富山鹿島町教会

礼拝説教

「キリスト告白」
申命記 18章15~22節
マルコによる福音書 8章27~30節

小堀 康彦牧師

1.マルコの福音書の真ん中
 マルコによる福音書を共々に読み進めておりますが、今朝与えられております御言葉は、分量的にも内容的にも、マルコによる福音書の真ん中に当たります。今朝与えられております御言葉におきまして、ペトロが遂にイエス様に対して「あなたは、メシアです。」救い主、キリストですと告白いたします。この告白以後、イエス様は御自身が十字架に架けられて死ぬこと、三日目に復活することを、弟子たちにはっきりと語り始められます。そして、イエス様は、御自身が十字架に架けられるためにエルサレムへと歩みを進めていくことになるのです。イエス様は、これまでも様々な奇跡を為し、教えを語ってこられましたが、それらはすべて、御自身が誰であるかということを示すためであり、御自身を遣わされた神様の御心が何であるかを示すためでありました。そして遂に、十分なあり方ではないにせよ、弟子たちがイエス様をメシアであると告白するに至りました。ここに至って、イエス様が御自身の本当の目的、為さねばならないことを明らかにしても良い備えが出来たのです。

2.洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者の一人
 さて、ペトロがイエス様をメシアであると告白する前に、イエス様は弟子たちにこう言われました。27節「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」この問いに対しては、弟子たちは比較的気楽に答えることが出来たと思います。「『洗礼者ヨハネだ』と言っている人もいますし、『エリヤだ』と言っている人もいますし、『預言者の一人だ』と言っている人もいます。」多分、これが当時の、イエス様に対する人々の正直な思いだったのでありましょう。
 この三通りの答え方には、それぞれ背景があります。洗礼者ヨハネというのは、イエス様に洗礼を授けた人で、人々から大変な支持を受けておりましたが、ヘロデ王によって殺されてしまいました。人々の中には、イエス様を、このヨハネが生き返ったのだと思う人がいたというのです。それほどまでに、人々は洗礼者ヨハネを本当の預言者と思い、彼に対して期待する所が大きかったということなのでありましょう。そしてそこには、ヨハネこそ救い主メシアではないかと期待していた人々の思いもあったのではないかと思います。
 また、「エリヤだ」と言う人々もいました。このエリヤというのは、旧約聖書の列王記に出て来る人です。イエス様より800年も前の、旧約聖書における代表的な預言者であり、数々の奇跡を為した力ある預言者でした。イエス様をあのエリヤの再来だと言うのです。それは、救い主、メシアが来る時には、その前にエリヤが再び来るという預言がマラキ書などにあり、イエス様をエリヤだと言う人々は、その救い主・メシアが到来する事への期待があったということでしょう。
 そして、「預言者の一人」と言う人もいました。マラキという預言者が出て以来久しく、何百年もユダヤには預言者は現れていませんでした。しかし、洗礼者ヨハネといい、イエス様といい、本当の預言者が次々と現れている。次は本当に救い主、メシアが来るのではないか。そのような期待が人々の中にあったということなのだと思います。
 つまり、イエス様が生きた時代、イスラエルの人々の間には、救い主が現れるのではないかという期待があったということなのです。そしてその期待感が、このイエス様に対する人々の思いの中に現れていると見て良いではないかと思います。

