1.四千人の食事と五千人の食事
今朝与えられました御言葉を聞いて、「おやっ」と思われた方も多いと思います。今朝与えられております四千人に食べ物を与える記事は、6章30節以下の五千人に食べ物を与えた記事と、ほとんど同じ出来事が記されております。人数が四千人なのか五千人なのか、パンの数が七つなのか五つなのか、残ったパン屑が七籠なのか十二籠なのか、そのような違いはありますけれど、出来事としてはほとんど同じです。どうして同じような出来事が繰り返し記されているのか。そんなことを思われて、「おやっ」と感じられたのではないかと思います。
この同じような二つの出来事が記されていることについて、ある人は、一回の出来事が伝えられているうちに二つの違った話になったと理解します。だから、ルカとヨハネは五千人の方だけを記したと理解するわけです。しかし、本当にそうなのか。本当は二回あったけれど、同じようなことなのでルカとヨハネは一回だけを記したとも考えられるわけです。一回だったのか二回だったのか、本当のところは分かりません。ただ、マルコとマタイは二回記しているわけで、それにはそれの理由がある、私はそう考えます。では、それはどういう理由かと申しますと、6章にあります五千人の方はユダヤ人たちが養われたのですが、四千人の方は異邦人が養われたという出来事なのです。7章24節で、イエス様はティルスの地方に行かれたと記されています。ここは地中海沿いの異邦人が住む所です。そして、7章31節において、イエス様は「ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」とあります。この経路を、地図を開いてたどってみますと、すべて異邦人の住む所なのです。7章の24節以下、イエス様は異邦人に対して救いの御業を為されているのです。そうすると、この四千人に食べ物を与えるという出来事も、異邦人に対して為された奇跡と理解して良いのだと思います。つまりマルコは、五千人の養いに続いて四千人の養いを記すことによって、イエス様の養いの中に生かされるのはユダヤ人だけではなく、異邦人もまたイエス様の養い、神様の救いに与るのだということを示した。そのように理解することが出来るのではないかと思います。
2.主の養いによって生きる
そしてイエス様は、この大勢の人々をわずかなパンで養うという出来事を繰り返されることによって、人は神様の驚くべき御力によって養われ、生かされているのだということを、弟子たちの心に深く刻ませようとされたのでしょう。旧約において主の養いによって神の民が生かされた出来事として、私共はマナの奇跡を思い起こすことが出来ます。イスラエルの民は、エジプトの奴隷の状態から救い出されて約束の地にたどり着くまで40年の間荒野の旅を続けたわけですが、彼らはその間ずっと天からのマナによって養われ続けたのです。これは毎日のことでありますから、40年の間それが続いたということは、イスラエルの人々、神の民にとって、決して忘れることの出来ない出来事でありました。そして、自分たちは神様の養いの中で生かされているのだということを知ることとなったはずであります。これは決定的に大切なことでありました。神の民とは、主の養いの中で生かされていることを知る民なのです。イエス様は、このことを御自分の弟子たちにもしっかり心に刻ませるために、この不思議な出来事を繰り返されたのでありましょう。逆に言えば、それほどまでに、主の養いに生かされているということは身につかない。自分の手で、自分の力で稼いで生きているのだという所から、私共はなかなか離れられないということなのでありましょう。実に、信仰に生きる、神の民として生きるということは、この主の養いというものを本気で受け取るという所にかかっていると言っても良いほどなのです。
洗礼を受けるために準備する人に、私は、必ず食前の祈りをするようにしなさいと指導しております。家族の中でキリスト者が自分一人だけだと、なかなか食前の祈りをするのは難しいということがあるのかもしれません。そのような人には、婦人の方ならば食事の準備をする前に祈りなさいと言います。食事というのは毎日するものですから、食前の祈りが身につけば、今日は一度も祈らなかったということはなくなるわけです。そして、この食前の祈りにおいては、必ず「神様、あなたが備えてくださったこの食事を感謝します。」という一言が入るはずです。これによって、私共は食事の度毎に、自分は主の養いの中に生かされているということを心に刻むことになります。これが本当に大切なのです。また、主の祈りを祈る者は、「我らの日用の糧を今日も与え給え。」と祈るわけですが、そうすると、私共の毎日の食事は、神様がこの祈りに応えて与えてくださったものとして受け取ることになるのでしょう。食事の度、私共は神様の愛を改めて心に刻み、神様をほめたたえ、感謝するということになるのであります。ここに、生き生きとした神様との交わりに生きる生活が形作られていく一歩があるのです。食前の祈りというのは、ほんとに小さな習慣です。しかし、この様な習慣を身につけていくことによって、私共は神様との生き生きした交わりの中に生きる姿勢が整えられ、身についていくのです。
3.しるしは与えられない
