1.アドベントを迎えて
今日からアドベントに入りました。いよいよクリスマス・シーズンです。週報にありますように、今週の土曜日には、刑務所のクリスマスがありますし、北陸学院大学の同窓会富山支部(デージー会)のクリスマス会もあります。デージー会のクリスマス会では松原葉子さんのオルガン演奏も行われます。この演奏はどなたでも聴くことが出来ますので、ぜひおいでいただきたいと思います。また、クリスマス・リース作りも今週の金曜日まで一階の会議室で行われておりますので、ぜひ作りに来てください。教会員の方だけではなくて、近所の方と一緒に作りに来てくださって結構です。
昨日は、福野伝道所のクリスマス・イルミネーションの点灯式に行ってきました。あいにくの雨でしたので室内で行ったのですが、子供たちがチャイム・ベルの演奏をし、讃美歌を歌い、カウント・ダウンと共に点灯する。その後で、私が聖書のお話をして、お祈りをし、皆で「もろびとこぞりて」を歌うというものでした。私も初めての体験でしたが、大人と子供それぞれ100人くらいずつ、合わせて200人くらいが集まっていました。園長のK先生が「こういうイベントをやると人が集まるのですが、なかなか伝道が…。」と言われましたので、「蒔かぬ種は生えぬ。種蒔き、種蒔き。」と答えました。教会員12名の小さな伝道所ですが、幼稚園と共に福野の地に立ち続けている姿に、この地に住む人を救わんとする主の憐れみ、主の愛を覚えました。大きなヒマラヤ杉のてっぺんには、ベツレヘムの星を示す大きな星のイルミネーションが光っていました。東方の博士たちが星を頼りに長い旅をしてイエス様を拝みに来たように、福野の町に住む人たちにこのイルミネーションを通して「この星の下にまことの救いがある。ここに来なさい。一緒にイエス様を拝もう。」そう呼びかけている神様の声が、一人でも多くの人の心に届くことを祈りました。
クリスマスはイベントとして日本に定着しました。しかし、イエス様の御降誕を喜び祝っている人は少ない。そういう中で私共は、どのようなまなざしをもってこの時を過ごすのか。今朝与えられております御言葉は、そのことを私共に教えてくれています。
2.自分は正しいと思う者
38節「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』」イエス様の弟子であったヨハネが、イエス様の名前を使って悪霊を追い出している人を見て、やめさせようとしたというのです。ここでイエス様の名前を使って悪霊を追い出していた人というのがどういう人なのか、何の説明もありませんのではっきりしたことは分かりませんが、二通りの理解があります。一つは、当時、悪霊を追い出す祈祷師のような人がおり、その人がイエス様の名前を使っていたという理解です。これは、イエス様の名前を効き目のあるものとして呪術として使ったわけで、十戒の第三の戒、「主の名をみだりに唱えてはならない」に反します。「主の名をみだりに唱えてはならない」というのは、神様の名、神様御自身を自分の利益のために利用するようなことをしてはいけない、という意味です。ですから、ヨハネがこれをやめさせようとしたのは正しいことであったと言えるでしょう。その人は「わたしたちに従わない」つまり、ヨハネたちと共にイエス様に従うことをしない人です。これはイエス様に対しての信仰を持っていない人、そう考えることが自然でしょう。ですから、ヨハネがやめさせようとしたのは当然だと思われます。
第二の理解は、この人はイエス様を信じる者ではあった。けれど、ヨハネたちのように、すべてを捨ててイエス様に従ったわけではなかった。そういう人が、イエス様の名によって悪霊を追い出していたという理解です。この場合、ヨハネは、悪霊を追い出す権能は自分たち十二弟子に与えられているものであって、お前たちには与えられていない。そう思ってやめさせたということでしょう。この場合も、ヨハネとしてはイエス様が与えられる権能というものを大切に考えた、だからこれでもヨハネは正しいことをしたということになるかと思います。