3.メシア、キリスト
 イエス様は次に、弟子たちにこうお尋ねになりました。29節「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」これは大変厳しい問いです。「人々は何と言っているか」という問いならば、自分のことではありませんので、気楽に答えることが出来たでしょう。しかし、「あなたは」と問われると、話は別です。この問いに対して、弟子たちは一瞬、沈黙したのではないかと思います。そして、その沈黙を破るようにして、一番弟子のペトロが「あなたは、メシアです。」と答えたのです。この答えは、それまでの、洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だという答えとは、全く質が違う答えなのです。洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だというのは、平たく言えば、「神様に遣わされた凄い人だ」ということです。しかし、ペトロが口にした「メシアです」というのは、凄い人だということではないのです。そうではなくて、旧約において預言されてきた救い主、この方によって歴史が変わり新しい時代に入っていく、この方によって神様の救いの業が完成する、この方によって神様の御心が完全に現される、もっとはっきり言えば、天地を造られた神様そのもの、私共が拝むべきお方ということなのです。聖書は、天地の造り主である神様しか拝むことをしません。ですから、どんなに凄い人、偉い人であっても、それが人であるならば、拝むことはしません。しかし、メシアは全く別なのです。
 このメシアという言葉は、先々週の北陸連合長老会の交換講壇において、T教会のK牧師が、ハイデルベルク信仰問答に基づいて、丁寧にお話しくださったと思いますが、これは直訳すれば、油注がれた者という意味のヘブル語です。この油注がれた者という意味のギリシャ語がキリストです。ですから、メシアもキリストも全く同じ意味です。旧約において、油を注がれて神様の御用に立てられる大切な職責が三つあります。預言者、祭司、王です。メシア、キリストは、まことの預言者、まことの祭司、まことの王として来られる、そういう方として旧約以来イスラエルの民が待望していた方だったのです。この方によって神様の御心は完全に明らかにされ、この方によって完全な救いが実現され、この方によって神様の御支配が完全に行われる。それがメシア、キリストなのです。それは、凄い人、偉い人というのとは全く次元が違います。この方によって天地創造以来の神様の救いの御計画が完成されるのです。
 私共は何気なく「イエス・キリスト」と言いますが、これは「イエス様はキリスト、メシアである」という意味です。このイエス・キリストという言い方は、最も短い信仰告白と言って良い。ペトロが、人類史上初めて、イエス様に対して「あなたはメシアです。」と告白した。その告白は、まさに「イエス・キリスト」、イエス様あなたはキリストですという告白だったのです。
 マタイによる福音書16章13節以下にはここと同じ記事が記されておりますが、そこではペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えています。「メシア」を「生ける神の子」と言い換えています。これは、ペトロがメシアの意味を解釈しているわけです。ただの偉い人なんかじゃない、天地を造られた神様の独り子だと告白しているわけです。そして、それに対してイエス様は、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われました。イエス様のことを何か凄い人だ、偉い人だと思う、そのような方として受け入れる。それは難しいことではありません。イエス様の言葉を一つでも聞き、奇跡の一つでも見れば、そのくらいのことは誰でも思います。社会の教科書にだって、イエス様はソクラテスやお釈迦様や孔子と並んで聖人に数えられています。偉い人とは、そういうことでしょう。
 しかし、ペトロがここで告白したのは、そういうことではないのです。あなたはキリスト、神の子、救い主、私が拝むべきお方、私の主人。そう告白したのです。それは、イエス様を信じた、イエス様を信じる信仰がここに生まれたということなのです。ですからイエス様は、マタイによる福音書によれば「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われたのです。天の父なる神様によって示されなければ、イエス様がキリストであるということは、誰も告白することは出来ないからなのです。信仰は与えられるものです。神様が与えてくださるものです。そうでなければ、イエス様を神の子、救い主、キリストと信じることは出来ないからです。

4.イエスをキリストと告白するとは
 今日はこの後で、二人の方が洗礼を受けます。二人は兄弟です。二人とも自閉症や知的障害を持った方です。しかし、この二人に神様は、イエス様を信じ、イエス様と共に歩む思いを与えられました。両親が私共の教会員であり、毎週、両親と共に礼拝に集われていました。お母さんのお仕事の関係で朝の礼拝に集えない時は、必ず夕礼拝に出席されていました。家族4人で礼拝を休むということはまずありませんでした。二人の、少し遅れながら、でも大きな声で讃美歌を歌い、主の祈りを唱えるその礼拝に与る姿に、長老会はこの二人の信仰を見、父なる神様の選びと導きを見ました。そして、両親と一緒に洗礼試問会を行い、洗礼を授けることを決議しました。現在の洗礼の式文は、自分の口で信仰を告白する人、告白出来る人であることが前提になっています。それで今回は、このお二人用の洗礼の式文を長老会で用意いたしました。
 イエス様を救い主、キリストと告白するということは、単なる言葉の問題ではありません。その人がその信仰によってどう生きるかということです。この「信仰によって生きる」ということが抜けてしまえば、信仰にはなりません。当たり前のことです。もちろん、私共の信仰はどこまでも不完全であり、私共はどこまでも不信仰でありましょう。しかし、不完全なりに、不信仰なりに、何とか「イエスはキリストです。」「イエスは私の主です。」この信仰に生きたいと思う。そしてそのために、天の父なる神様の支えと導きを願い祈る。それが私共の歩みなのでしょう。
 私共が、「イエスはキリストです。」と告白するということは、「イエスは主なり」と告白することと結びついています。この二つの告白は分けることが出来ません。イエス様はキリストですが私の主ではありませんとか、イエス様は私の主ですがキリストではありません。そんな信仰はないでしょう。私共の信仰は、「イエス様あなたはキリストです。そして、私の人生の主人は私ではなく、イエス様あなたです。」そう告白し、生きることです。この二つの信仰告白は分けることは出来ませんから、私共は「主、イエス・キリスト」と言うのです。「私の主人であるイエス様、あなたはキリストです。」そう告白し、その信仰に生きるとのです。
 キリスト教会が生まれたのはローマ帝国の時代でした。ローマの文化は、ギリシャ神話と同じ神話を基礎にしていますから、元々多神教であり、自然宗教です。これは日本も同じです。多神教の文化の中では、人間が平気で神様になり、拝まれるということが起きます。ローマ帝国の時代、ローマ皇帝もまた拝まれました。主イエス・キリストは、ギリシャ語ではキュリオス・イエスース・クリストスと言うのですが、この主という言葉、キュリオスという言葉は、ローマ皇帝に対しても用いられていたのです。キリスト者たちは、キュリオス・イエスース・クリストスと言うことによって、私の主、私のキュリオスは、救い主キリストであるイエス様であってローマ皇帝ではない、ということを言い表すことになってしまったのです。もちろん、ローマ皇帝に忠誠を誓わないとか、反逆するということではありません。しかし、私の主はイエス様なのです。イエス様を差し置いて、この世におけるどんな権力ある者に対しても、「あなたが私の主」とは言えなかったのです。これは当然、キリスト者たちを厳しい状況へと追い込みました。それでも、キリスト者たちは、自分の主人はイエス様です、イエス様は生ける神の子キリストなのですから、そう告白し、生きたのです。私共の主は、ただキリストであるイエス様だけなのです。

