富山鹿島町教会

礼拝説教

「主の御前に立つ者として」
詩編 4編2~9節
マルコによる福音書 8章27節~9章1節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 主イエス・キリストを信じる者とはどのような者であるのか。イエス様は端的にこう告げられました。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」これはとても厳しい言葉です。このイエス様の言葉の前に少しもたじろがず、平然としていられる人がいるでしょうか。そのように言われたら、私共は自分の日々の姿を思い、自分はクリスチャン失格だと心の中でつぶやくかもしれません。しかし、これはイエス様の言葉です。割り引くことは出来ませんし、許されません。キリスト教会の歴史の中で多くの殉教者が生まれましたが、その人たちはこのイエス様の言葉を自分に告げられた言葉として受け止め、迫害の中でも主イエス・キリストへの信仰を捨てず歩んだというのは本当のことです。それ故私共は、このイエス様の言葉をすぐに殉教するというようなことと結びつけて、「私などは、とてもとても。」と思うのかもしれません。しかし、このイエス様の言葉は、殉教するような特別な状況における、特別な人に対してだけ告げられた言葉ではないのです。イエス様がこの言葉を告げられた場面をなぞってみましょう。

2.キリスト告白の後で
 27節以下の所で、イエス様は弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」と問われ、弟子たちは「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の一人」と、人々がイエス様に対して思っていることを口にします。それを受けて、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問う。それに対して、ペトロが「あなたは、メシアです。」と告げました。これが、キリストの教会の最初の信仰告白です。ペトロがイエス様に対して、メシア、キリストと告白したのです。数多いる預言者の一人ではなく、この方によって神様の御心が完全に明らかにされ、神の救いの御業が為される、神の御子ですと告白したのです。イエス様は、このペトロの信仰告白を受けて、御自分が苦しみを受けて、捨てられ、殺されること、そして三日目に復活することを、初めて弟子たちに明らかにされました。それは、旧約において預言されてきた救い主、メシア、キリストとは、世の人々のすべての罪の裁きを担うために十字架に架かり、三日目に復活して、罪赦された者たちを永遠の命へと導く、そういう者なのだということを明らかにされたわけです。
 しかし、ペトロはそのイエス様の言葉を聞いて、イエス様をいさめるのです。「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」それは、ペトロにとってメシアとは、神様の力を身に帯びて、ローマの軍隊を蹴散らし、ダビデの王国を再び興してくれる、政治的、軍事的、現実的な、神様から遣わされた王というイメージだったからです。イエス様はこのペトロの言葉と行動に、御自身を十字架から引き離そうとするサタンの働きを見抜いて、「サタン、引き下がれ。」と叱りつけたのです。そしてその後にイエス様が告げられたのが、この言葉でした。
 34節には、「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。」とあります。今まで、弟子たちとあるいはペトロとやりとりをしていたイエス様です。それが、ここでわざわざ群衆も呼び寄せて言われたのです。ですから、この「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という言葉は、ペトロのようなイエス様に近しい弟子たちに対してだけではなく、イエス様に従おうとするすべての人に向けて告げられたものです。このイエス様の言葉は、特別な弟子に向けられたものではなく、私共に一人一人に向けられた言葉なのです。

