1.アドベントを前にして
週報に記してありますように、今日の礼拝後にクリスマス・リースを作ります。来週からアドベントに入りますので、その備えをするわけです。教会学校では既に、土曜日に集まってのページェントの練習が行われています。私は今週の土曜日に、代務者をしております福野伝道所の幼稚園で、クリスマスのイルミネーションの点灯式をしてきます。福野伝道所の玄関の横にはとても大きなヒマラヤ杉がありまして、そこにクリスマスのイルミネーションが飾られて、その点灯式というのがあるのです。どんなことが行われるのか良く分からないのですけれど、短くクリスマスのお話をしてお祈りするように依頼されています。来週からアドベントに入りますと教会では次々とクリスマスの行事が行われますが、今週も、既にクリスマスに向かっての様々な備えがなされて、クリスマスの喜びと慌ただしさが前倒しでやって来ている、そんな感じがいたします。
クリスマス・シーズンを迎えようとするこの時、私共が心に刻みますことは、飼い葉桶に寝かされたイエス様のお姿です。クリスマスはとても華やかな祝いの祭りです。街中にイルミネーションが飾られ、クリスマス・ソングが流れます。確かにクリスマスは嬉しいです。本当に圧倒的に嬉しいのです。それは人間が作り出せるようなものではありません。神様の救いの到来です。私共は、このクリスマスの喜びに包まれながら、何を見るのか。それは、飼い葉桶に寝かされた主イエス・キリストです。そのお姿は、十字架へとつながっています。何故イエス様は飼い葉桶に寝かされたのか。それは、何故イエス様は十字架にお架かりになったのかということと重なります。
天と地を造られた全能の神様に等しいお方が、人間となり、貧しい姿になられた。それは、私共人間の一切の罪を我が身に負い、十字架の上で私共に代わって裁かれるためでありました。そのためにイエス様は来られました。そして、そのイエス様の御業によって、私共は神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るようになったのです。まことにありがたい。だからクリスマスは圧倒的に嬉しいのです。クリスマスの喜びは、十字架の出来事抜きには有り得ません。クリスマスだけではなく、イエス様の言葉、イエス様の為された業、そのすべては十字架そしてその後の復活の出来事と結びついているのです。
2.すべての人に仕えるイエス様
今朝与えられております御言葉において、イエス様は弟子たちにこう告げられました。35節「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」イエス様の言葉は、その言葉だけを取り出して、なかなか良いことを言っているとか、この言葉は本当だ、真理だ、そのように扱うことは出来ません。イエス様の言葉は、いつでもイエス様というお方と結びついています。人間は、あの人の言っていることは良いのだけれど、やっていることはダメだよね、そういうことがあるでしょう。言っていることと行い、生活とが分裂している。それが私共の姿です。しかし、イエス様の言葉はそうではないのです。イエス様の言葉は、イエス様の歩みと一つに、為された業と一つに、その存在と一つに結ばれています。
この言葉もそうです。イエス様はここで、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と言われましたが、実にイエス様こそ、この言葉通りに生きられた方でありました。すべての人に仕えるために来られ、十字架にお架かりになったのです。イエス様の十字架は、「すべての人」に仕えるためのものでした。この十字架の恵みから外れている人は一人もいません。金持ちの人のためだけに、イエス様は十字架に架かられたのでしょうか。この世で力ある人、権力を持っている人、成功した人のためだけに、イエス様は十字架に架かられたのでしょうか。健康で頭も良く、何でも出来る人のためだけに、イエス様は十字架に架かられたのでしょうか。信仰心に富み、熱心に祈り、性格は穏やかで、誰からも好かれ、世間の評判も良い人のためだけに、イエス様は十字架に架かられたのでしょうか。そうではないでしょう。愚かで、意地っ張りで、怠け者で、すぐに何でも忘れてしまい、そのくせ自惚れだけは強く、すぐに人のことを批判する、そのような私のために、イエス様は十字架に架かってくださったのです。
そのイエス様が言われるのです。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」これは、すべての人に仕えるために十字架に架かったわたしに従って来なさい、わたしに倣いなさいということです。内容的には、8章34節でイエス様が告げられた「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と同じです。今朝与えられている9章35節の御言葉の中心は、「すべての人に仕える者になりなさい」にあります。そして、この言葉は、9章31節で「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」と、十字架と復活の二回目の予告をされた直後に記されているのです。弟子たちはイエス様のこの十字架と復活の言葉が分からなかった。そこで、イエス様は35節以下の言葉を語られたのです。