 昨日、香港の神学校に留学している友人の牧師から、一通のメールが届きました。多分、この中にもこの牧師のことを知っている方が何人もおられると思います。このメールを皆さんの前で読むかどうか、とても迷いました。しかし、イエスはキリストであると告白し、その告白に生きる一人の牧師の証言が記されていると思い、読むことにしました。長いメールですので、かいつまんで読みます。こういうメールです。

『主の御名を賛美いたします。……  さて、既にニュースや新聞の報道で御存知のことと思いますが、現在香港は大変な状況となっています。以下に短く香港のキリスト教界の状況をお伝えするとともに、皆さまにも是非祈っていただきたい祈りの課題をいくつか挙げさせていただきたく存じます。
 今回は9月28日に香港政府(警察)が市民に催涙弾を発射したことに対する反発が強くあり、香港のいくつもの神学校も臨時休校にし、祈祷会を開いたり政府への抗議声明を出したりしていました。香港NCCをはじめ、いくつものキリスト教団体が催涙弾使用に対する抗議声明を発表し、祈りつつ今回の民主化運動に参与したりあるいは祈りつつ推移を見守ったりしています。昨日10月3日にはこのような市街占拠に反対するグループと占拠を続ける学生・市民との間で衝突が起き、一部ではヤクザがらみの人たちが動員されたのではないかという噂が出るほど、さらなる傷害事件・暴力事件への発展が懸念され、緊張がいっきに高まってきています。
 今回の件は単に香港の選挙制度問題ということにとどまらず、香港や中国大陸の今後の政治情勢をも左右するような出来事ですが、同時にそれは香港の教会の今後にも大きな影響を与える事柄でもあります。政治がからむ問題なだけに香港の教会・キリスト者たちの中でも立場や対応が異なり、社会分化が教会内にも影響を与えてきています。それだけに、香港の各教派の牧師たちは牧会上、皆それぞれに苦悩しながらこのような政治情勢・社会情勢に向き合ったらよいのか苦悩しています。
 昨日、神学校のある先生が「日本の皆さんにも祈っていただくことは、霊的つながりという意味でとても大事なことでありがたい」と私に語ってくれました。日本の教会・兄弟姉妹の皆さまにも特に香港教会を覚えて、以下の祈りの課題について個人・有志・教会などで祈っていただければ幸いです。

 1)非暴力的・平和的な市民運動であり続けられるように。特に、政府と市民との間で衝突による死傷者などが出ないように。

 2)香港社会のき裂、また教会同士のき裂・キリスト者同士のき裂の間に主の和解・赦し・平和が与えられるように。

 3)政治的に緊迫した中で牧会に当たっている香港教会の牧者たちに、必要な知恵と力、慰めが与えられるように。

 4)香港社会の民主的制度が保持されるように。特に教会にとっても極めて重要な「信教の自由」、「集会の自由」、「結社の自由」、「言論の自由」が将来的にも守られるように。』

 このメールを読んで、香港の教会は今、「イエスはキリストである」という告白に立ち続けるために厳しい戦いを強いられていると思いました。と同時に、主にある兄弟姉妹として、この祈りの要請に応えていきたいと思いました。

 今日は世界聖餐日です。世界中の教会において聖餐が守られます。主の平和が世界に満ちることを、共に祈る日です。イエスがキリストである、イエスが主である。この告白に生きる者として歩んでまいりたいと、心から願うのであります。

[2014年10月5日]

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