3.この世の王ではなく
 前回も申しましたように、イエス様はペトロに対して「サタン、引き下がれ。」と言われたけれど、この「引き下がれ」という言葉は、直訳すれば「わたしの後ろへ行け。」という言葉なのです。十字架と復活への道を歩もうとされているイエス様の前に立ちはだかるペトロに対し、わたしの後ろへ行け、後ろに回れ、後ろからついてこい、そう言われたのです。そして、今朝与えられている「わたしの後に従いたい者は」との御言葉に続いているのです。イエス様はここで、わたしはこれから十字架につけられて死んで、三日目によみがえる。そのわたしの後に従いたい者は、この十字架、復活への歩みをする以外にない。そう言われたのです。ペトロが、メシアであるイエス様に対して抱いていたイメージは、力に満ちた、栄光の姿でありました。しかし、イエス様は、「それは違う。それはサタンにそそのかされた者の持つイメージだ。本当のメシア、キリストは十字架・復活への道を歩むのだ。」とお告げになったのです。
 イエス様の十字架への道は、神の国の福音を宣べ伝えるという公の歩みを始める前に、荒野においてサタンの誘惑をお受けになった時に、既にはっきりと決められておりました。サタンは、石をパンに変えてみよ、わたしを拝め、神殿から飛び降りてみよと誘惑しましたが、イエス様はその一つ一つを退けられました。そこには、十字架という言葉は出てきておりませんけれど、この時のサタンの誘惑はどれも、イエス様に十字架への道を歩ませない、イエス様に全能の父なる神様の御子としての力を使わせて人々を従わせ、栄光の道、この世的な王の道を歩ませようとするものでした。しかし、イエス様は、サタンの誘惑の意図を見抜いて、そのすべてを退けられたのです。そして今、ペトロが、多分自分としては全く自覚することなく、サタンにそそのかされ、イエス様を十字架への道から脇へ逸らさせようとしたのです。この時イエス様は、十字架の予告だけではなくて、三日の後に復活するということもお告げになったのですが、ペトロは十字架の受難しか耳に入らなかったのかもしれません。十字架がなければ復活もないのですから、サタンとすればそれで良かったのでしょう。
 私共がキリストと告白する方がどのようなお方であるのか、どのような道を歩まれた方なのか、それによってその後に従う私共の歩みは決定的に違ったものになってきます。イエス様が、ペトロのイメージしていたようなメシア、キリストであるのならば、その後に従う私共もまた、この世の力、栄光、富を求めて歩む者となるでありましょう。しかし、イエス様が十字架への道を歩まれた方であるのであれば、私共もまた、十字架への道を歩まねばならないということになるのです。もちろん、イエス様の十字架は、すべての罪人の赦しのための十字架でありますから、私共の十字架とは違います。ですから、イエス様は「自分の十字架を背負って」と言われたのです。
 この時、イエス様がはっきりと御自身の受難と復活を語られたにもかかわらず、弟子たちはすぐにそのことを理解し、受け止めることは出来なかったようです。もう少し先の10章37節には、イエス様の弟子であるヤコブとヨハネの兄弟がイエス様に対して「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と言ったと記されています。これは、イエス様がその力を発揮して、イスラエルをダビデ王の頃のように再興する時には、王であるイエス様の右と左に私共兄弟を座らせてくださいと言っているわけです。他の弟子たちを出し抜いて、こんなことをイエス様に願うのもどうかと思いますけれど、弟子たちは、イエス様というお方がその力を用いて、この地上において御心に適った王国を造る、そのために来られた方だと思っていたということなのであります。それは弟子たちだけではなくて、イエス様について来た多くの群衆もまた、そういう思いでイエス様を見ていたし、そういう思いでイエス様に従っていたということなのです。しかしイエス様は、そうではない。わたしは、あなたがたが考えるようなあり方で御国を来たらせるのではない。十字架に架かるのだ。この世の栄光ではなく、罪の赦しなのだ。そのためにわたしは来たのだ。わたしの国はこの世の国ではない。父なる神様との全き交わり、天地を造られた方が我が父となりあなたがたが神様の子とされる、永遠の命の交わりなのだ。そう告げられたのです。そして、そのためには、わたしは十字架に架からなくてはならず、その三日後に復活することによって、あなたがたを父なる神様との永遠の命の交わりへと迎えるのだとお告げになったのです。

4.自分を捨てて、自分の十字架を背負って
 ここでイエス様が言われた、自分の十字架を背負うということと、自分を捨ててということは、切り離すことは出来ません。自分の思い、自分の願い、自分の好み、そういうものを捨てなければ、自分の十字架を背負うことは出来ないのです。
 具体的に考えれば、すぐに分かります。ペトロやヤコブやヨハネが考えていたような、地上の王国、地上の栄光という自分の考え、自分の願い、自分のイメージを捨てなければ、十字架への道を歩むイエス様を受け入れることは出来ませんし、これに従うことは出来ません。そして、その自分の栄光、地上の自分の願いを捨てて、イエス様が求めた愛や赦しに生きるということが、私共が自分の十字架を背負うということになるのです。
 自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様に従うというのは、何もイエス様のように殉教することだけを指しているのではないのです。あるいは、自分の仕事を辞めて、社会福祉の仕事に就くということでもないのです。もちろん、この主イエスの言葉によってそのような人生を選択するということもあるでしょうし、そのようなあり方でイエス様に従うということももちろんあるでしょう。しかし、それはその人とイエス様との関わりの中で、その人自身が決めることでありますから、傍からどうこう言うことではありません。
 だったら、自分を捨て、自分の十字架を背負うとはどういうことなのか。それは、私の思いや願いをいったん横に置いて、今自分に神様が求めておられることを為すことです。例えば、今朝皆さんは、何かやりたいこと、しなければいけないことをいったん横に置いて、この主の日の礼拝に集まって来られたことでしょう。主の日の朝、この礼拝に集うこと、主の言葉を聞き、主をほめたたえることが、今神様が自分に一番求めておられることであるということを知っているからです。これと同じことが、日常においてはしょっちゅうあるでしょう。自分の思い、自分の願いを横に置いて、互いに愛し合いなさいと言われた主の言葉に従う。赦しなさいと言われた主の言葉に従うということです。それが、自分の十字架を背負うということです。
 もちろん、この十字架というものは、苦しみが、苦痛が伴うものです。でも、それを御言葉ですからと言って担う時、私共は確かに御国への道を歩んでいるのです。信仰は自分の人生のアクセサリーではありません。あってもなくても良いけれど、あった方が人生に彩りが出来る。そんなものではないのです。私共の願い、私共の喜び、私共の大切なもの、私共の心のありよう、そのすべてが変えられていくのです。