一方、8章34節の「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」も同じです。8章31節でイエス様は十字架と復活の一回目の予告をされました。するとペトロが、そんなことがあってはなりませんと、イエス様をいさめた。ペトロは分からなかったのです。ペトロだけではなかった。弟子たちはみんな分からなかった。そこでイエス様は、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われた。構造は全く同じです。十字架・復活の予告の後に、弟子たちの無理解に対して告げられた言葉なのです。ですから、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というイエス様の言葉も、「すべての人に仕える者になりなさい」というイエス様の言葉も、イエス様の十字架と復活の出来事と結びつけられて受け取らなければなりません。そのようにイエス様御自身が語られたからです。
3.子供の一人を受け入れる
では、「すべての人に仕える」とはどういうことなのでしょうか。イエス様はここで、一人の子供を抱き上げて言われました。37節「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」つまり、「すべての人に仕える」とは、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる」ことだと言われたのです。一人の子供を受け入れる。そんな簡単なことで良いのかと思われるかもしれません。子供は可愛いし、子供を受け入れることくらい、別にイエス様に言われなくてもやっている。そういう人もいるかもしれません。しかし、ここでイエス様に抱き上げられた子供とは、可愛くて、純真で、愛されるべき代表のような存在としての子供、そういう意味ではないのです。イエス様の時代、人数を数える時に、女性と子供は数に入りませんでした。女性の人権、子供の人権という発想は、この時代にはありません。ここで、イエス様が「子供を受け入れる」と言われた子供とは、力がない、数にも入らない、皆に無視されるような存在の代表としての子供なのです。ですから、この子供というのを、文字通りに取ることはありません。現代の言葉に置き換えるならば、社会的弱者、経済的に貧しい人、障害者というようなことになるでしょう。現代では、子供ではなくて、逆に自分の身の回りのことが出来なくなった高齢者ということになるのかもしれません。そのような人を、自分たちの仲間として、大切な人として受け入れ、これに仕えるということなのです。子供に仕えても見返りは期待出来ません。しかし、それが良いのです。それが素敵なことなのです。何故なら、見返りは神様が与えてくださるからです。この地上での見返りを求めない。これが、イエス様が求められる「受け入れる」ということ、「仕える」ということです。
また、イエス様は「子供の一人」と言われました。すべての子供ではないのです。すべての人に仕えるとは、具体的な目の前にいる「一人の子供」を受け入れ、愛し、仕えることなのです。イエス様が「すべての人に仕える」と言われた時、それは少しも観念的なことではないのです。目の前のこの助けを必要としている、一人の人に対してどうするのかということなのです。イエス様は、すべての人に仕えるために来てくださいました。それは具体的には、「この私のために」十字架にお架かりになってくださったということなのです。
このイエス様の教えは、随分世界に広まってきていると思います。弱い者、小さい者が大切にされない社会はおかしい。そういう感覚が一般にもあるのではないでしょうか。これは江戸時代までの日本にはなかったと思います。この背後には、イエス様のこの教えがある。そう私は思っております。
4.脇目も振らず
さて、イエス様がこの話をされた発端ですが、それは弟子たちが「だれがいちばん偉いか」と議論をしていたからでした。8章29節以下でペトロがイエス様をメシアと告白してから、イエス様は十字架と復活についてあからさまに語られるようになりました。そして、イエス様の歩みは、エルサレムにおいて十字架に架かる、そこに向かってぶれることなく突き進んでいくようになるわけです。そういう時に、しかし弟子たちは「だれがいちばん偉いか」と議論している。イエス様の見ている所と弟子たちの見ている所が違っているということを、これほどはっきりと示している箇所もそうないだろうと思います。多分弟子たちは、こう考えていたのでしょう。弟子たちは、イエス様がメシアであることは信じておりました。それはイエス様がその力をもってローマを蹴散らし、ダビデ王の時代のように、再びイスラエルを復興されることだと思っておりました。そしてその時には、自分たちはイエス様の側近として高い地位に就くことになる。その時には自分たちはどういう順番でその地位に就くことになるのか。この時弟子たちは、そんなことを話していたのだろうと思います。しかしこの時、イエス様が「何を議論していたのか。」と尋ねますと、弟子たちは黙っていました。弟子たちにしても、だれがいちばん偉いかと論じていたというのは、はしたないと言いますか、イエス様に叱られると思ったのではないかと思います。私共でさえ、こんなことを論じることはありません。こんなことをあからさまに口にするのは幼いと言いますか、子供っぽいことです。しかし、弟子たちのように口に出すことはなくとも、そのような思いが私共の中に全くないかといえば、そうとは言えないでしょう。人と比較して優越感を持ったり、逆に劣等感を持ったりするのが、私共であります。私共は幼い時から、一番になろうとすることを求められてきましたし、なるために努力もしてきました。幼い時にかけっこで一番になれば嬉しかったし、親も喜びました。そのように努力することをイエス様はここで全く否定したということではないと思います。しかし、それがすべてではないし、それよりも大切なことがある。そのことをここで教えられたのだと思います。
