。そして、その切り株は「エッサイの切り株」だというのです。これはエッサイの子であるダビデによって立てられた「ダビデ王朝」が滅ぼされる。大きな木が切り倒されるように滅びる。しかし、その滅びるように見えるダビデ王朝であるが、そのダビデの子孫から、救い主、メシアが誕生する。そうイザヤは預言したのです。そして、その預言の成就として、主イエス・キリストが誕生した。それが、聖書が告げていることなのであり、この讃美歌が歌っていることなのです。
3.長い歴史の中で
神の民は、このイザヤが預言した救い主、メシアの誕生を待ち続けました。先週イザヤ書9章の預言を聞きましたが、このイザヤ書11章も、先週の預言が記された時代とほぼ同じ時代に記されたものです。つまり、紀元前8世紀、メソポタミアに興ったアッシリア帝国が大変な勢いで領土を拡張していく、その流れの中で、北イスラエル王国は紀元前722年に滅ぼされました。そして、アッシリア帝国の勢いは南ユダ王国にも及び、ダビデ王朝があった南ユダ王国の都エルサレムに迫って来ている。南ユダ王国の町々は、次々とアッシリアの軍門に降っていく。残るはエルサレムだけ。南ユダ王国の滅亡は時間の問題、誰の目にもそう見えた。そういう状況の中で、この預言は告げられたのだと思います。しかし歴史的には、この時には南ユダ王国は滅びませんでした。アッシリアの大軍にぐるりと囲まれたエルサレム。まさに風前の灯火であったエルサレム。そんなある夜、主の御使いが現れ、アッシリアの軍勢18万5千人を撃った。アッシリアの王センナケリブはアッシリアの都ニネベに引き返した、と列王記下19章35~36節に記されております。しかし、イザヤの預言は外れたのではありません。そうではなくて、南ユダ王国はそれから約100年後、アッシリアの次に興ったバビロンによって滅ぶのです。
ですから、ここでイザヤは100年後の南ユダ王国の滅亡と、更にその600年後の救い主イエス・キリストの誕生を預言したということになります。100年後の滅亡、それは神様による厳しい裁きです。しかし、イザヤは、それでは終わらない、その後に続く神様の救いの御計画があることをも語ったのです。そしてそれは、主イエスによって成就されたと私共は信じておりますし、聖書はそのように告げているのです。
しかし、何と長い年月でしょう。神様は永遠の昔に私共の救いをお決めになり、その御心を預言者を通して告げられました。神の民はその御心の中で、神様の救いの御業に仕えるために選ばれ、立てられ、導かれてきたのです。神の民というものは、この時間の中で神様の御業を見るということを私共は教えられるのです。
4.イザヤの預言した王
では、イザヤが預言した救い主とはどのようなものだったのでしょうか。それは、エッサイの切り株から生えいでるというのですから、第一に、ダビデの子孫であるということです。そして第二に、それは滅んでしまったダビデ王家からの若枝なのですから、「王」であるということです。つまり、「ダビデの子孫から生まれるまことの王」。これが、このイザヤの預言によって人々が待ち望んだメシアだったのです。
新約聖書も、この預言の成就として、主イエス・キリストの誕生を記しています。例えば、マタイによる福音書は最初にイエス・キリストの系図を持ってくるわけですが、その一つの意図は、主イエスがダビデの子孫であることを示すためだと考えられます。また、主イエスの父ヨセフを、天使は「ダビデの子ヨセフ」と呼びます。つまり、イエス様がダビデの子孫であることを示そうとしているのです。また、ルカによる福音書においては、イエス様が生まれた町はベツレヘムです。この町はダビデの故郷であり、ダビデの家系であったヨセフは住民登録のためにナザレからベツレヘムに行かなければならず、そこでマリアは主イエスを産んだことを記しています。まさに、イエス様がダビデの子孫であることをはっきり示している訳です。