いずれの場合も、ヨハネは正しいことをしたのです。十戒に違反してイエス様を自分のために利用するのをやめさせた。あるいは、イエス様が与えられる、悪霊を追い出す権能というものの秩序を守った。どちらも正しいことでした。ヨハネは、自分は正しいことをしたと思っておりましたし、ですから、きっと自分はイエス様にほめられると思っていたと思います。
しかし、イエス様の反応は全く逆でした。39節「イエスは言われた。『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。』」イエス様は「やめさせてはならない。」と言われたのです。「え、どうして??」ヨハネはそう思ったでしょう。だったら、イエス様の名前、つまりイエス様御自身ですが、それを呪術のようにして、自分の利益のために利用しても良いのでしょうか?悪霊を追い出す権能、神様の救いがもたらされる秩序というものはどうでも良いことなのでしょうか?そういう問いが、ヨハネの中に浮かんだかもしれません。皆さんの中にも、そのように思われた方がいるかもしれません。しかしイエス様は、ここでそのようなことを問題にしているのではないのです。神様を、イエス様を、信仰を、自分の利益のために利用する。それが「十戒」違反であることは明らかなのですから、ここでイエス様は、それで良いと言っているはずがないのです。また、神様の救いに与る秩序というものは大切です。それがどうでも良いとなれば、教会は混乱しますし、何が救いなのかも分からなくなってしまうでしょう。ここでイエス様は、そのような秩序はいらないと言われているわけでもないのです。そうではなくて、イエス様がここで問題にされているのは、それをやめさせようとしたヨハネ自身なのです。
ヨハネはどうして、勝手にイエス様の名前を使って悪霊を追い出しているのをやめさせようとしたのでしょうか。それは、ヨハネの目の前で為されていることが間違っていることだ、あってはならないことだ、そう思ったからでしょう。この時ヨハネは、自分は正しいことをしている、そう信じて疑わなかったはずです。イエス様は、ヨハネが自分は正しい、この人は間違っている、そう信じて疑わない心を問題にされたのです。
3.味方か敵か
40節「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」イエス様は、この自分の名前を使って悪霊を追い出している人を、味方だと見たのです。しかし、ヨハネはこの人を、敵だと見たのではないでしょうか。この人を敵と見てしまうヨハネのまなざしを、イエス様はここで問題にされたのです。この人は敵ではない。味方だ。そうは思えないか?そうイエス様は問われたのです。
今朝の説教の題は「誰が味方で、誰が敵か」としました。いささか激しすぎる題かとも思いましたけれど、この心の動き、この様に人を見る私共の眼差し、これをイエス様は問題にされたのだと思うのです。この様な心の動きは、私共が無意識のうちに人を分け隔てしている時に、誰の心の中でも起きる動きではないかと思います。これは、「誰が身内で、誰が他人か」と言い換えることが出来るかもしれません。私共に友人が出来、仲間が出来ますと、そこでは必然的に、仲間とそうでない人が出来てしまいます。そしてそれは、その仲間の集団が大きくなれば、その中においてもさらに仲間とそうでない者とが出来ます。それは会社であっても、学校であっても、地域であっても、そして教会であっても同じことなのです。そしてその時、ほとんど無意識のうちに、私共は仲間とそうでない人を分ける。自分の味方とそうでない人を分ける。そういうことをしてるのだと思います。更に言えば、私共は仲間以外の者を非難することにおいては厳しくなる。少しの違い、少しの間違いも見逃さない。しかし、同じことが仲間の中で為されている分には、甘くなったり、気が付かない。そういうことがあるのだろうと思います。
イエス様がここで問題にしているのは、ヨハネが止めさせようとした時に、彼は自分を正しい者とし、相手を間違ったことをしている人として断罪しているわけですが、ヨハネ自身はその自分のまなざしに全く気付いていない。それが問題なのです。ヨハネは、自分はどこまでも正しいのです。そして、イエス様の名前を使って悪霊を追い出している人は、ヨハネたちに従わないのですから、間違っている人であり、とんでもない人ということになるのでしょう。しかしイエス様は、本当にそうなのですか、そう言われたのです。