弟子たちがここで「だれがいちばん偉いか」と論じたのは、この世の問題ではないのです。だれがいちばんイエス様に仕えているか。だれがいちばん神様の御心に適っているのか。そういうことではなかったかと思います。それは、この世の競争原理を神様の救いに与る、神様にお仕えするという所にまで持ち込んでしまったということでした。イエス様は、「それは全く違う。」そう教えられたのです。
私共は、アダムとエバが罪を犯し、その子であるカインとアベルが神様に献げ物をした時に、神様はアベルの献げ物には目を留められたが、カインの献げ物には目を留めらなかった、そこでカインは怒り、アベルを殺してしまったということを知っています。兄弟の間でさえも、自分と比べ、妬み、争う。それが人間であることを、聖書は教えています。このような思いが私共の中にないとは言えないのです。しかし、この時神様は、怒って顔を伏せるカインに対して、顔を上げよ、わたしを見よ、わたしに対して顔を伏せるなと言われました。
実に、イエス様がここで弟子たちに告げられたことも、そういうことだったのです。だれが偉いかと人と比べるその視線、自分と比べるために同労者たちに向けられている視線を、わたしに向けよ。十字架に架かるわたしに向けよ。そして、わたしに従え。そう告げられたのです。私共がイエス様に従うということは、十字架に架けられたイエス様に従うということです。そして、十字架のイエス様に従うということが、神様に従うということなのです。そして、この十字架のイエス様を見上げるということが、神様に顔を向けるということなのです。十字架のイエス様をしっかり見上げているならば、よそ見をしている暇はないのです。イエス様は、「よそ見をしているな。わたしを見よ。わたしの後に従え。」そう言われたのです。
イエス様は、私のために、私に代わって十字架に架かってくださいました。私に、神の御子が命を捨てて救ってくださるほどの価値があるはずがありません。しかし、イエス様はそうしてくださいました。その尊い御業の故に、今の私があるのです。とするならば、私共は、自分にとって好もしくもなく、何の得にもならないと思う人をも受け入れ、これを愛し、これに仕えるという道を選び取らないわけにはいかないのではないでしょうか。これは、人と比べて自分の方が出来ているとか、出来ていないとか言うことではありません。私とイエス様、私と神様という関係の中で為されることです。どんなに良き業でも、愛の業でも、人と比べ始める時、それは御心から外れてしまいます。私が一番になろうとする思いが頭をもたげてくるからです。
5.誰が一番偉いのか
「誰が一番偉いのか。」これを今日の説教の題にいたしました。皆さんなら、この問いに何と答えるでしょうか。この問いに対して答えは、何の注釈も付いていなければ、それはイエス様に決まっています。弟子たちも、そんなことは分かり切ったことで、誰が一番偉いかと論じた時に、イエス様のことは論外だったでしょう。イエス様は外して、自分たちの中で誰が偉いのかと論じていたのでしょう。しかし、それが問題なのです。「だれがいちばん偉いか。」この問いの答えは、イエス様以外ないのです。そして、その答えを明確にするならば、二番以下を比べることに意味がないことを知るはずだからです。何故なら、イエス様が一番偉いということが明らかにされる時、同時に、私共はただの罪人に過ぎないということも明らかにされるからです。私共は、自分がただの罪人であることを忘れると、人と比べ、誰が偉いかと言い始める。そして、自分もまんざらではないと思い始める。これが信仰の堕落です。
私共は、ただイエス様を見上げて、イエス様に従っていくだけです。その時、自分の隣にいるのは、ライバルではなくて、共にイエス様に仕える同労者であり、心から愛すべき友であり、神の家族なのです。私共はその人を批判する前に、自分がその人を受け入れているか、その人に仕えているか、その人を愛しているか、そうイエス様から問われるのでありましょう。私共は本当に、良き所などどこにもない、ただの罪人です。しかし、その私のために、神様はイエス様を与えてくださいました。この神様の愛だけが、私共を助け、私共を救い、私共を生かすのです。「わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」(詩編121編1~2節)であります。助けは、私共の中から湧き上がってくるのではないのです。ただ、天地を造られた主のもとから助けは来ます。この主から来る助けを信じ、十字架のイエス様に従って、すべての人に仕える者として、この一週間も歩みを為してまいりましょう。
[2014年11月23日]
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