また、先程お読みしましたマタイによる福音書21章において、イエス様はエルサレムに王として入城されました。そしてその時、人々がイエス様に向かって叫んだのは、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」でした。ここで、イエス様はダビデの子孫として、イザヤが預言した王、救い主としてエルサレムに入られたのです。人々もそう思って迎えたし、イエス様もその群衆の叫びを止めなかったのですから、イエス様もこの「ダビデの子」という人々の理解を受け入れたと考えて良いでしょう。この時イエス様は、まさにダビデの子、エッサイの株から生いいでたる薔薇として、エルサレムに入られたのです。
これらは皆、イザヤが告げた「エッサイの株から」という預言の成就として、主イエスは誕生したということを告げているのです。
5.イザヤが預言した「まことの王」と人々が思い描いた「まことの王」
ではこの「王」を、イザヤはどのような方として預言したでしょうか。イザヤはこのように告げております。2~5節「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。」この預言の意味は、「この王には知恵があり、事柄を見極めることが出来、具体的な政策を立て、それを実行することが出来る、まことに王としての優れた能力を持った方だ」というのです。そして、その能力の冠として、主を知り、主を畏れ敬う方だと告げています。どんなに王としての能力が高くても、「神様を畏れること」を知らなければ、神の民の王には相応しくないでしょう。更に、その裁きは、目に見えるところや、人の語ることに左右されず、その人の心の底まで見通されて為されるというのです。しかも、弱い人や貧しい人に対しても、その裁きは公平に行われるというのです。この王の為すことは、いつでも正義と真実が貫かれているのです。
このように見てきますと、本当にそんな王がいたらどんなに良いだろうと思う、理想の王のイメージを私共は描くだろうと思います。しかし、この理想の王というイメージは、一歩間違いますと、救い主に「自分が考える理想の王」のイメージを押しつける、そういうことになりかねないのです。正義とか真実というものが、自分にとっての、自分が考える正義であり真実ということになりかねないのです。人々は、このメシアに対して、ダビデ王のようにイスラエルの王国を再び興し、ユダヤ民族に栄光をもたらす方、そのようにイメージし期待したのではないでしょうか。それは力もあり、能力もあり、主と共におられるお方。自分たちの生活を守り、繁栄をもたらすお方。それは地上の王であり、この世の王であり、力の王です。
6.イザヤが告げる平和の王、平和の国
しかし、イザヤが告げた王は、そのような王ではなかったのです。6節以下の所に、その王によって建てられる国がどのような国であるのかが記されています。6~8節「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」こんな世界があるでしょうか。あり得ないでしょう。弱肉強食のこの世界にあって、ここで記されているような世界は、全く考えることは出来ません。狼と小羊が共に宿るならば、狼は小羊を食べるのです。豹が子山羊と共に伏すならば、豹は子山羊を食べるのです。子牛が若獅子と共に育つならば、若獅子は子牛を食べる。これが私共が生きている世界です。しかし、ここで告げられている世界は、私共がイメージする平和な世界などというものを遙かに超えています。ここにはおおよそ、力による支配というものが入る余地がありません。ここにあるのは、「主を知る知識に満たされる」ことによって、つまり信仰によって生まれる全く新しい世界です。これは、ヨハネの黙示録が語る、「新しい天と新しい地」によってもたらされる国、神の国の有様を示しているのでしょう。そして、この新しい国、神の国において導くのは「小さい子供」です。この幼子こそ、飼い葉桶に眠る幼子、主イエス・キリストなのであります。そして、幼子は毒蛇と戯れても、少しも害を受けないのです。この王こそは、力の王ではなく、まことの平和の王なのです。
