富山鹿島町教会

召天者記念礼拝説教

「サタンよ、引き下がれ」
イザヤ書 65章17~20節
ヨハネの黙示録 21章1~4節

小堀 康彦牧師

1.召天者記念礼拝について
 今朝、私共は先に天の父なる神様の御許に召された、愛する一人一人を覚えて礼拝をささげております。お手許に当教会の召天者名簿があると思いますが、昨年の召天者記念礼拝以降、四名の方が父なる神様の御許に召され、この名簿に加えられました。Y.M.さん、S.K.さん、M.M.さん、T.T.さんです。今朝、ここに御遺族の方々もおいでになっておられます。
 この召天者記念礼拝は、元々11月1日に行われていた、天に召された聖人たちを覚える日に起源があります。古くは万聖節と言われておりました。諸聖人の日とも呼ばれます。これがいつ頃から始まったのかについては諸説がありますが、今から千年あるいは千五百年以上前にさかのぼるようです。元々は、カトリック教会において聖人と呼ばれる人々を覚える日でしたが、私共の教会は聖人というのはすべてのキリスト者であると理解しておりますので、この日が先に天に召されたすべての人を覚える日となりました。多くの教会では11月の第一の主の日の礼拝が召天者記念礼拝として守られていますが、私共の教会は一週早く、10月の最後の主の日にこれを守るようにしております。
 最近、日本で急に流行り始めたハロウィンも、この諸聖人の日がAll Saints Day あるいは All Hallows と呼ばれておりまして、ハローズの前日、ハローズ・イヴがなまって、ハロウィンになりました。ですから、10月31日なのです。しかし、これはキリスト教会の祭りではありません。また、世界中で行われているわけでもありません。元々ケルト民族の精霊の祭りで、それがアメリカで定着して広まったものです。ですから、最近のものです。少し横道に逸れますが、11月1日の前日、10月31日は、私共の教会にとりましてはハロウィンで浮かれる日ではなくて、ルターが宗教改革をした宗教改革記念日です。どうも日本では、これは全くと言って良いほど認知されていないようです。以前、キリスト教の学校に招かれまして宗教改革記念日礼拝の説教を致しました時、「今日は何の日でしょう。」と問いましたら、生徒たちが一斉に「ハロウィン」と答えました。ハロウィンと宗教改革記念日が同じ日であるのは偶然ではなくて、ルターは、誰の目にも触れるようにと、いつもはあまり教会に来ない人も必ず教会にやって来るこの諸聖人の日の前日に、「95ヶ条の提題」をヴィッテンベルク城の教会の扉に貼り出したのです。それで、10月31日が宗教改革記念日となったのです。ですから、ハロウィンも宗教改革記念日も同じ日なのです。

