富山鹿島町教会

礼拝説教

「喜んで説得される神様」
創世記 18章16~33節
マルコによる福音書 7章24~30節

小堀 康彦牧師

1.信仰の論理としての神様の予定
 私共の父なる神様は、天と地のすべてを造られ、すべてを支配しておられます。私共の命も、一日一日の歩みも、その全能の御手の中にあります。そして、天と地を造られる前から、その全てを永遠の御計画の中で予定しておられたのです。この父なる神様の完全な創造と支配に対する信仰は、私共の信仰のとても大切な、最も基本的なものです。しかし、この基本的な大切な信仰も、その用い方を間違いますと、私共の信仰の歩みを健やかでないもの、まことに歪んだものにしてしまいます。具体的に申しますと、神様がすべてを支配しておられるのだから、既に永遠の昔にすべてを予定されているのだから、何を祈った所で無駄であり、意味がない。どのように生きようと、神様が既にお決めになったようになるしかないのだから、御心に適うように生きよう、善く生きようとすることは無駄であり、意味がない。そのような考えが生まれるとすれば、それはこの神様の御支配、予定ということを正しく、きちんと受け取っていないということになるでしょう。しかし、確かに理屈としては、そのような理屈も成り立つのです。しかし、これがただの理屈であり、信仰に基づく理解でないことは明らかでありましょう。
 では、このような過ち、誤解というものはどこから生じてしまうのでしょうか。それは、信仰の論理を、ただの理屈として受け取るという所に、根本的な間違いがあるのです。今、私は、「信仰の論理」という言い方をしました。この「信仰の論理」というのは、まず信仰があって、それを言葉として論理的に言い表したものなのです。これを神学と言っても、教理と言っても良いのですが、この信仰の論理は、まず信仰があるのです。信仰を抜きに、この論理をただの理屈として取り扱いますと、今申しましたような、全く変な話になってしまうのです。
 もう少し、このことについて考えてみましょう。神様が、永遠の昔、天と地を造られる前からすべてを知り、すべてを予定しておられたということについてです。これは、予定論という言い方もされますが、私共、長老派、改革派の教会の伝統においては、とても大切にされてきたものです。この信仰の論理が言おうとしたことは、何よりも私共の救いは完全に神様の恵みによるということだったのです。宗教改革をした教会の旗印は、信仰義認です。ただ信仰によって救われる。善き行いによってではないということです。ここで、「そうだ、私が信じるこのことによって救われるのだ。」という話になってしまいますと、神様の恵みによって救われると言いながら、「私が信じる」という、私の信仰、私の心の有り様によって救われるということになりかねません。そうなりますと、いつの間にか、私の良き業によって救われるというのと、あまり違わないことになってしまいます。私が信じるという、私の業によって救われるということになってしまうからです。そこで、この私の信仰というのも神様が与えられたものだ、私が神様を信じるということも神様の永遠の御計画の中にあったのだ、そのように信仰を理解することによって、私共は一方的に神様の憐れみによって救われるのだという本来の信仰義認、信仰によって正しいと認められて救われるという救いの論理を守ったのです。ですから、すべては神様の予定の中にあるのだから努力しても意味がないとか、祈るのは無駄だというようなことは、この神様の予定というものを全くねじ曲げてしまっているのです。
 この信仰の論理というものの根本にあるのは、神様をほめたたえるということ、神様を賛美するということです。この信仰の心を持って、信仰の倫理というものは扱わなければならないのです。

2.喜んで説得される神様
 さて、今朝の説教の題は、「喜んで説得される神様」としました。神様が説得されるというのは、何か変ではないか。永遠の昔から完全にすべてを知り、予定しておられる神様が説得され、御心を変えるなどということがあるのか。そう思われる方もおられるかもしれません。しかし、神様の予定というのは、私共が旅行する時に立てる計画表のようなものではないのです。そんな薄っぺらなものではないのです。神様の救いに与った私共は、神様が永遠の御計画の中で私を救ってくださった、そう信じております。それは、私共に信仰が与えられ救われたことだけではありません。結婚にしても、子が与えられることにしても、この両親の元に自分が命を与えられたということも、皆、神様の永遠の御計画の中で与えられたものと受け取り、神様に感謝し、神様をほめたたえるのです。
 しかし、その逆に、あの人は救われないことになっているとは誰も言えないし、それは神様だけが知っておられることです。この神様の領域に、私共は入り込んではならないのです。ですから、私共は、この人があの人が救われることを願い、神様に祈ります。また、そのために出来るだけのことをいたします。そして、そのことを神様は喜んで受け取ってくださるし、その祈りに応えてくださるのです。それが、「喜んで説得される神様」ということです。