さて、11節を見ますと、「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。」とあります。この「しるし」というのは、7章において、イエス様の弟子の中に食事の前に手を洗わない者がおり、それを巡ってファリサイ派の人々とイエス様は厳しい対立関係に入ってしまいました。ファリサイ派の人々にしてみれば、これを守らなければ救われないと考えている、先祖たちから大切に伝えられてきた生活上の様々な律法、これをハラカ、口伝律法と申しますが、これをイエス様が平気で破るというのならば、自分が本当に神様から遣わされた者であるという証拠を見せよということなのです。それが、「天からのしるしを求め」たということです。
イエス様はこれに対して、「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」と告げられました。どうして「決してしるしは与えられない」と言われたのでしょう。四千人に食事を与えたり、耳が聞こえず舌の回らない人をいやしたり、イエス様はたくさんのしるしを示されたではありませんか。それなのに「しるしは与えられない」とはどういうことなのでしょう。それは、イエス様を試そうとする人を満足させるためには、決してしるしは与えられないということなのです。ここでイエス様は「今の時代の者たちには」と言われていますが、これはイエス様が生きた二千年前の人たちにはという意味ではありません。そうではなくて、しるしを求めるような、いつの時代にもいる人たちのことです。何か驚くべき奇跡を起こしてくれたなら信じても良い、そう思っている人にはイエス様は決してしるしを与えないと言われたのです。いつの時代でも、イエス様は生きて働いてくださり、驚くべき業を為してくださいます。五千人、四千人の人々を養ったような奇跡だって起こされます。イエス様は、天地を造られた神様の独り子なのですから、何でもお出来になりますし、何でもなさいます。しかし、それが起きたら信じようという人には、決してしるしが与えられることはないのです。
福音書の中には、イエス様がおびただしい数の奇跡をなさったことが記されています。しかし、福音書に記されているのは、イエス様がなさった奇跡のすべてではなくて、ほんの一部であったと思います。そして、それらの奇跡で、これをしたのなら信じようという人に対して為されたものは、一つもないのです。イエス様の奇跡は、イエス様の、神様の憐れみの業なのであって、私共はそれを感謝と賛美をもって受け取るだけなのです。間違っても、イエス様をテストするようなあり方でイエス様に関わるならば、決してイエス様の憐れみに与ることは出来ないのです。
それは私共人間と神様との根本的な関係を示しております。神様・イエス様が主なのであって、私共が主ではないのです。私共は神様の僕なのであって、神様が私共の僕では断じてないのです。しかし、この「しるしを求める」というあり方は、私が主であって、神様・イエス様を僕にしてしまう、根本的な間違いを犯しているということなのです。それは、しるしを求める、奇跡を求めるというあり方だけを言っているのではありません。神様が告げること、イエス様が言われることを、自分の考えと同じなら良しとしましょう、違っているのなら認めません、これもまた同じなのです。私の考え方、生き方、常識、それが主になっているからです。この様なイエス様との関わり方は、信仰が与えられる前の私共の姿そのものでしょう。しかし、信仰が与えられ、私共は変えられたはずです。
4.まだ分からないのか
イエス様は再び舟に乗り、ガリラヤ湖を渡りました。この時、弟子たちは舟の上でパンを一つしか持ち合わせておりませんでした。イエス様の一行の食事を用意するのは、担当が決まっていたのかもしれません。その人がたまたま忘れてしまったのでしょう。その時、イエス様は「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい。」と言われました。これを弟子たちは何と聞いたかというと、自分たちがパンを持っていないからだ、イエス様はパンをちゃんと用意しなかった自分たちを叱っているのだと思ってしまったのです。このイエス様の言葉をどう聞けばそのように聞こえるのかと思いますけれど、弟子たちはそう聞いてしまったのです。
変と言えば変な話です。しかし、私共はしばしばこの弟子たちのような聞き方をしてしまうものなのでしょう。自分の心の中に「失敗した」という思いがありますと、相手は少しもそんなことは思っていないのに、その一言一言が何か自分を責めているように聞こえてしまう。この時の弟子たちはそういうことではなかったかと思います。
イエス様は、弟子たちがわけの分からない議論をしているのを聞いて、「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。」と告げられました。ここでわけの分からない議論と申しますのは、イエス様が言われたことを、パンを持ってこなかったから責められている、叱られていると受け取ったのなら、そこで為される議論はわけの分からないものになるしかないからです。こんな議論だったかもしれません。「おい、今日のパンの当番は誰だった?どうして一つしかないんだ?イエス様は、ファリサイ派の人が作ったパンは駄目だと言われたぞ。このパンはどこで手に入れたのだ。ファリサイ派やヘロデと関わりのある者が作ったパンではないな。いや、パン種だから、パンは誰が作ったものでもいいのではないか。問題はイースト菌だな。これをどこで買ったかだ。でも、売っているパンで、このパンのイースト菌はどこで手に入れたのかと聞かなきゃいけないのか。それも難しいな。どうすればいいのか。」