2.第二イザヤの預言
 さて、今朝与えられております御言葉におきまして、旧約の預言者イザヤは、神様からこのような御言葉を与えられ、神の民に告げました。17節「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。」この預言は、紀元前6世紀頃に与えられたものです。この預言を告げた第二イザヤの目の前にあったのは、バビロン捕囚によって祖国を失い、神殿を失い、神の民である誇りと喜びを失っている民でした。バビロンという巨大なこの世の力、強力な軍隊の前に圧倒され、滅ぼされたユダの人々です。祖国から一千キロも離れた異国の地バビロンに連れてこられ、「神の民であることを忘れよう。この地で適応して生きていくしかない。自分たちは神様に見捨てられた。いや、そもそも神などいるのか。」そのような失意の中で、生きる希望も生きる力も、神の民としての誇りも喜びも失いかけていた民でありました。そのような人々に向かって、神様はこう告げている、これを聞け、そう言ってイザヤは告げたのです。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。」と神様は言われている。圧倒的な力でこの世界を支配しているかに見えるバビロン。だが、これはいつまでも続くものではない。人々が考えたこともないような、全く新しい世界が神様によって創造されるのだ。
 18~19節「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。」神の民が知っているのは、バビロンに攻められて陥落し、既に廃墟となったエルサレムです。しかし、そのエルサレムが再建されるというのです。そして、その神の都エルサレムにおいては、悲しみに泣く声、苦しみに叫ぶ声は無く、喜びと楽しみの声が響くというのです。久しく喜びと楽しみの声をあげたことも聞いたこともない神の民でした。しかし、神様は再建されたエルサレムを喜び、エルサレムに住む人々もまた神様との交わりに喜び躍る。
 この第二イザヤによって告げられた預言は、ユダの民がバビロン捕囚から解放され、新しいエルサレムを再建し、神の民として再出発することになるという、希望の預言でありました。この預言は、紀元前587年にエルサレムがバビロンによって陥落し、ユダのおもだった人々がバビロンに連れていかれてから50年後、紀元前538年にバビロンがペルシャによって滅ぼされて、ユダの人々が祖国に帰還し、エルサレムを再建したことによって実現されたように見えました。確かに、エルサレムがそしてエルサレム神殿が再建された時の喜びは大変なものでした。ユダの民は、この時から神の民としての再出発をしたのです。
 しかし、この第二イザヤの預言は、もっと先のこと、神様による全く新しい天と地の創造、完全な喜びと楽しみ、神様との完全な交わり、神の国の到来と完成、そこまでの射程を持っているものだったのです。それは、その後の神の民の歴史を見ればすぐに分かります。バビロン捕囚からの解放は確かに為されました。しかし、新しく再建されたエルサレムから、泣く声や叫ぶ声は一掃されたでしょうか。エルサレムに住む人々の人生は、喜びと楽しみに満たされたでしょうか。残念ながら、エルサレムを再建した時の喜びは長くは続かなかったのです。バビロンを滅ぼしユダの民を解放したペルシャ帝国は、アレキサンダー大王によって倒されました。アレキサンダー大王によってマケドニア王国は大帝国となりましたが、その大帝国はアレキサンダー大王の死後、四つに分かれ、その一つであるセレウコス朝シリアによってエルサレムは支配されます。そして、さらにその後、ローマ帝国によってエルサレムは支配されていき、イエス様の誕生される時代へと続いていきます。エルサレムは、バビロン捕囚から解放されて再建されてからも、次々と起こる大帝国の支配の中で歩み続けなければならなかったのです。そのような歴史の中で、エルサレムに住む人々の口から泣く声と叫ぶ声が除かれることはなかったのです。
 では、このイザヤの預言は空しいものだったのでしょうか。イザヤはこうも告げています。40章6~8節「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」人は草のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、神の言葉はとこしえに立つ。歴史は動き、バビロンも滅び、ペルシャもマケドニアもローマも滅ぶ。しかし、神の言葉はとこしえに立つ。この「とこしえに立つ神の言葉」に神の民は依り頼むのだ。そうイザヤは告げました。この神の言葉が告げているのです。神様による新しい天と新しい地の創造を告げているのです。エルサレムがとこしえに喜び躍ることを告げているのです。そして、泣く声、叫ぶ声がエルサレムから一掃されることを告げているのです。

3.主イエス・キリストによる救いの完成
 まことの神であり、神の独り子であられる主イエス・キリストが来られました。そして、この方によって、神様の救いの御業が為されました。私共の罪人の一切の罪の裁きが、この方の十字架によって完全に為されました。そのことにより、私共と神様との親しい交わりが回復されたのです。私共は神様に向かって「父よ」と呼ぶことを許され、神様もまた、私共に向かって「我が子よ」と呼んでくださいます。新しい神の国が来たのです。しかし、それでも私共の目から涙が完全になくなったわけではありません。私共の唇から完全に嘆きの声が発せられなくなったわけではありません。私共は神の国の住人とされ、神様の御支配の中で生き始めておりますけれど、この神の国は未だ完成されたわけではないのです。しかし、この神の国はやがて完成されます。その時には、私共の目からすべての涙はぬぐわれ、悲しみも嘆きも労苦もそして死も、なくなることになっているのです。
 今見てきました第二イザヤが告げた預言、神様による新しい天と新しい地の創造の預言、新しいエルサレムの預言は、ヨハネの黙示録に引き継がれました。イエス・キリストが十字架にお架かりになり、復活され、そして天に昇られた。この天に昇られたイエス様が再び来られる。その時、神の国は完成されます。その神の国の完成をヨハネはこう告げたのです。ヨハネの黙示録21章1~2節「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。」これは明らかに、第二イザヤが告げた預言が引き継がれたものです。そして又、これは来たるべき神の国の完成、救いの完成を指し示しています。つまり、第二イザヤの預言は、バビロン捕囚からの解放とエルサレムの再建ということだけを預言していたのではなくて、それを超えて、来たるべき終末において実現される救いの完成、神の国の完成を指し示していたのです。
 新しい天と新しい地。それは、私共が今見ている天と地と海が取り去られ、創世記の1章に記されている、神様が天地を創造された時と同じように、全く新しい天と地が創造されるということなのです。それは、私共が見たり経験した一切のものが通用しない、ただ神様の御心だけが支配される世界です。一切の罪がぬぐわれた全く新しい人間、復活された主イエス・キリストに似た者とされた人間、アダムとエバの罪を引きずっていない人間、死は滅ぼされて永遠の命・復活の命を与えられた者が生きる世界です。
 それは、人間の手によって造られる理想の世界ではありません。第二イザヤが告げたエルサレムは、バビロン捕囚から解放されて人々の手によって再建されるエルサレムだけを指していたのではなかったのです。そうではなくて、主イエスの十字架と復活の後にヨハネに与えられた幻が告げる、天から下って来る新しいエルサレム、聖なる都を指し示していたのです。天から下って来るエルサレムとは、神様のもとに既に備えられているエルサレムです。その既に天に備えられている、神様の手による新しいエルサレム、それが下って来るのです。