3.ティルスにて
 今朝与えられております御言葉において、イエス様はガリラヤからティルスの地方に行かれました。聖書の後ろにあります地図を見ていただくと分かりますが、このティルスという町は、地中海に面した所にあります。大変古い町で、フェニキア人が建てた町です。このフェニキア人というのは、アルファベットのもとになる文字を使い始めた民族で、貿易を主とした海洋民族です。このフェニキア人のもう一つの代表的な町が、北アフリカにありましたカルタゴです。このカルタゴという町は、ローマと地中海の覇権を争った、大変有力な北アフリカの都市でした。ティルスも貿易で大変栄えた都市でした。
 そこに主イエスが行かれたというのです。もちろん、弟子たちも一緒だったと思います。そこは異邦人の住む地方ですから、ユダヤ人たちはあまり行きたがらなかったと思います。特に、ファリサイ派の人々は、自ら汚れの中に入っていくようなものですから、行きたがらなかったでしょう。イエス様がこの地方に来たのには、二つの理由が考えられます。一つは、7章において、エルサレムから来たファリサイ派の人々や律法学者たちと律法を巡って決定的な対立をしてしまいましたので、身を隠すためということが考えられます。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた」と記されておりますことが、それを暗示しているように思われます。もう一つは、6章30節以下の所で、弟子たちと共に休もうとされたのですが、それが出来ないままでしたので、今度こそ、弟子たちもイエス様も休もうとされた、そう考えることも出来るかと思います。いずれにせよ、イエス様はここではじっとしていたかったのです。
 ところが、汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女性が、イエス様のことを聞きつけ、救いを求めに来たのです。この女性は、シリア・フェニキアの生まれで、ギリシャ人でした。つまり、ユダヤ人から見れば異邦人です。彼女は、イエス様の所に来ると、イエス様の足もとにひれ伏して、自分の娘をいやして欲しい、汚れた霊を娘から追い出して欲しいと願い求めました。この女性は、今までも多くの汚れた霊を追い出してこられたイエス様だから、きっと自分の娘の悪霊も追い出してもらえるに違いない、そう思ったでしょうし、そうして欲しいと心から願い求めました。私共も、イエス様ならきっとそうしてくださるに違いない、そう思うでしょう。
 ところが、この時イエス様は全く意外な言葉を口にされたのです。27節「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」一読しただけでは、ここでイエス様が何をお語りなったのか分かりにくいかもしれませんが、ここで「子供たち」と言われているのはユダヤ人のことであり、「子犬」と言われているのは異邦人のことを指しています。特にこの場合、幼い娘でしたので、子犬と言われたのでしょう。「パン」というのは救いのこと、この場合は、汚れた霊を追い出すといういやしの業を指しています。ここで、ギリシャ人、異邦人を「犬」にたとえるのは何とも酷いではないか、人種差別も甚だしい、イエス様ともあろうお方が何と愛のない言い方をされるのか、そう聞く人もいると思います。確かに、ユダヤ人たちは当時、ギリシャ人や異邦人を犬と呼んで蔑視していたのです。イエス様も他のユダヤ人と同じなのか、そう思う人もいるかもしれません。確かに、そのように読むことも出来るでしょう。しかし、ここで決定的に重大なことは、イエス様がこの女性の願いを退けているということです。理由ははっきりしています。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。」ということです。つまり、まず最初に、神の民であるユダヤ人が救われなければならない。今はその時だ。まだ、異邦人が救われる時は来ていない。そう言われたのです。