ヨハネの正しさとは何なのでしょうか。その正しさについて様々な理屈は付けられるでしょう。しかし、ここでのヨハネ自身の言葉を使って言うならば、「わたしたちに従わないので」ということになるのではないでしょうか。ヨハネの正しさの根っこに、自分たちに従わない、自分たちの仲間にならない、そういうことがあるということをイエス様は見抜いておられたのです。私共が正しさを主張する時、いつでもこの危険があるのです。正しさの主張の裏に、自分が重んじられていない、自分の考えと違う、自分の考えに従わない、だから間違っている、そのように非難する私共の心があることを、イエス様は良く御存知なのです。そして、このヨハネの姿こそが私共の日常の姿なのです。ヨハネは私なのです。
しかし、ここまで言っても「そうそう、あの人はいつもそうだわ。」そう言って、このことさえ、他の人を非難し、批判するものにしてしまう。自分は正しいというところから抜けられない。しかし、そうではないのです。ここで問題にされているのはヨハネの心です。そしてそれは、私の心なのでしょう。
4.ヨハネは私
ヨハネは敵を作ってしまいましたが、イエス様は反対に、味方を作れと言われたのです。私共は、味方と敵と、どちらを作るのが得意でしょうか。言うまでもなく、敵でしょう。私共は、放っておいてもすぐに敵を作るのです。敵と言わないまでも、周りの人をすぐに批判の対象とするのです。あの人はあそこがダメだ、ここがダメだと言い出すのです。もちろん、私共は欠けばかりの人間ですから、あそこがダメ、ここがダメと言われる所は、いちいち当たっていることが多いのだろうと思います。言われても仕方がないという所が私共にはあります。しかし、それをいちいちあげつらっても、敵を作りこそすれ、味方を作ることにはならないでしょう。味方を作るというのは簡単ではありません。その人を受け入れ、その人に仕え、その人を愛さなければならないからです。人間の罪というものは、放っておけば敵を作り出すように働くものなのです。イエス様は、それを問題にされたのです。
私共キリスト者の心の中には、どうしてもキリスト者である人とそうでない人を区別する、そういう心の動きがあります。そしてそれが、自分たちはイエス様の救いに与っている、自分は神様を知っている、イエス様を知っている、愛を知っている、本当の正しさを知っている。しかしあの人たちは知らない。可哀想に。そんな優越感をもたらすことになるとするならば、そしてそんな思いを持って人と接するなら、それは敵を作りこそすれ、味方を作ることにはならないでしょう。そして、この心の動きを一番敏感に感じ取っているのが、キリスト者の家族、私共の家族なのではないでしょうか。家族伝道の難しさが良く言われますが、それを難しくしているのは、色々理由はあるでしょうけれど、この私共の中にある、キリスト者でない人たちに対しての、相手を見下すような上から目線の姿勢なのではないでしょうか。
このヨハネは、先週見ました、弟子たちで誰が一番偉いかと論じ合った時、その中に確かにおりましたし、10章37節以下では、兄弟のヤコブと共に、イエス様に直接、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と申し出た人でした。ヨハネは、自分が一番になりたかったのです。偉くなりたい。そういう素朴な思いを持っていたのです。それと、今朝与えられた御言葉が語る、イエス様の名によって悪霊を追い出している人にそれをやめさせようとしたということは、深く結びついているのです。ヨハネは自分が一番になりたいのです。自分が偉くなりたいのです。自分が重んじられたいのです。だから、それに反対する者を許せないのです。受け入れることが出来ないのです。それは私自身の姿です。
5.イエス様は私の味方
私は、今日の説教の備えをしながら、どんどんどんどん自分の心の底にある罪が明るみに出されて、本当につらくなりました。こんな私はどうすれば良いのだろう。どうしたら、そのような心から解き放たれるのだろう。そう思いました。