4.新しい天と地の祝福
 そして、その新しい天と地、新しいエルサレムにおいて、神様と神の民とは、まさに顔と顔とを合わせるような、近しい交わりに生きるようになるのです。3節「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、』」とあります。私共は今、既に神様との親しい交わりの中に生かされておりますが、まだどこかぼんやりしたところがあります。既に完全な神様との交わりの中にあるとは言い切れないでしょう。自分は、いつでもどこでも神様との交わりの中にあるとは言い切れないところがある。だから、罪を犯してしまうわけであります。しかし、新しい天と地が現れる時、新しいエルサレムが天から下る時、私共は完全な神様との交わりの中に生きるようになるのです。主イエス・キリストと父なる神様がいつでもどんな時でも一つであられたように、父なる神様と完全な交わりの中にあったように、私共にもそのような交わりが与えられるのです。そして、イエス様が神様の御心を御自身の心とされたように、完全に神様の御心に従われたように、私共もまた、神様の御心を自分の心として生きる者となるのです。
 そして、そのような神様との交わりの中に生きるようにされた時、私共は神様の中にある全き平安、全き喜び、全き祝福、全き愛、そして永遠の命を受け取ることになります。ですから、4節「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」と告げられているのです。これは終末における祝福です。神の国の完成において与えられる祝福です。私共は、この地上においては、それを完全に受け取ることは出来ません。しかし、その手応えと申しますか、やがて与えられるところの諸々の祝福のしるしは既に受け取り始めております。主が共にいてくださるが故に、様々な困難の中にあっても希望を、生きる力を失うことなく生かされておりますし、自分のことだけではなくて、他の人々に心を砕き、その人のために祈ることが出来るようにしていただいております。この手応えの中、先に召された私共の愛する者たちはこの地上の生涯を歩み通したのです。やがて自分が召される天上のエルサレム、やがてそこで生きることとなる新しい天と新しい地を目指して、歩み通されたのです。
 私はこう信じております。主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストの救いの御業に与ってこの地上の生涯を歩んだ者は、地上の生涯が閉じられてもその命は少しも損なわれることなく、既に備えられている天上のエルサレムに迎えられるということを。そこに於いては、目から涙はことごとくぬぐい取られ、死も悲しみも労苦もないのです。全き救い、全き祝福、全き喜びが、私共を包むことになるのです。私共は、神様との完全な交わりの中に生きる者とされるのです。それが、イザヤを通して、ヨハネを通して、私共に与えられた神様の約束です。神様の言葉です。この神の言葉はとこしえに立つのです。必ず出来事となり、その真実が明らかにされることになるのです。私共はそのことを信じ、今神様に求められていることを、それぞれ遣わされている所に於いて、精一杯為してまいりたいと思うのです。それが、この新しい天と地、天から下るエルサレムという希望を与えられております者の、この地上における歩み方だからです。主イエス・キリストによって示された道、神様を愛し隣人を愛する道、神様に仕え隣人に仕える道を歩んでいくのです。そのような歩みは、この地上の生涯の中で、少しも報いを受けることがないかもしれません。しかし、それでも良いのです。私共の希望は、この地上に於いて報いを受けるというところにあるわけではないからです。
 私共の希望は明確に、新しい天と新しい地にあるのです。天上のエルサレムにあるのです。この希望をはっきりさせて、為すべき務めに忠実な僕として、この一週も主と共に、主の平安の中を歩んでまいりたいと思います。

[2014年10月26日]

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