4.救いに与る順序
 まさに、ここでイエス様が言われていることは、神様の救いの御計画です。救われる者の順序です。イエス様は、まずユダヤ人だと言われて、異邦人であるこの女性の願いを退けたのです。確かに、神様の救いに与るには順番があります。イエス様が十字架にお架かりになり復活されて、すぐにイエス様の福音は日本に来たわけではないのです。ザビエルが日本にキリスト教を伝えたのは16世紀のことでした。その後、鎖国があり、キリシタンの弾圧があり、再びキリストの福音が日本に伝えられたのは19世紀でした。そして、この富山の地に福音が伝えられたのは1881年でした。何と長い時間がかかったことでしょう。この世界の人々が一斉にキリストの福音に聞き、悔い改めて救われるのではないということは、必ずそこに後先ということが起きるということです。そこで起きることが、神様の救いの救済の歴史です。どうして、何の理由で、このような順番があるのか、私共には分かりません。それは、どうして私が先に救いに与り、あの人この人がまだ救いに与っていないのか分からないのと同じでしょう。はっきりしていることは、私共の方が、まだ救いに与っていないあの人この人よりも立派であったとか、宗教的であったとか、信仰的に熱心であったとか、良い人であったというような理由ではないということです。
 教会では、まだイエス様を信じていない人、救いに与っていない人を、「未信者」と言います。この言い方は、未だ信者になっていないという意味ですから、私共は知らないけれども、後で信者になるであろう、なるかもしれない、そういうことを暗に示しているわけです。この言い方はとても良いと私は思っています。〇〇学会に入信している未信者、浄土真宗の熱心な門徒である未信者ということです。非信者ではないのです。私共は、たまたま神様の御心の中で、その人たちより先に救いに与っただけなのです。そして、そのような人たちに私共は囲まれているわけです。家族の中でも、自分だけがキリスト者であるという人も少なくないでしょう。そういう中で、私共はどうするのか、その人たちをどう理解し、その人たちのために何をするのかということです。

5.執り成しの祈り
 この女性は、イエス様にこれほどはっきりと「今は駄目。まだ時が来ていない。」そう断られたにもかかわらず、少しもひるむことなく、退くことなく、イエス様にこう迫ったのです。28節「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」何という言葉でしょう。この女性は、「子犬とは失礼な。何という言い方か。こんな人になど娘のことを頼むのではなかった。」そんな風に腹を立てたりしなかったのです。それどころか、「はい、私の娘は子犬です。しかし、子犬でも、子供が落としたパン屑を食べることは出来るでしょう。」そうイエス様に迫ったのです。この女性は諦めなかったのです。そして、この女性の有り様をイエス様は喜ばれたのです。断られてもなお、娘のために救いを求めるこの女性の姿を、イエス様は喜んで受け入れられたのです。そして、29節「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」と言って、この女性の娘をいやされたのです。同じ記事が記されているマタイによる福音書15章28節では「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」とまで言われたのです。
 先程、創世記18章16節以下をお読みいたしました。ここにはアブラハムが、神様が滅ぼそうとされるソドムの町の人々のために、必死に執り成しているやりとりが記されています。ソドムの町に50人の正しい人がいれば、その人たちのためにソドムの町を赦してくださいと願い、それが聞かれると、45人、40人、30人、20人、10人とその数を減らしていき、何とかソドムを助けようとしたアブラハムでした。結局この時、ソドムの町には10人の正しい人もいなかったので、ソドムの町は滅ぼされてしまったのですけれど、神様はアブラハムの、ソドムの町のための執り成しを受け入れられました。この時の神様のお姿と、シリア・フェニキアの女性の、我が娘のための怯まぬ執り成しを受け入れられるイエス様のお姿は、全く重なっています。ここには、愛する者のために必死に執り成し救いを求める者を、決して退けることのない神様の姿があります。
 このことを知った私共はどうするのか。それはもう言うまでもないほどに、はっきりしているでしょう。アブラハムのように、この女性のように、まだ救いに与っていない人のために執り成すのです。その人の救いを求め、祈り願うのです。この女性のように、断られようと断られようと、願い求め祈るのです。救ってくださる方はイエス様しかいないのですし、滅びるのを黙って見ているわけにはいかないのです。その人を愛しているからです。神様を説得するほどの思いを持って、祈れば良いのです。イエス様御自身、マタイによる福音書18章19節で「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」と約束されています。マタイによる福音書21章22節では「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」と約束され、マタイによる福音書7章7~8節では「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と約束してくださっています。マルコによる福音書11章24節には「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」とあり、ヨハネによる福音書14章13節には「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」とあります。ヨハネによる福音書15章7節には「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」とあります。このような、祈りに対して応えてくださるという約束を、イエス様はこの他にも幾つもされています。このイエス様の約束を信じて、執り成しの祈りをしていくこと。それが、先に救われた私共に求められていることであり、神様、イエス様は、それを喜んで受け取ってくださるのです。愛する故、この人のために、信じて祈ってまいりましょう。

[2014年8月24日]

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