富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の御子の苦難と栄光」
イザヤ書 53章1~12節
マルコによる福音書 9章2~13節

小堀 康彦牧師

1.隠されている御子の姿
 イエス・キリストというお方が誰であるのか。このことは、誰の目から見ても明らかな、今更論ずるまでもない自明のことではありません。イエス様を我が主・我が神と信じ、告白している人にとっては、イエス様が誰であるかということは、もちろん言うまでもないことでしょう。しかしこのことは、世界中のすべての人にとって当然のことであるわけではないのです。それは、こう言っても良いでしょう。イエス様の本当の姿は、この肉眼には隠されている。イエス様は、誰の目から見ても神の御子であるということが明らかなようなあり方では現れなかったということです。それは、イエス様がお生まれになったクリスマスの出来事の時からそうでした。イエス様は大工であったヨセフを父とし、おとめマリアを母として、旅先のベツレヘムの馬小屋でお生まれになりました。そして、生まれたばかりのイエス様は飼い葉桶に寝かされたのです。この誕生の時の姿に異様なところがあったとすれば、それは神の御子にふさわしい栄光の姿にあったのではなく、飼い葉桶に寝かされるという、驚くべき貧しさ、惨めさの中にありました。私共普通の人間の誕生よりも貧しい、惨めな状況に於ける誕生。そこに神の御子のしるしがあったと聖書は告げます。イエス様が生まれた夜、神の御子の誕生という重大事件を知る者はほとんどおりませんでした。天使たちにそのことを告げられた羊飼いと、ヨセフとマリアぐらいのものでした。しかし、天上においては天の大軍が神を賛美し、「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2章14節)と歌ったのです。天地創造以来の神様の救いの御計画が今、遂に始まった。そのことを知っていたのは父なる神様と、御心を知らされた天使たちだけだったのです。
 そんな面倒なことをしないで、誰にでも分かるようなあり方でぱっぱとイエス様が誰であるかを示し、すべての人がイエス様を信じるようにすれば良いのに。そう思われるかもしれませんが、神様はそうはされなかったのです。どうしてか。その本当の理由は、神様の御心の中にあることですから分かりません。しかし、それが神様が与えようとされている救いの内容と深く結びついていることは想像できます。
 神様はアブラハムを選び、これと契約を結び、神の民を造られました。その神の民の歴史は旧約聖書に記されておりますけれど、残念ながらその神の民の歴史は、神様に対する裏切りの連続でした。神様はモーセを通して律法を与え、その御心を示されました。しかし、神の民はその律法に従うことをせず、何度も何度も神様から離れます。一度や二度ではありません。数え上げたらきりがないほどです。ところが、神様はそのたびに出来事を起こし、預言者を遣わして、御自分のもとに神の民を連れ戻されたのです。神様は神の民との関係を絶とうとはされなかったのです。そして遂に、神様は愛する独り子イエス様を遣わすという、最終的な救いの御業を為されました。それは誰も考えたことのない、思ってもみない、全く驚くべき奇想天外な御業でありました。父なる神様と等しい神の御子、天地を造られる前から父なる神様と共にあり、父なる神様と共に天と地のすべてを造られた神の独り子を人間として遣わし、その神の御子にすべての人間の一切の罪を担わせて、十字架の上で殺し、神の裁きを受けさせるというものでした。それにより、罪によって歪み、崩れ、隔てられていた神様との関係を回復させ、罪を犯す前のアダムとエバと神様の関係に戻すというのです。この神様の救いの御計画は、私共の思いを遙かに超えたものでした。それ故、人間の目には隠されているようにしか見えなかったのです。

2.神様の救いの計画
 もちろん神様は、突然そのことを思い立って実行されたというわけではありません。神様は永遠の御計画の中でそのことを定めておられました。ですから、預言者にもそのことを告げさせておられたのです。しかし、このことはあまりに人間の想像を超えておりましたから、預言を与えられても人々はそれをきちんと受け止めることは出来ませんでした。その代表的なものがイザヤ書の53章です。1~6節「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」ここには、ある人がわたしたちのために身代わりとして苦しみを受け、そのことによってわたしたちに平和が与えられることが告げられています。しかも、その人が苦しんでいる時、その苦しみがわたしたちのためだとは誰も思わない。そう預言されているのです。全く謎のような預言です。誰のことを預言しているのか、何を預言しているのか、さっぱり分かりません。これは主イエス・キリストの苦難、イエス様の十字架を預言しているものでした。しかし、そのことが弟子たちに本当に分かるのは、イエス様が十字架の上で死なれ、三日目に復活された後のことでした。まして、律法学者やファリサイ人たちには全く分からないことでした。
 さて、イエス様の時代、多くの人々が救い主メシアの到来を待ち望んでおりました。メシアの到来は旧約において預言されていたからです。ユダヤの人々は、メシアが来られることによってローマ帝国の支配から自由になることが出来ると信じていましたし、そのことが彼らの考える、神様が与えてくださる救いというものでありました。目に見える何かを手に入れる。当面している具体的な苦しみから解放される。人間が思い描く救いとはそういうものなのでしょう。しかし、神様が与えてくださる救いは、そんな小さなものではないのです。神様に対して「父よ」と呼び、神様から「子よ」と呼んでいただける親しい交わりです。神様との永遠の交わりです。それを与えるため、イエス様は来られたのです。しかし、それを受け止めることは弟子たちにはなかなか出来ませんでした。それほどまでに弟子たちは、目に見える現実に縛られているということなのでしょう。それは弟子たちばかりではありません。私共もそうです。目に見えることがすべてであるかのように思って生きているのではないでしょうか。しかし、イエス様が私共に与えてくださる救いとは、時と共に色あせ、朽ちていくようなものではないのです。

