富山鹿島町教会

礼拝説教

「山上の変貌」
詩編 2編1~12節
マルコによる福音書 9章2~8節

小堀 康彦牧師

1.私共の希望=御国の希望
 先週私共は召天者記念礼拝を守りました。そこで私共は、私共の希望はやがて与えられる新しい天と新しい地、天から下って来るエルサレムにある、神の国の完成にあることを心に刻みました。私共のまことの希望はこの地上にあるのではありません。天の父なる神様の御許に備えられている永遠の住まいにあります。そこに向かって、そこを目指して、私共はこの地上の生涯を歩んでいる。その永遠の御国の祝福と栄光を思いますならば、この地上の歩みにおける痛みも苦しみも悲しみも嘆きも、乗り越えていくことが出来ます。この神の国の完成、永遠の命、天の住まいといったものは、この目で見たり、手で触れたりすることは出来ません。しかし、信仰のまなざしをもって、私共はそれをしっかり見据えることが出来ます。それはちょうど、私共が今、天におられる父なる神様とその右におられる御子イエス・キリストを、信仰のまなざしをもって仰ぎ見るのと同じです。
 もし、私共が今、天においてすべてを支配しておられる父なる神様と御子イエス・キリストを仰ぎ見ることが出来なければ、この礼拝は成立しませんし、私共に希望もありませんし、信仰は意味のないものになってしまうでしょう。しかし、私共の信仰のまなざしは確かに、天の玉座に座しておられる全能の父なる神様を仰ぎ見、その右におられる御子イエス・キリストを仰ぎ見ています。私共は今、その方の御前にひれ伏し、声の限りに賛美し、祈りを捧げているのでしょう。この主の日のたびごとに捧げられる礼拝において、私共は信仰のまなざしを与えられ、まことの希望を与えられ、御国に向かっての歩みを確かなものにしていただいているのです。
 私共に与えられております希望は、祈ったら病気が治ったとか、事業が成功したとか、そういう所にあるのではありません。もちろん、そのような具体的な恵みが与えられることもあるでしょう。しかし、私共に与えられているまことの希望、朽ちることなくしぼむこともない希望は、天の御国にあるのです。そして、その御国が確かにあることを、今朝与えられております御言葉は私共にはっきり示しております。

2.主イエスの変貌
 今朝与えられております御言葉は、昔から「山上の変貌」と呼ばれてきました。イエス様がペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人を連れて高い山に登られると、そこでイエス様の姿が変わったという出来事が記されています。その様子を聖書はこう記しています。2~3節「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」イエス様の姿が変わったのです。着ていた服が真っ白に輝いたのです。しかもその白さは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどであったというのです。この「服が真っ白に輝いた」という表現は、イエス様が復活された時に、空になった墓の中に天使がおりましてイエス様の復活の知らせを告げましたが、その時の天使を意味する表現として「白い長い衣を着た若者」という言い方がされています。この「白い衣を着た者」というのは、天的存在、天にその場所を持つ者に対して使われる聖書の表現なのです。つまり、イエス様の服がこの世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど真っ白に輝いたという表現は、イエス様が誰であるのか、本当は何者であるのかということを示しているのです。イエス様が天の御国に場所を持つ方であり、まことの神の御子であられるということを示しているのです。もっと言えば、やがてイエス様は十字架の上で死んで三日目に復活されるわけですが、その復活において明らかにされる栄光の御姿、天に昇られる神の御子のお姿を、ここで弟子たちに示されたということなのでありましょう。
 それは、この山上の変貌の出来事がどのような文脈の中で記されているかを見れば分かります。少し前から振り返ってみましょう。8章27節以下において、ペトロがイエス様に対して「あなたは、メシアです。」と初めて告白いたしました。その告白に応えるように、イエス様は、これから御自身の上に起きる十字架の苦難とそれに続く復活の出来事を予告なさいました。ところが、その言葉を聞いたペトロは、イエス様をいさめます。メシア、キリストであられるイエス様が御苦難を受けるということを、全く受け入れることが出来なかったからです。そのペトロに対して、イエス様は「サタン、引き下がれ。」と一喝されたのです。わたしの十字架への道を阻もうとするのは、サタンの業だ。ペトロ、わたしの後ろに回れ。前に立つな。そう言われたのです。そして、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と告げられたのです。イエス様に従うということは、自分の十字架を背負うあり方で従うしかない。自分の栄光を求めては、イエス様に従うことは出来ないのです。しかし、イエス様は十字架の苦難だけを予告されたのではありません。その後の復活もまた予告されました。でも、十字架を受け入れることが出来ない弟子たちには、その後の復活など、思いもよらぬことでした。そのような弟子たちのために、イエス様はここで御自身の本当の姿を示され、さらに十字架の後の復活の栄光をも示されたということなのです。