もう一度、イエス様の言葉に耳を傾けてみましょう。40~41節「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」この言葉は誰に語られたのでしょうか。言うまでもなく、ヨハネです。イエス様はここで徹底してヨハネを問題にし、ヨハネに言葉を与え、ヨハネをその罪のまなざしから自由にしようとしておられるのです。ここでイエス様は、自分の名を使って悪霊を追い出している人さえ、自分の味方だと言われます。そして、私共にキリスト者であるという理由で水を一杯飲ませてくれる人は、必ず報いを受けると言われる。つまり、イエス様に従っていないで、イエス様の名前だけを使っている人でさえ味方ならば、ヨハネは確かにイエス様の味方であるに違いありません。少なくとも、イエス様はそのように私共を見ていてくださるのです。そして、イエス様の弟子に水一杯を飲ませるだけで報いを受けるとするならば、私共は間違いなく、神様から大きな報いを受けるでしょう。その報いとは、罪の赦しであり、体のよみがえりであり、永遠の命です。何とありがたいことでしょう。
何度も申しますが、イエス様がここでヨハネに言われたことは、ヨハネに対してであって、イエス様の名前を使って悪霊を追い出している人に対してではないのです。イエス様が問題にしているのは、どこまでもヨハネなのです。ここでイエス様がヨハネに告げたことは、「ヨハネ、あなたはまた自分を正しい者にするために、自分の立場を守るために、正義を振りかざしましたね。しかし、誰が一番偉いかと論じているあなたが、そんなに正しい者なのですか。あなたが正しくない者であることを、わたしはよく知っています。しかし、あなたはわたしの味方です。大切な味方です。ですから、わたしはあなたを裁きません。裁くどころか、あなたの受ける報いは大きいことを保証します。あなたは救われます。天の御国に迎えられます。」そういうことではなかったかと思うのです。
つまり、ヨハネに対してイエス様は、自らの罪、愚かさにも関わらず、イエス様の救いに与るという恵みの中にあることを知らせたのです。そしてそのことによって、あなたが敵と見なし、裁いている人もまた、同じ神様の恵みの中にいることを思い起こさせ、敵を作るのではなく、味方を作りなさい。上から人を見下し、自分と違うからといって人を裁くのではなくて、その人もまた、神様に愛されている者であることを認め、これを受け入れ、これを愛し、これに仕えなさい。そう教えてくださったのです。本当にありがたいことです。
6.イエス様の居ないクリスマスに囲まれて
クリスマスを迎えるこの時期、いろいろな所でイエス様の居ないクリスマスを目にすることでしょう。お寺の幼稚園・保育園でもクリスマスをするというのですから、そんな所ではイエス様を出すわけにはいかないでしょう。公立の幼稚園、保育園でも、宗教はいけないということで、イエス様抜きのクリスマスをします。そういう所では、イエス様ではなく、サンタクロースがちょうど都合が良いのです。今年は、私は五つの保育園、幼稚園でサンタクロースの奉仕をします。サンタクロースなんかいらない、などと目くじらを立てることはしません。しかし、サンタクロースの口を通して、「クリスマスはサンタクロースのお祭りではありません。クリスマスはイエス様の誕生日です。だから、イエス様の家来であるサンタクロースは、みんなにプレゼントを配るのです。」そう話すことにしています。
イエス様を知らない人でも、クリスマスを喜び、祝っている。まことに不思議なことです。けれど、この不思議もまた、神様の大いなる救いの御計画の中で起きていることなのだ、と私は信じるのです。そしてこの時を、私共は自分のまなざしを点検する時とされたいと思います。私のために馬小屋にお生まれになったイエス様。自分に敵対する罪人のために十字架にお架かりになったイエス様。このお方によって私共は生かされているのですから、自分を高い所に置こうとして人々を見下すようなまなざしを捨て、目の前にいる具体的な一人を受け入れ、これを愛し、これに仕える者として歩んで参りたい。そう心から願うのであります。
[2014年11月30日]
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