富山鹿島町教会

礼拝説教

「口止めされるほどに」
イザヤ書 35章5~10節
マルコによる福音書 7章31~37節

小堀 康彦牧師

1.イザヤの預言の成就
 イエス様がお生まれになる700年ほど前、預言者イザヤが現れ、救い主の到来を預言いたしました。やがて救い主が来られる。その時にはこういうことが起きると預言しました。その預言の一つが、今お読みいたしましたイザヤ書の35章です。5~6節を見ますと、こうあります。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」ここで「そのとき」と言われているのは、神様の救いが与えられる時、救い主が来られる時、そのように考えて良いでしょう。今朝与えられておりますマルコによる福音書7章31節以下に記されている、耳が聞こえず舌の回らない人がイエス様によって耳が聞こえるようになり、口が利けるようになったという出来事は、まさに預言者イザヤが預言した「そのとき」が来たということを示しているわけです。遂に来た。待ちに待った救い主の到来。神様の救いの時が来たのです。イエス様は、自分が救い主である、メシア、キリストであると口で言うのではなく、出来事をもって、そのときが来たことをお示しになったのです。

2.為された業によって示される
 口先で「わたしが救い主である」と言うことは、誰にでも出来ます。いつの時代でも、どの国にでも、そのように言う人はいるのです。現在の日本にだって何人もいます。もちろん、みんな偽物ですけれど。イエス様は口では言われません。しかし、その為される業をもって、自らが誰であるかをお示しになったのです。しかも、イエス様はその為された業、様々な奇跡を、自分が救い主であることを宣伝のためには、決してお用いにはなりませんでした。
 この時もそうです。イエス様は、この人の耳を開き、口を利けるようにした後、人々に「だれにもこのことを話してはいけない。」と口止めをされた(36節)のです。どうしてわざわざイエス様は口止めされたのか。それは、イエス様は確かに救い主であられますけれど、このような奇跡が宣伝されれば、人々はイエス様を、病気を治してくれる人、奇跡をする人、そんな風にしか受け止めないことを良く分かっておられたからです。イエス様が来られた本当の目的、イエス様が与える救いとは、そういうものではなかったからです。イエス様が来られた目的、イエス様が与えられる救いとは、すべての人を神様のもとに立ち帰らせることであり、すべての人が神様との親しい交わりの中に生きるようになることです。そして、そのためにはアダム以来の人間の罪を処分しなければなりません。神様と人間との間にある、決して超えることの出来ない「罪」という隔たりを処分しなければならない。これが為されなければ、神様と人間が親しい交わりに生きるようになることは出来ないのです。イエス様はこの本来の目的、救い主としての使命を果たすために、すべての人のために、すべての人に代わって罪の裁きを十字架の上でお受けになるのです。イエス様はそのために来られたのです。そして、そのことによって全き救いが全ての人に与えられることになるのです。そのことが為されるまで、イエス様は自らが救い主であることを公に言うことは為さらなかったのです。しかし、口でおっしゃらなくても、その為される業によって、イエス様が救い主であることは隠しようがないことであり、いくら口止めしても、人の口に戸は立てられませんから、イエス様の評判はどんどん広まっていったのです。そしてそのことが、やがて主イエスが十字架に架けられることになる原因ともなっていくのです。