3.開かれた天の御国の窓
 しかし、この山上の変貌の出来事は、ただイエス様が誰であるかということを示したり、あるいは、後の復活の出来事を先取りするというだけではありません。それと共に、天の御国の窓が開かれ、弟子たちにその有様を垣間見せるという出来事でもあったのです。ここには天の御国の確かさが示されているのです。それは、4節「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」とあることから分かります。この山上の変貌の出来事は、イエス様のお姿が変わったというだけではないのです。それだけではなくて、その姿を変えられたイエス様がエリヤとモーセと語り合っていたと告げているのです。これは一体どういうことなのでしょう。
 モーセがいつ頃の人なのか諸説ありますけれど、イエス様よりも1200年以上前の人であることは確かでしょう。そして、エリヤはイエス様よりも800年程前の人です。この地上での生涯を800年も前に閉じた人、1200年も前に閉じた人が、イエス様と語り合っているのです。このことは、この地上での生涯が終わればすべては終わりと考える者に対しての、決定的な否が告げられているのです。この地上の生涯が終われば全て終わりということであるならば、モーセとエリヤがイエス様と語り合ったということは、どういうことになるのでしょう。
 私はこの場面を思います時、一つの素朴な問いが生まれてきます。それは、イエス様と語り合っている二人がエリヤとモーセだと、どうしてペトロたちに分かったのかという問いです。子供じみた疑問かもしれません。しかし、これは重大な問いでもあると思います。写真があるわけでもないし、まさか名札を付けていたわけでもないでしょう。一つ考えられますことは、イエス様がエリヤ、モーセと二人を呼んだということです。それを聞いたのでペトロたちは二人がエリヤとモーセであることが分かった。そうなのかもしれません。しかし、私はこう考えるのです。神の御国においては、この人が誰であるかということが分かる、そういうことなのではないか。この地上においては、私共は相手が名乗ってくれなければ、この人が誰であるのかは分かりません。しかし、神の国ではそうではない。互いに誰であるかが分かる、そういう世界なのだと思うのです。
 例えば、私共はイエス様の顔も姿も知りません。画家たちがいろいろなイエス様の姿を描いておりますけれど、金髪で青い目で背の高いイエス様などでは決してありません。イエス様はユダヤ人だったのですから、そんなことは決してないのです。しかし、神の御国において、私共がイエス様を分からない、そんなことはあり得ないでしょう。私共はイエス様ととこしえに共にあるようにと、御国へと迎えられるのです。その御国に行って、イエス様が分からないはずがないのです。私共はすぐに分かるはずです。そして、イエス様を崇め、御前にひれ伏すことでしょう。それと同じように、私共はきっとエリヤとモーセも分かるのだと思います。エリヤとモーセが分かるのならば、ダビデもエレミヤも分かるでしょう。アブラハムもイサクもヤコブも分かるでしょう。そうであるならば、アウグスティヌスもルターもカルヴァンも分かるはずです。そして、私共は親しく交わるのです。天の御国においてやがて相見える人々との、喜びに満ちた出会いと交わりを想像することはとても楽しいことです。そして、そのような想像は許されるだろうと思います。先に召された愛する者たちとの交わり、更に言えば、まだ見ることのない、私共の後に続く信仰の子孫たちとも相見えることになる。実に楽しい想像です。

4.律法・預言の成就としての主イエスの十字架
 さて、この時イエス様はエリヤとモーセと何を語らっていたのでしょうか。ルカによる福音書には、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(9章31節)と告げています。ここにイエス様が話していたのが、どうしてエリヤとモーセだったのかということの理由があります。
 モーセ。これは改めて言うまでもなく、十戒に代表される律法を与えられた人です。この場合の律法とは旧約の初めの五つの書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指しています。この五つの書はモーセが記したと言われ、律法・トーラーと総称されていました。
 そしてエリヤです。実は、イエス様の時代の旧約聖書の順番は、現在の私共が持っている旧約聖書の順番と少し違うのです。モーセ五書(律法)の後に、私共が歴史書と呼んでおりますヨシュア記からエステル記があるのは同じですが、その次にヨブ記・箴言・コヘレトの言葉・雅歌という文学が来るのではなくて、イザヤ書から始まる預言書が配置されておりました。そして、私共が現在歴史書として考えております部分を「前の預言書」、イザヤ書以降の預言書を「後ろの預言書」と呼んでいたのです。エリヤは前の預言書の中にある列王記上・下に出てくる、力の預言者です。イエス様がなさった数々の奇跡の多くは、エリヤが行った奇跡であり、エリヤはその業においてイエス様を指し示した預言者だったのです。つまり、エリヤはここで預言者を代表しているのです。
 エリヤとモーセがイエス様とエルサレムにおける最期、つまり十字架について話をしていたということは、イエス様の十字架が、律法と預言に示された神様の御心の成就であるということを示しているのです。旧約の律法と預言の成就としてのイエス様の十字架であり、旧約以来の神様の救いの御業の完成としてのイエス様の十字架なのです。