3.ペトロのキリスト告白からの流れ
 今朝与えられております御言葉は、8章27節以下の、ペトロがイエス様をメシア、キリストと告白した所から続いています。ペトロがイエス様をメシアと告白し、それを受けてイエス様は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(8章31節)と弟子たちに教え始められたのです。イエス様は、御自身がこれから十字架に架けられて殺されること、そして三日目に復活されることを告げたわけですが、それは当然、メシアは十字架の上で死に、三日目に復活するということであったわけです。メシアが苦しみを受け、排斥され、殺される。そんなことは全く考えることが出来ない弟子たちでありました。それは弟子たちだけではありません。長老、律法学者といった人たちもそうでした。メシアは全能の神様の力を身に帯びて、その力をもって神様に敵対する人々を滅ぼし、ユダヤの民をダビデの時代のように再び興してくれる。それが、ユダヤの人々が期待するメシアでありました。それは民族的、政治的、軍事的メシアと言っても良いかもしれません。それはイエス様の十字架とは正反対にあるメシアの姿でした。
 この違いは、人間が考え求める救いと、神様が考え与えられる救いとの違いから来ていると思います。神様が与えようとされているのは罪の赦しであり、復活の命であり、神様との永遠の親しい交わりです。しかし、人々が求めていたのは目の前の、民族的、政治的、肉体的苦しみからの解放でした。この救いの内容が違えば、それを与えるメシアの姿も違ってきます。そして、そのメシアに従う弟子たちの歩みもまた、違ったものになるでしょう。イエス様は、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(8章34節)と告げられましたが、この世の栄光を身に帯びたメシアをイメージしていた者にとっては、何のことなのか良く分からないことでした。
 そして、山上の変貌です。イエス様の姿がペトロ・ヤコブ・ヨハネの目の前で変わり、その服を真っ白に輝かせて、モーセとエリヤと語り合ったのです。この出来事は、イエス様の復活によって明らかにされる本当の姿、神の御子の姿を、弟子たちの前に露わにされた出来事でありました。このことについては先週見ましたので繰り返しませんが、これは本当に驚くべき出来事でした。後にペトロはこの出来事を思い起こして、「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」(ペトロの手紙二1章16~18節)と記しております。

4.誰にも話してはいけない
 今日は、この山上の変貌の後のことに注目したいのです。イエス様は山から下りる時、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにもはなしてはいけない。」(9章9節)と弟子たちに命じられました。イエス様の本当の姿を弟子たちに現わされた山上の変貌の出来事でありました。復活において明らかになる栄光の姿を弟子たちに示されたイエス様でありました。ところが、そのことは誰にも話してはいけないと言われるのです。どうしてでしょう。
 ここで、イエス様が「人の子が復活するまでは」と言われていることに注意しなければなりません。人の子が復活した後なら話して良いのです。いや、大いに話さなければなりません。しかし、今はまだダメだと言われるのです。何故か。これは今までお話ししてきたメシア理解と関係しています。つまり、この山上の変貌の出来事は、イエス様が天の栄光を持つ方であることを示しているわけですが、それは十字架抜きには理解出来ないし、十字架抜きに語られてはならないものだということなのです。もし、この山上の変貌の出来事が十字架抜きで語られるならば、それは容易に、イエス様を人々のメシア理解通りのメシア、民族的・政治的・軍事的なメシア、人々に癒やしを与え続けるメシアとして受け取らせることになるからです。しかし、それはイエス様の本当の姿ではないし、神様が与えようとされている救いでもありません。ですから、イエス様は「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにもはなしてはいけない。」と告げられたです。
 弟子たちは、この時、イエス様が告げた「死者の中から復活するまでは」ということが分かりませんでした。それで、このことについて論じ合いました。ここで弟子たちが「死者の中から復活する」ということが分からなかった点は、二つあると思います。一つは、文字通り「復活する」とはどういうことか分からなかったということでしょう。人間にとって死は絶対です。これを覆すことは出来ないということは、誰もが知っています。死んだ者が復活するとはどういうことなのか。言っていることが分からない。そういうことだったと思います。第二に、十字架の上で殺されることと復活することが、どうしてメシアにおいて起きるのか分からなかったということだったと思います。そもそも、どうしてメシアが十字架の上で殺されなければならないのかが分からないのですから、その後の復活とどういう関係になるのか分からないのは当たり前のことでした。