3.イエス様の癒しの御業
 イエス様が為された業は、イエス様が誰であるかということを示しております。天地を造られた神様の愛が、そして力が、イエス様の為された業には現れています。
 今朝与えられております御言葉において、耳が聞こえず舌の回らない人がイエス様のもとに連れて来られました。この人は舌が回らないので、直接イエス様に「耳が聞こえるようになりたいのです。口が利けるようになりたいのです。」そう願い出ることは出来ませんでした。その意味では、マルコによる福音書の2章に記されていた、中風の人が癒やされた場合と似ています。あの時も、中風の人は自分からイエス様の所にいやしを求めて来ることは出来ませんでしたから、人々に運んでもらってイエス様の所に連れてこられました。そして、その人々が屋根を剥いで、中風の人をイエス様の前につり下げ降ろしたのです。
 この時、この耳の聞こえない人をイエス様の所に連れて来た人々は、イエス様に手を置いてくださるようにと願いました。それは、イエス様がこの人に手を置いてくれれば、それだけでこの人は癒やされる。耳が聞こえるようになり、口が利けるようになる。そう思ったからでしょう。しかし、イエス様はこの人をいやすのに、手を置く必要もなければ、会う必要さえなかったのです。先週見ましたシリア・フェニキアの女性の娘をいやすのに、イエス様はその娘に会ってもおられません。イエス様は娘の癒しを求める母親と会っただけです。イエス様は、癒しの業を為されるためにその人に触れたり、言葉を掛けたり、何か特別なことをする必要など何もないのです。天地を造られた神様のただ独りの御子であられますから、この様にされようとするならば、何でもお出来になったはずなのです。
 しかしこの時、イエス様はこの人に対して、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。私は、この時の光景をこんな風に想像いたします。イエス様は、この人の前に立ち、しっかり目を見て、両手でこの人の頭を抱えるようにして、指をこの人の両耳に差し入れた。あなたはこの耳が聞こえないんだね。聞こえるようになりたいんだね。そう確認されるかのようにです。そして、唾をつけてその人の舌にも触れられました。イエス様は、これがちゃんと動くようになりたいんだね。そう確認されたのだと思います。
 イエス様は、この時「この人だけを群衆の中から連れ出し」(33節)て、癒やされました。これは、イエス様がこの人と一対一の関係をもって癒やされたということを示しています。実に、イエス様が癒しの業を為される時のやり方は、一人一人違います。病気や障害で苦しんでいる人の一人一人が、全く違った状況の中で苦しんでいるように、イエス様の癒しの業も、一人一人違うのです。ただはっきりしているのは、イエス様はその一人一人に応じて癒しをされるということなのです。イエス様の私共との関わり方とは、いつもそうなのです。一人一人違ったあり方で出会い、救いへ導いてくださるのです。一人一人違った課題があり、悩みがある。それをイエス様は受け止めてくださって、一人一人に一番良いあり方で解決してくださり、乗り越えさせてくださり、出会ってくださるのです。

4.三位一体の神様の御業
 イエス様はこの時、「天を仰いで深く息をついた」と聖書は記しています。「天を仰いで」とは、まさに天におられる父なる神様に向かって祈ったということでありましょう。そして、「深く息をついた」というのは、深呼吸をしたということではありません。これをどう理解するのかは諸説ありますが、ここで使われている言葉は、ローマの信徒への手紙8章26節に「同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」とありますが、その「言葉に表せないうめき」の「うめき」と同じ言葉なのです。イエス様は、この耳が聞こえず舌の回らない人の苦しみ、悲しみ、そして耳が聞こえるようになりたい、口が利けるようになりたい、そのすべての思いを受け取り、神様に向かって「うめいた」のです。イエス様は、この時まさに「言葉に表せないうめきをもって執り成して」くださったのです。イエス様の御業は、まさに聖霊なる神様の御業に通じる執り成しの業だったのです。
 そして、イエス様は言われました。「エッファタ」これは、わけの分からないまじないの言葉、呪文の言葉ではありません。当時の人々が普通に使っていたアラム語の言葉で、「開け」という意味の言葉です。イエス様が「開け」と言われると、耳が開いて、舌のもつれも解け、この人は話すことが出来るようになったのです。  このイエス様の「開け」という言葉は、出来事を起こす神の言葉なのです。神様が天地を造られた時、「光あれ」と言われると光があったのです。神様は言葉と共に、言葉によって創造の御業を為されたのです。イエス様のこの「開け」「エッファタ」という言葉は、あの天地創造の時の父なる神様の言葉と同じなのです。つまり、ここで起きたことは、単に耳の聞こえない人が耳が聞こえるようになった、口の利けない人が口が利けるようになった、という以上のことなのです。イエス様によって新しい創造の御業が為されたということなのです。イエス様の「エッファタ」という言葉と共に、この人が新しくされたのです。