5.仮小屋を三つ
 この栄光に満ちた聖なる光景を見たペトロは、イエス様に言います。5~6節「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」ペトロは、聖なる恐れに打たれたのでしょう。私などは、こんな場面に出くわしたら、ただただ口を開けてポカンとしてしまうと思いますけれど、ペトロは黙ることなく、何を言えばよいのか分からないけれども口走った。面白いですね。それが、「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ということでした。仮小屋というのは、この聖なる出来事を記念した礼拝所ということだと思います。ペトロはこれを建てて、ここで礼拝するようにしましょう、そう言ったのです。ペトロの気持ちは分かる気が致します。古いお寺に行きますと、このお寺がどうして建ったのかということが記してある案内板のようなものが必ずあります。空海が生まれたとか、悟りを開いたとか、役の行者がこれこれをしたとか、書いてあります。それと同じように、ここでイエス様がモーセとエリヤと語り合った、それを記念して仮小屋を三つ建てるということです。
 しかし、イエス様はそのペトロの申し出をお受けになりませんでした。そして、一行は仮小屋を建てることなく、山を下りたのです。この出来事は確かにすばらしい聖なる体験でした。しかし、イエス様は十字架にお架かりにならなければなりませんし、その後復活されてその御姿を弟子たちに現されることによって、この山上の変貌の出来事よりもっとはっきりしたあり方で、永遠の命、神の国の栄光を現されるからでありました。これは、終着点を先取りして見せていただいただけのものでした。例えるならば、これは映画の予告編のようなもので、本編ではなかったからでありましょう。本編は、十字架の復活であり、昇天であり、再び来られる再臨の時なのです。
 私共は驚くような恵みの体験をするかもしれません。あるいは、信じられないような聖なる体験をするかもしれません。それは本当にすばらしい、神様が与えてくださった恵みであるには違いありませんけれど、それはあくまで予告編に過ぎないことを知っておかなければなりません。大切なことは、その予告編を見せていただいたことによって、本編への期待がいよいよ強く、いよいよはっきりさせられるということなのです。

6.これはわたしの愛する子、これに聞け
 ペトロが仮小屋を三つ建てましょうと言った後、雲が現れて彼らを覆いました。高い山のことですから、にわかに雲が湧くというのはよくあることです。しかし、ここで言われているのはそのような山の気候の変化としての自然現象ではありません。この雲は、自然現象としての雲ではないのです。そうではなくて、この雲は神様の現臨を示すものです。モーセがシナイ山で十戒をいただいた時に山を覆った雲であり、神様が会見の幕屋でモーセに言葉を与えた時に現れた雲であり、イスラエルの民をエジプトから導き出した時の雲の柱の、あの雲です。
 この時神様がペトロたちに臨み、こう告げられました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」「これ」というのは、言うまでもなくイエス様を指しています。神様は、イエス様が御自身の独り子であること、そしてイエス様に聞くことこそ御自身の思いに適うことであるということを、ペトロたちに示されたのです。そして、ペトロたちがこの言葉を神様から受けて辺りを見回すと、そこにはもうモーセもエリヤも居りませんでした。そして、ただイエス様だけが居られた。そして、そのイエス様の姿はもう真っ白に輝いてはおりませんでした。神様に「わたしの愛する子」と告げられ、「これに聞け」と告げられたイエス様は、十字架にお架かりになるお方なのです。いつもは、衣が白く輝いてなどおりません。どこから見ても人間です。しかも、人に捨てられ、苦しみを受け、十字架の上で死なれるお方なのです。しかし、この方こそ、天地を造られた父なる神様が愛する、ただ独りの御子なのです。そして、この方に聞く、もっとはっきり言えば、この方に聞き従う、このことこそ神様の御心に適うことなのであり、この方に聞き従う道こそ、私共を全き救いへと導く唯一の道なのです。それは天の御国へと至る道です。永遠の命、復活の命へと至る道です。私共の前にはこの一筋の道が開かれているのです。

 私共は今から聖餐に与ります。この聖餐に与る時、私共のまなざしは天におられる父なる神様とその右におられる主イエス・キリストにはっきりと向けられます。そして、やがて天において共に与る食卓を思います。その食卓には、おびただしい数の代々の聖徒たちが共に与るのです。今私共が与るこの聖餐は、私共の希望、私共の目当てがどこにあるかをはっきりと示します。この聖餐に共に与った者として、この一週間も主の御国を目指して、各々遣わされている場において、イエス様の御言葉に従い、自分の為すべき務めに励みましょう。互いに愛し合い、互いに支え合い、神と人とを愛し、神と人とに仕える者として歩んで参りたいと思います。

[2014年11月2日]

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