富山鹿島町教会

礼拝説教

「祈りによらなければ」
エレミヤ書 17章5~8節
マルコによる福音書 9章14~29節

小堀 康彦牧師

1.信仰の飛躍、信仰の訓練
 私共は今日も、主の御前にこのように集い、主の御名を崇め、賛美を捧げ、礼拝を捧げています。御言葉を受け、イエス様と出会い、イエス様との交わりを与えられております。そのような信仰の歩みを為している私共でありますが、その歩みを続けている中で、どうしてこんなことが起きるのかとほとほと困り果て、うろたえてしまうような出来事に出会います。信仰を与えられ、洗礼を受け、主と共に歩んでいるならば、すべてがうまくいく。そうとは限らないことを、私共は知っております。しかし、それは私共にとって、とても大切な信仰の飛躍の時、目覚めの時でもあるのです。私共は信仰において成長していくことを求められておりますし、神様はそれに必要な訓練もまた与えられるのです。こう言っても良いでしょう。信仰とはこういうものだと何となく分かったような気がする時、神様は出来事をもって「お前はまだ何も分かっていない。」と一喝される。私共は、ほとほと困り果てながらも、そこで神様との交わりをもう一度新しくされ、神様との交わりをさらに一歩前へと進ませていただく。そういうことなのではないかと思うのです。逆に言いますと、私共は信仰の歩みを続けていく中で、こうすれば良い、こうするのが当然だ、こうすれば御心に適うはずだ、そんな風にどこかで考え始めるけれども、私共の信仰は、生ける神様との交わりでありますから、この生ける神様との交わりにおいては、こんなもんだということには決してなり得ないということなのです。しかし、信仰とはこんなもんだと思い始める不信仰と無縁な人もまた、一人もいないのでしょう。

2.汚れた霊を追い出せない弟子たち
 さて、イエス様とペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人の弟子たちが山から下りて来ました。山の上では、イエス様の姿が変わり、モーセとエリヤと語り合うという、天上の窓が開かれたような驚くべき出来事に遭遇した弟子たちでした。彼らはずっとこの山の上に居たかったことでしょう。しかし、山の上でイエス様の本当の姿に出会った弟子たちが、いつまでもそこに居ることは許されませんでした。悩みと苦しみと不信仰が渦巻く山の下へと下って来なければならなかったのです。
 そこでイエス様と三人の弟子たちを迎えた現実は、父親が汚れた霊に取りつかれた息子を助けて欲しいと残っていた弟子たちの所に連れて来たのに、弟子たちは汚れた霊を追い出すことが出来ず、そのことで弟子たちと律法学者たちが議論をしているという場面でした。議論の内容は記されておりませんけれど、汚れた霊を追い出すことが出来なかった弟子たちに対して、律法学者たちが「それでもメシアの弟子なのか。そもそもイエスはメシアなのか。お前たちは多くの悪霊を追い出したと言っているが、それは本当なのか。そもそも律法を守らないお前たちがメシアの弟子であるはずがない。」などと言ったのではないでしょうか。そして、弟子たちは何とかそれに反論しようとするけれど、論より証拠で、今この息子から汚れた霊を追い出せないという事実を前にしては、弟子たちの言うことには少しも説得力がない。そういうものではなかったかと思います。しかし、本当は議論などしている時ではなかったでしょう。苦しんでいる息子とその父は、議論の間中、置き去りにされたままなのですから。そのことの方が問題ではなかったかと思います。そこに、イエス様と三人の弟子たちが山から下りて来たのです。
 イエス様は「何を議論しているのか。」とお尋ねになります。すると、群衆の中の一人がこう答えました。17~18節「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」どうして弟子たちは汚れた霊を追い出すことが出来なかったのでしょうか。6章7節以下の所には、十二弟子たちが汚れた霊に対する権能をイエス様から授けられて遣わされ、多くの悪霊を追い出し、多くの病人をいやしたことが記されていました。弟子たちは今までにたくさんの人をいやし、悪霊を追い出してきたのです。彼らには経験があり、実績があったのです。こうすれば悪霊を追い出すことが出来たという成功体験があったのです。多分、この時も同じようにしたことでしょう。しかし、出来なかった。この時、十二弟子の内のペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人を除いた九人の弟子たちがここに残っていたはずです。その九人の弟子たちが束になっても、この汚れた霊を追い出すことが出来なかったのです。何故でしょうか。イエス様から弟子たちに与えられた権能は、もう期限が切れていたということなのでしょうか。
 この問いに対して、イエス様はこう答えています。28~29節「イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、『なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか』と尋ねた。イエスは、『この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ』と言われた。」とあります。つまり、イエス様はここで、弟子たちがこの霊を追い出せなかったのは「祈り」がなかったからだと言われているのです。しかし、弟子たちはこの時、全く祈らなかったのでしょうか。祈ることなく、彼らは悪霊を追い出そうとしたのでしょうか。私は、それは全く考えられないことだと思います。弟子たちは祈ったと思います。しかし、イエス様は「祈っていない」と言われたのです。弟子たちは祈った。しかし、イエス様は祈っていないと言われる。ここには、祈りについての弟子たちの理解とイエス様の理解の間に食い違いがある。そういうことではなかったのかと思うのです。更に言えば、イエス様はここで弟子たちに、祈るということがどういうことなのかを教えられたということではなかったのかと思うのです。弟子たちは祈ったのです。弟子たちはこのように祈れば悪霊を追い出すことが出来ると思っていた。祈るとはこういうものだと分かったつもりでいた。だから、その通りにした。しかし、悪霊を追い出すことは出来なかったのです。そしてイエス様は、「それは祈りになっていない。」そう言われたということなのです。