こんな議論をしている弟子たちに、イエス様は17~18節「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」と告げられたのです。イエス様はパンが一つしかないことを叱ったりしません。忘れることなど、よくあることなのですから。しかし、イエス様がなさった奇跡が何を意味しているのか分からない、悟らない。それ故、イエス様が誰であるのか分からない。そして、イエス様と共にいるということがどういうことなのか分からない。そのような弟子たちに「いい加減、悟りなさい。」と告げられたのです。イエス様が誰であり、イエス様と共にいるということがどういうことであるのか分かるならば、それさえ分かれば、パンを一つしか持ってこなかったことについて心配して、心を乱すこともないではないか。そう言われたのです。
そして、イエス様は五千人と四千人に食事を与えた時のことを弟子たちに思い起こさせます。弟子たちはその時のことをちゃんと覚えていました。五つのパンで五千人を養った時、パン屑は十二の籠いっぱいになりました。七つのパンで四千人を養った時は、パン屑が七つの籠いっぱいになりました。弟子たちはそのことを覚えておりました。しかし、それが何を意味しているのかが分からなかったのです。それが主の養いを意味している。それ故、イエス様が共にいてくださるのならば食事の心配などいらない。大丈夫。弟子たちは、その安心の中に生きるということが出来なかったのです。自分たちは神様の御子と共にいる。神様が自分たちを養ってくださる。だから大丈夫。そう思えなかったのです。五千人の食事、四千人の食事、この出来事をきちんと受け止めていれば、イエス様が共におられるのだから大丈夫、その安心の中に生きることが出来るはずだということなのです。私共に与えられているのも、この安心です。
5.ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種
では、ここでイエス様が言われたファリサイ派の人々のパン種、ヘロデのパン種とは、何を意味しているのでしょうか。ファリサイ派のパン種とは、細かな律法をすべて守って救われようとする律法主義。自分は正しくて救われるけれど、律法を守らない人、異邦人は救われないとする考え方、信仰のあり方です。このファリサイ派のパン種は、いつでもキリストの教会の中に入り込んできます。自分のことは棚に上げて、あの人はどうだ、この人はどうだと非難するのです。このファリサイ派のパン種と無縁な教会などありません。本当に気をつけなければなりません。
また、ヘロデのパン種とは、洗礼者ヨハネを殺したヘロデを指しているのでしょう。自分の面目を守るために神様に遣わされた預言者を殺す、そのような人々の思いの中で、イエス様も十字架につけられることになっていくのです。これに気をつけよと言われたのです。あるいは、このヘロデのパン種というのは、当時のユダヤの政治状況にあって、ローマからの独立を目指すヘロデ党の人々を指しているのかもしれません。純正な信仰を守るためにローマから独立する。そのためには武力闘争も辞さない。これがヘロデ党です。これは今風に言えば、ユダヤ教原理主義過激派、或いはユダヤ民族主義過激派ということになるでしょうか。これに気をつけよと言われたのです。宗教的熱狂、民族主義的熱狂に気をつけよということです。
このファリサイ派のパン種にしてもヘロデのパン種にしても、パン種ですからほんの少し入ってくるだけで全体に影響を与えて、その色に染めていってしまう、そういう力を持ったものなのです。イエス様は、これによくよく気をつけなさいと言われたのです。キリストの教会は、その時代、その国の考え方や常識というものと無縁ではありません。いつでもその影響を受けているのです。しかし、どんな時代であっても、イエス様・神様が主なのであって、私はイエス様に従う。自分とイエス様の考えが同じなら従うというのではない。奇跡を見たら信じるのでもない。天地を造られた神様が与えてくださる養いの中に既に生かされているのだから、安心してイエス様と共に歩んでいけば良い。大切なのは、自分の面目を守ることでも、自分の正しさを守ることでも、自分の才覚を信じて生きることでもない。既に主の養いの中に生かされている事実を感謝をもって受け止め、主をほめたたえて、主の与えられる平安の中を生きることなのです。
私共は今から聖餐に与ります。この聖餐は、わずかのパンで多くの人を養われた主の養いが私共にも備えられていることを示しています。この主の養いに既に生かされていることを心に刻んで、この新しい一週も主と共に、主の平安の中を、主の御国に向かって共々に歩んでまいりたいと願うのであります。
[2014年9月7日]
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