このイザヤが告げる王の姿、新しい王国をきちんと正しく受け止めておられたのは、主イエス・キリストだけでした。イエス様は王としてエルサレムに入城されましたが、その時に乗ったのはろばの子、子ろばでした。足が地面に着きそうになりながら、大の大人が子ろばに乗る姿は、滑稽でさえあったことでしょう。ここには、大きな軍馬に乗る力の王の姿はどこにもありません。この新しい国の王の姿は、預言者ゼカリヤによって、ゼカリヤ書9章9節において預言されておりました。来たるべきまことの王の姿を神様によって示された預言者たちは、このイエス様の姿を正しく告げていました。しかし、それを受け取った者が、きちんと正しく受け止めることが出来なかったのです。
どうしてでしょう。それは、「自分の思い描く理想」「自分の思い描く正義」「自分の思い描く真実」というものが、聖書の言葉を、神様の御心を正しく聞き取ることを邪魔したからではないでしょうか。
7.私の人生の主人はイエス様
これは他人事ではありません。私共もまた、いつも犯してしまう誤りです。それは、詰まる所私共の中に、「私の幸いのために神様がいる」という思い違いが根っこにあるからではないかと思います。もちろん、イエス様が来られたのは、私のためです。私を罪から救い、神の子、神の僕として、私を神様との永遠の交わりに生かすためです。これが、イエス様によって与えられるまことの幸い、全き幸いです。しかしそれは、目に見える所において、私に利益をもたらしたり、私の願いを叶えたりするということとは少し違うのです。もし、そうであったなら、イエス様は十字架に架けられることはなかったし、馬小屋に生まれることもなかったのです。イエス様は、その力を人々の願いを叶えるために用い、人々が幸福だと思うようにしてあげれば良かったのです。その奇跡を起こす力でローマの兵隊を蹴散らし、ユダヤ王国をローマ帝国以上の世界帝国にすれば良かったのです。ユダヤの人々に富と栄光を与えれば良かったのです。そうすれば、ユダヤの人々は大満足だったことでしょう。しかし、ユダヤの人々以外はどうだったでしょうか。全く正反対の思いを持ったでしょう。それでは、この世界を造られたただ独りの神様の子がもたらす、全く新しい世界のまことの平和にはならないのです。
イザヤが告げた、弱肉強食を乗り越えた新しい世界。力による支配を根本から打ち破る平和。信仰と愛によって結ばれる全き平和。それは、すべての者の罪が赦され、赦された者が互いに赦し合い、愛し合い、支え合い、仕え合う世界でしかありません。それは、神様によってもたらされる新しい国、神の国です。その国を建てるためにイエス様は来られたし、そのために十字架にお架かりになったのです。クリスマスを迎えようとするこの時、私共が心に刻まなければならないことは、この主イエスの十字架を無駄にしないということです。私の幸いのために神様がいるのではなく、神様の御用に仕えるために私がいるのです。私が人生の主人なのではなくて、イエス様が私の人生の主人なのです。私共には、多くの先生がおります。しかし、主人はこの方しかおられません。この方に仕えることこそ、私共の本当の幸いなのです。
四国のある女性教職の方と、教団の委員会で一緒になりお話ししていた時に、こんなことを話されたことが心に残っています。「伝道者は、生活出来なくて飢え死にするなら、それはそれで良いのよ。それが御心なのだから。」私は、この厳しい言葉にたじろぎながら、本当にそうだと思ったのです。何が先か。何が大切か。「神の国と神の義をまず求めていくならば、すべては備えて与えられる。」それがイエス様の約束ではないか。私の幸いのために神様がおられるのではなくて、神様の御業のために私がいるのではないか。伝道者がそこに徹して生きなくて、どうして伝道出来ますか。そう頭を殴られたように思いました。
イエス様が飼い葉桶に寝かされ、十字架に付かれました。そして、わたしに従って来なさいと言われます。私共は、本当に不徹底なのです。しかし、今朝、そのような私共に、飼い葉桶のイエス様が、十字架のイエス様が告げられます。「わたしに従って来なさい。」この御言葉をしっかり受け止めて、クリスマスまでの日々を、それぞれ与えられた場において歩んで参りましょう。
[2014年12月14日]
へもどる。