5.永遠の命への道
 イエス様は、続けてこう告げられました。35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」ここで、命という言葉は二通りの意味に使われています。一つはこの地上の命、もう一つはイエス様に与えられる永遠の命、復活の命です。つまり、自分のこの地上の命を救いたいと思う者は、永遠の命を失うが、わたしのため、また福音のために地上の命を失う者は、永遠の命、復活の命を救うのであるということです。
 イエス様は受難だけを予告したのではありません。十字架の後に続く、福音も告げられました。これは二つで一つです。十字架なしに復活はありません。そして、復活に至らない十字架もないのです。私共が自分の十字架を背負って歩む時、その道は神の御国へ、永遠の命へとつながっているのです。それは、イエス様が天使たちと共に再び来られる時、明らかにされます。
 イエス様をキリストと信じ、イエス様の御言葉に従って愛と赦しに生きた者には、決して朽ちることのない永遠の命が与えられるのです。私共は、この日を目指して歩む者として召されています。この地上の栄光も富も、私共の心を引きません。私共の心は、イエス様に向けられています。十字架に架かり、三日目に復活されたイエス様です。この方を愛するが故に、この方と共に、この方が歩まれたように、互いに愛し合い、互いに許し合い、互いに仕え合う者として歩んでいきたいのです。
 イエス様は、続けて36~37節で「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」と告げられます。私は、この言葉を思い巡らしながら、NHKの大河ドラマを思い出しました。夕礼拝がありますのでなかなか見ることは出来ないのですが、この大河ドラマの主人公はいつも、大きい小さいはあれ、この世の支配者、王になろうという人たちと、それを支える人、それに従っていく人たちの姿を描いています。それを見て、私は悲しいなと思うのです。そのように描いているからでしょうけれども、明智光秀にしても、荒木村重にしても、黒田官兵衛にしても、悲しい。一生懸命やっても、成果を上げても、結局報われない。どうしてでしょう。それは、彼らが仕えていた王がこの世の王だったからでしょう。この世の王とはそういうものだからです。そして、仕えるお方が誰であるかということによって、その目指すところも、歩む道もこれ程に違うものなのかと思わされるのです。私共はイエス様にお仕えします。イエス様は決して私共を裏切りませんし、この地上の命をどう使うかを教えてくださいますし、その命が無駄にならないように、永遠の命に至るようにと導いてくださいます。ありがたいことです。しかし、この世の王は違います。

 私は、このイエス様が与えると約束してくださった永遠の命、復活の命、これに既に与ることとされた者は何と幸いなことかと、しみじみ思うのです。そして、この約束に与っている者として、イエス様の御前に立って恥じることのない歩みをしたいと、心から願うのです。もちろん、至らない者故、失敗もするでしょう。言ってはならぬことを言ってしまったり、人をつまずかせてしまうようなこともあるでしょう。でも、私のただ一つの願いは、やがて主の御前に立つ時、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」(ルカによる福音書17章10節)と、イエス様に向かって言えるように歩みたいということなのです。どんなに豊かな富も、人々からの称賛も、この主イエスの御前に立つ日のことを思えば、心を奪いません。私共が主の御前に立つ者として生きるということは、やがて主が来られる時に主の御前に立つ、その日のことを思って今為すべきこと、主に求められていることを為していくということなのでありましょう。それが私共が歩むべき、自分を捨て、自分の十字架を背負って、主に従って歩むということなのです。

[2014年10月19日]

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