3.祈りの中の不信仰
 6章において、弟子たちが遣わされた時、彼らは、自分たちが祈って悪霊を追い出したり病人をいやしたりすることが出来るという事実に驚いたことでしょう。自分たちにそんな力があるはずもなく、ただただ神様が働いてくださることに驚いたことでしょう。イエス様が与えてくださった権能に驚いたことでしょう。しかし、彼らはいつの間にか勘違いをしてしまったのではないでしょうか。私がこのように祈れば悪霊を追い出すことが出来る、と。それは、祈りの呪術化です。イエス様が教えてくださった祈りとは正反対の祈りが、この呪術なのです。呪術とは、ある祈りの言葉を口にすれば、その祈りの言葉によって神様を働かせることが出来る、そういう祈りの理解です。
 祈ることを教えない宗教はありません。しかし、多くの宗教が教える祈りは、この呪術としての祈りなのです。もちろん、呪文を教える宗教はそれほど多くないかもしれません。しかし、誰々に祈ってもらうとその祈りは効く、というような理解は、祈りを呪術として受け止めているのでしょう。祈祷師というような存在は、呪術としての祈りの力を前提としています。これは、イエス様が私共に与えてくださった祈りではありません。
 また、この呪術としての祈りとは反対に、どうせ祈ったところでなるようにしかならない、祈っても無駄だ、といって祈ることをしない。それもまた不信仰と言わなければなりません。祈りによる神様との交わりそのものを否定しているからです。しかし、私共は祈りの営みを為していく中で、祈っても状況が変わらないということを経験する時、いとも容易くそのような不信仰に陥るのではないでしょうか。
 祈りを呪術にしてしまう不信仰、そして祈らないという不信仰。そのどちらでもない祈りの世界を、イエス様はここで弟子たちに示そうとされたのではないでしょうか。それは、神様への全幅の信頼をもって祈るという祈りです。自分の中には何もない。祈る力さえもない。その何もない私が、ただ神様の力を信頼して、神様の憐れみを信じて、ひたすら神様に願う。神様を愛し、信頼している、ただそれだけが祈りの根拠であり、そこに立ち続けることが私共の祈りであることを示そうとされたのではないかと思うのです。
 私は今、祈りを呪術にしてしまう不信仰、祈らないという不信仰と申しました。このことをイエス様は「くどくど祈るな。」と言っていさめられ、また熱心に祈ることを勧めることで示されたのでしょう。くどくどと同じ事を祈って願いが叶えられると考える、祈りの呪術化。どうせ祈ったところで、神様は聞いてはくれないと諦め、神様に期待しない不信仰。イエス様は、その両方を退けられたのです。私は、信仰者として、牧師として歩む中で、この二つの不信仰に揺れる自分を知らされてきました。祈ることが大切だということは、誰もが耳にタコができるほど聞かされて来たことでしょう。しかし、何をどう祈れば良いのか、それはそれほど簡単なことではありません。
 信仰の道は祈りの道ですから、私共は祈りにおいて一歩ずつ成長していくしかないのです。しかし、祈ってもなかなかそうならない中で、私共は容易く、祈らない者になってしまいます。そしてまた、祈りが叶えられると、まるで祈りを呪術のように、自分の願いを叶えるための道具のように思ってしまう。祈らないことは不信仰ですが、祈りの中でも私共は不信仰になるのです。神様を愛し、信頼し、祈る。自分の中には何もないことをはっきり知って、ただ神様が働いてくださることを信じて、待ち望みつつ、諦めないで祈り続ける。私共の為す祈りとは、そういうものなのでありましょう。
 神様は全能のお方なのですから、何でもお出来になりますし、御心ならば何でもしてくださいます。神様に出来ないことは何一つありません。そのことを信じて、神様を信頼して祈るのです。その祈りの歩みが為される時、私共は神様の驚くべき御業の証人とされていくことでしょうし、証しが立つのです。