5.「エッファタ」(「開け」)
 しかし、ちょっと考えてみますと、この人は耳が聞こえないのですから、「エッファタ」と言っても聞こえなかったのではないか。そう思う方もおられると思います。しかし一方で、この「エッファタ」という言葉は、天地を造られた神様の「光あれ」と同じ、出来事を起こす御言葉なのだから、本人に聞こえたかどうかは問題ではない。そうとも言えるでしょう。しかし私は、この主イエスの言葉は本人にも聞こえたし、イエス様もまた本人に聞こえるように言われたのだと思うのです。
 それは、5章の最後で、イエス様が、会堂長ヤイロの娘は既に死んでいるのに、娘に向かって「タリタ、クム」「少女よ、起きなさい。」と言われたのと同じです。この時少女は既に死んでいたのですから、音としての言葉は聞こえないはずです。ところが、少女はこのイエス様の言葉と共に起きあがったのです。甦ったのです。イエス様の言葉は、このように肉体の死や耳が聞こえないという状態を超えて、相手に届くのです。それが神様の言葉というものなのです。それは、私共が復活する時も同じです。既に死んだ私共に向かって、各々自分の名が呼ばれ、起きなさいと告げられるのです。死んだら人間の声は聞こえません。夫の声も、妻の声も、子どもの声も、親の声も、聞こえないのです。どんなに大きな声で叫ぼうとも、聞こえはしないのです。しかし、神様の言葉は届くのです。聞こえるのです。「小堀康彦よ、起きなさい。」この声が聞こえるのです。そして、このイエス様の声と共に、私は復活するのです。神の言葉とは、そういうものなのです。
 この「エッファタ」という言葉と共に、この人はどのような新しさに生きるようになったのでしょうか。それは改めて申すまでもありません。この人は、他の人と話が出来るようになったのです。このことは、単に耳が聞こえるようになった、口が利けるようになったという、肉体の癒しということ以上の出来事が起きたのです。天地創造において神様が作ってくださった、神様に似た者として造っていただいた本来の人間の姿が回復されるという出来事が起きているのです。
 人の話を聞くことが出来る。人に向かって話をすることが出来る。それは、単に情報を遣り取りするということではないのです。人は、言葉に自分の心を乗せて、心を伝える。受け取る方も、その言葉に乗って伝えられる心を受け取るのでしょう。それが愛の交わりというものです。人間は、神様に似た者として造られることによって、何よりも愛の交わりを形造る者として創造されたのです。しかし、この言葉をもって心を伝える、心を受け取るということは、簡単なことではありません。「心ない言葉」という言い方があります。まさに「心ない言葉」によって、言葉が愛の道具としてではなくて、相手を傷つけるために用いられることだって、しばしば起きるのです。そして、この言葉によって傷つけられた心は、癒やされる必要があるのです。耳も聞こえる、口も利ける。しかし、心の扉を閉ざして、心を乗せた言葉は語らない。言葉に乗った心は受け取らない。そのような状況に陥ることがあるのです。私共は、すべての人に対してそうなるということは希かもしれませんが、あの人に対してはそうなってしまうということは、しばしば起きるのでしょう。それが、私共の罪の現実です。そのような私共に向かって、今朝イエス様は告げられるのです。「エッファタ」、「開け」。

6.神様を賛美する
 この出来事によって、周りの人に何が起きたでしょうか。37節「そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」これは、主イエス・キリストをほめたたえているわけです。耳が聞こえるようになった、口が利けるようになったという出来事を見た人々が、主をほめたたえているのです。もちろん、この中には、耳が聞こえ、口が利けるようになった人、その人自身もいたことでありましょう。実にイエス様の奇跡は、イエス様をほめたたえるようにと人々を導いたのです。それは、イエス様が求めたわけでも、強制したわけでもありません。自然にそうなったわけです。これが、イエス様が口で自分は救い主であると言われず、業をもって示されたことの意味だと思います。
 イエス様をほめたたえる。イエス様の為された業をほめたたえる。このことは、イエス様が為された業は、父・子・聖霊なる神様の御業なのでありますから、実に父と子と聖霊なる神様をほめたたえるということになるのであります。そして、この神様をほめたたえるということこそ、人と人との間に愛の交わりが回復されていくことの、一つの大切な筋道なのです。
 私共は、この礼拝に集うようになったその最初から、神様との関係を良きものにしたい、自らの罪を赦していただきたい、そう思っていたわけではないでしょう。最初はみんな、具体的な様々な問題・課題を抱えて、ここに集まって来た。そして、この礼拝に与る中で、自らの罪に気付かされ、抱えている問題の根っこに自分の罪があることを知らされ、罪の赦しを求めるようになったのではないでしょうか。そして、罪の赦しを与えられ、神様との親しい交わりに生きるようにされる中で、いよいよ隣り人との関係もまた、愛の交わりに造り変えられていかなければならないこと、そのために神様が助けてくださり、道を備えてくださること、これを信じ、祈る者とされていったのでしょう。ですから、この礼拝において主をほめたたえる者は、既にこの愛の交わりの回復という救いの道筋に立っているのです。もっと言えば、この礼拝において主をほめたたえる者は、既に神様の救いの業に与っているのであり、神様によって新しい者に造り変えられ始めているのです。新しい命の創造の業に与り始めているのです。
 繰り返し申します。今朝、イエス様は私共に「エッファタ」「開け」と告げられました。この御声を聞いた以上、私共の心の耳も開かれるのです。心の目も、心の口も開かれるのです。私共は、神様の救いの業を聞き、見、それをほめたたえるのです。たとえ口止めされても、それを言わないではいられないのです。まことにありがたいことです。私共に与えられている救いの恵みを見上げ、今、心から主をほめたたえたいと思います。

[2014年8月31日]

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