5.預言の成就
 そして弟子たちは、次に「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか。」とイエス様に尋ねました。これは当時、律法学者たちが、「メシアが来る前にはエリヤが来ると預言されている。しかし、エリヤはまだ来ていないではないか。だからイエスはメシアではない。」と言っていたことを指しています。この律法学者たちの根拠は、旧約聖書の最後にありますマラキ書3章23節の、「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」という預言です。エリヤは力の預言者です。そんな力ある預言者がまだ来ていないのに、どうしてメシアが来るか、というのです。それに対して、イエス様は「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。…しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」とお答えになりました。エリヤはもう来たのだ、というのです。イエス様がもう既に来たというエリヤは、名指しされているわけではありませんが、洗礼者ヨハネを指していると考えて良いでしょう。そのヨハネはヘロデによって殺されてしまいました。それが、「人々は好きなようにあしらったのである」と言われていることです。イエス様は、エリヤはもう来た、だからわたしがメシアなのだ、と暗に言われているのです。
 そして、イエス様は、「人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。」と問われました。ここでイエス様が「聖書に書いてある」と言われているのは、イザヤ書53章に記されていることを指していると考えて良いでしょう。イエス様は「律法学者たちはマラキ書を用いて、エリヤが来ていないのだから、わたしをメシアではないと言っている。けれども、だったらイザヤ書53章に記されていることをどう理解するのだ。メシアは律法学者たちが考えているような姿ではなく、十字架に架かり、復活するというあり方において、人間の一切の罪を赦し、神様との交わりを回復し、永遠の命を与える者として来たのだ。メシアは律法学者たちが考えているような、民族的・政治的・軍事的メシアなどではない。神様が与えようとされている救いはそんなものではないからだ。」そう告げられたのです。十字架と復活、苦難と栄光はひとつながりの神様の救いの業であり、それを為すために来られたのが、まことの救い主であられるイエス・キリストなのです。

6.罪人のために来られた主イエス
 どうして、弟子たちも律法学者たちも、十字架のメシアを受け止めることが出来なかったのでしょうか。
 私は、律法学者たちも弟子たちも、自分たちが本当に神様に赦していただかなければならない罪人だとは思っていなかったからではないかと思っています。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分たちは誰よりも良く律法を守っており、自分たちは正しい者であり、それ故、自分たちは救われるに違いないと信じておりました。そのような彼らにとって、メシアとは、律法を守らない人々を全能の力で裁き、懲らしめ、滅ぼし、自分たちをそんな人々の手から救い出してくれる方としてしか、考えることが出来なかったのでありましょう。弟子たちにしても、ユダヤ人としての基本的な考え方と大差はなかったと思います。しかし、神様が与えようとされている救いはそうではなかったのです。自分を正しい者とし、目に見えるものしか信じない。天地を造られた神様を信じると言いつつ、その神様の愛、その憐れみが分からない。自分を高い所に置き、他人を見下し、偉そうにしていても、自分の罪が分からない。自分がそういう者であり、そういう者のために一切の罪の赦しを与えようとされる神様の愛が分からない。だから、十字架が分からないし、十字架の後の復活によって永遠の命への道が開かれるのも分からない。そういうことだったのでしょう。この後、弟子たちはイエス様を裏切り、イエス様が十字架にお架かりになる時には、イエス様を捨てて全員が逃げてしまいます。この決定的なイエス様への背信こそが、復活のイエス様と出会った時に、逆にイエス様の十字架の意味を深く悟らせることになったのです。
 私共はまことに愚かであり、罪を犯し続ける者です。しかし、そのことを知るが故に、私共はイエス様の十字架の前に額ずくことが出来るのであり、そのような私共のためにイエス様を与えてくださった神様の愛にただただ感謝するのですし、イエス様の復活にも与る希望に生きることが出来るのでありましょう。主イエスの十字架は私のためであり、十字架抜きの復活はなく、復活へと至らぬ十字架もありません。愛する独り子イエス様を私共のために十字架にお架けになってまで、私共の罪を赦し、私共との愛の交わりを回復されようとした神様です。その神様の御手の中に生かされているのでありますから、私共は安心して良いのです。困ったこと、大変なことが次々に起きたとしても、神様の愛の御手は私共をとらえて放しません。そして、その救いの御手は、私共を復活された主イエス・キリストに似た者へと造り変えるように導いてくださるのです。その御手は、誰の目にも明らかなように働くわけではありません。しかし、信仰のまなざしをもって見る時、私共は本当に守られているということを知らされるのでありましょう。そしてこのまなざしこそ、イエス・キリストが誰であるのかということを明らかにされた者に与えられるまなざしなのです。このまなざしをもって主の守りと支えと導きを見い出しつつ、この一週間も御国に向かっての歩みを共に為して参りましょう。

[2014年11月9日]

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