4.祈らないという不信仰に対して
 この時、悪い霊を追い出すことが出来なかった弟子たちについての報告を受けると、イエス様はこう告げられました。19節「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」大変厳しいイエス様の言葉ですが、これはおもに弟子たちに向かって告げられたのではないかと思います。悪霊を追い出すことの出来ない弟子たちの中に不信仰を見たのです。そして、「その子をわたしのところに連れて来なさい。」と告げられました。イエス様の所に連れて行かなければ、イエス様が為してくださらなければ、私共には何も出来ないのです。しかし、イエス様の御前にさえ連れて来ることが出来れば、もう大丈夫です。イエス様が働いてくださいます。全能の父なる神様の力をもって悪霊を追い出し、いやしてくださいます。
 イエス様の前にその子が連れて来られると、霊はその子を引きつけさせ、その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹きました。汚れた霊はイエス様を知っていたからでしょう。イエス様は父親に、「このようになったのは、いつごろからか。」とお尋ねになりました。父親は「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。」と答えました。この父親は、いつ我が子がとんでもないことをするかと、気が気でなかったことでしょう。一年、二年ではありません。その日々を思いますと、心が痛みます。多分この父親は、息子の状態が少しでも良くなればと願って、今までいろいろな所に行って治してもらおうとしてきたのだと思います。そして、そのたびに期待は裏切られてきたのです。そういう中で、もうあまり期待しない、そんな心になっていたのかもしれません。期待しなければ、ダメだった時の失望も少ない。事実、イエス様はすごい方だと聞いてやって来たが、そのお弟子たち九人が束になっても、息子から汚れた霊を追い出せなかった。仕方がない。諦めて生きていけば良い。そんな思いをこの父親は持っていたのかもしれません。それが、この父親の次の言葉に表れています。
 この父親はイエス様に最後にこう言ったのです。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエス様は、この父親の心の底にある諦めの思い、そしてそれによって神様に対して期待しなくなっている不信仰を見たのてす。この父親が、祈らない不信仰に陥っているということを見抜かれたのです。そしてイエス様は言われました。23節「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」お前は「出来れば」と言うのか。神様を信じず、私を信じないのか。神様が働いてくださり、何でもなさってくださる。お前はそれを信じないのか。神様の為してくださる御業を信じないのか。そうイエス様は問われたのです。

5.悔い改めを伴う私共の祈り
 それに対しての父親の答えは、こうでした。24節「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」これはとても面白い表現です。信じますと言うのだから、不信仰ではないだろう。そのような理屈を考える人も居るかもしれません。しかし、そのような理屈はここでは意味がありません。この父親は、イエス様から「お前は神様に期待していない、神様を信頼していない」という自らの不信仰を指摘されて、「信じます。」と反射的に答えたのです。そして、自らの内にある、神様を信頼せず、期待もしないという不信仰を赦してください、お助けください、そう言ったのです。これは祈りです。悔い改めの祈りです。実に私共の祈りは、この「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」という悔い改めの祈り抜きにはないということなのではないでしょうか。不信仰な私が祈るのです。神様に大して期待しないような、祈らない罪の中にある私が祈るのです。自分の祈りの力によって何事かが出来ると思い上がっている私が祈るのです。ですから、信仰のない私を助けてくださいという悔い改めの祈り抜きに、私共の祈りは成り立たないのです。
 私共の信仰の歩みは、祈りの歩みです。私共の信仰は、祈りにおいて成長していくのです。祈らない者から祈る者へ。そして、自らの祈りの力によって何事かが出来ると考える傲慢から悔い改める者へ。この祈りの二つの不信仰の振り子の中を、私共は歩んでいるとも言えるでしょう。この歩みの中で、私共はいよいよ自らの不信仰を知らされ、神様の御前に悔い改め、ただ神様にだけ信頼する者へと導かれ続けていくのです。祈ることが分かったつもりでいた弟子たちは、この汚れた霊を追い出せないという出来事に出会い、自分が分かったつもりでいたことが、実は全く分かっていなかったということを知らされ、神様との交わりとしての祈りへともう一歩前に進んだのです。
 祈りというものは頭では分かりません。祈りの生活を積んでいく中で、少しずつ分かるものです。それはちょうど、水泳を畳の上で練習しても、実際に水の中に入って泳いでみなければ、泳げるようにはならないということと似ています。ある人が、「祈りは量です。」と言いました。そのような言葉を聞くと、祈りは質ではないかとという反論がすぐに頭に浮かぶでしょう。もちろん、質は大事です。しかし、毎日10メートルしか泳がなくて、フォームがどうのと言ったところで意味はありませんし、良い泳ぎが身につくことはないでしょう。しかし、毎日1000メートル泳いでいれば、自然と無駄のない泳ぎが身についてくる。祈りとは、そういうものです。
 私共には祈ることが与えられている、このことの恵みを思うのです。この恵みを感謝をもって受け止め、祈りつつ、この一週間もまた、御国に向かって一日一日歩んで参りましょう。主に信頼して祈るなら、主は必ず働いてくださいます。この生ける神様との交わりこそ、私共の信仰なのです。

[2014年11月16日]

メッセージ へもどる。