富山鹿島町教会

礼拝説教

「大切なことは何か」
申命記 10章12~15節
マルコによる福音書 7章1~13節

小堀 康彦牧師

1.平和を願う
 先週は、広島・長崎に原爆が落とされた記念日がありました。今週は、敗戦記念日があります。毎年この時期になりますと、私共は先の大戦のことを思い起こします。そして、二度とあのような悲惨な出来事が繰り返されることがないようにと、心から願うのであります。しかし残念なことに、今年もイラクで、パレスチナで、ウクライナで、その他世界の各地で、激しい戦闘が行われています。どうしてこんなことが続くのかと、本当に悲しくなります。神様によって御自身に似た者として作られた人間が、その本来の神様の創造の意図を忘れ、互いに自分の正しさを主張し、憎み、争い、傷つけ合っている。どんなに神様は御心を痛めておられるだろうかと思わざるを得ません。相手を傷つけ、痛めつけ、亡き者にしても良いほどの正しさとは何なのだろうか。そんな正しさが本当にあるのだろうか。原爆を落としても良い正しさなどあるのだろうか。改めて思わされるのです。
 自分は正しい。自分は悪くない。悪いのは相手の方だ。徹底的にそう思わなければ、そう信じなければ、とても戦争など出来ないでしょう。国と国とになれば戦争ですが、個人のレベルでも同じことです。しかし、そんな正しさを人は持っているのだろうか。そんな正しさを持っている人などいるのか。今朝与えられている御言葉を通して、神様はそう私共に語りかけておられるのではないかと思います。

2.エルサレムから遣わされた人々
 7章1節に「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。」とあります。イエス様がガリラヤ地方で活動を始められ、人々に教え、様々な奇跡を為された。そのことがエルサレムにまで聞こえたのでしょう。わざわざ、エルサレムからファリサイ派の人々と何人かの律法学者が遣わされて来たのです。もちろん、イエス様に教えを請いに来たのではありません。イエス様の活動が、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の立場から見て、放って置いても良いものであるかどうかを見に来たのです。査察に来たと言って良いでしょう。
 そこで彼らは、イエス様の弟子たちの中に手を洗わないで食事をする人がいるのを見たのです。彼らはイエス様に、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのか。」と尋ねました。これは、単に尋ねたのではありません。なんということをしているのかと、イエス様を糾弾しているのです。

3.口伝律法と汚れ
 それにしても、どうして食事の前に手を洗わなかったくらいのことで大騒ぎするのか。私共にはこの感覚は全く分かりません。マルコによる福音書は、その辺のことを私共にも分かるようにと、3~4節で説明しています。「-ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」しかし、これを読んだだけではあまりよく分からないでしょう。この根っこにあるのは「汚れ」という考え方なのです。ユダヤ人たちが念入りに手を洗ってからでないと食事をしなかったのは、聖書の中に、そうするようにと記されていたからではありません。こうしなければいけないという戒を作り、それを口伝えで伝えてきたのです。これを口伝律法と言ったり、ハラカと言ったりします。この口伝律法というのは、例えば、聖書の中には「安息日を聖別せよ。七日目はいかなる仕事もしてはいけない。」とあるのですが、どこまでならしても良いのか、その具体的なことは記されていません。そこで、食事の準備はしても良いのか、火を使うのはどうか、火をおこすのはどうか、字を書くのはどうか、いろいろ具体的に決めていったのです。それが口伝律法です。その中に、食事の前に手を洗うというのもあったのです。そして手を洗うにしても、どのように洗うのか、その作法まで決まっておりました。  食事の前に手を洗うということは、律法には記されておりません。しかし、食べても良い清いものと食べてはいけない汚れたもののリストはありました。また、神様の前に出て特別な儀式を行う時には、水で体を清めるべきことは記されています。想像ですけれど、この二つの律法が組み合わさって、食事の前には手を洗うという口伝律法が生まれたのではないかと思います。
 人は、いろいろな物に触れるわけです。そうすると、汚れた人が触った物にも、知らずに触れている可能性があるわけです。特に、市場のようなところに行きますといろいろな人がいるわけで、そのいろいろな人に手だけではなくて、雑踏の中で汚れた人や汚れた物に触れているかもしれない。それで、市場から帰った時には水で沐浴してからでないと食事をしないということになっていたのです。ここにあるのは、汚れというものを徹底的に排除しようという、涙ぐましい程の努力です。問題は、この汚れなのです。自分たちは律法を守っているので清い、聖なる民だ。しかし、律法を守っていない者は汚れた者であり、救われない者であるという理解が根っこにあるのです。

4.聖なる民
 確かに、神様はイスラエルの民を聖なる民とされました(申命記7章6節)。しかし、この「聖なる民」というのは、「聖なる神様のものとされた民」という意味なのであって、イスラエルを清い民だと言われたわけではないのです。また、神様はイスラエルを「宝の民」とされました(申命記7章6節)が、それもイスラエルの民が特別に優れた民であって神様に愛される価値のある民だから「宝の民」なのではないのです。イスラエルの民は、どの民よりも貧弱で取るに足りない民だけれども、神様はその民を愛し、選ばれたのです。神様は、イスラエルの民の側には何の根拠もない、ただわたしが愛し、選んで「宝の民」としたのだと言われたのです。ところがユダヤ人たちは、自分たちは神様の聖なる民であり、神様の宝の民であり、汚れた者と一緒に居ることは出来ない。汚れが移る。そう考えるようになってしまったのです。そして、律法を守らない罪人や異邦人とは、間違っても食事をしない。そういう中で、食事の前に手を洗うという行為が、とても大切な宗教行為となっていたということなのです。そして、この口伝律法を厳格に守ろうとした、守らねばならないと考えていたのが、ファリサイ派の人々であり、律法学者という人たちだったのです。
 ですから、エルサレムから来たファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエス様の弟子が食事の前に手を洗わないのを見て、鬼の首を取ったように大騒ぎしたのです。この5節の言葉には、イエス様に対して「食事の前に手を洗うという初歩的なことさえも弟子たちに守らせることが出来ないで、あなたはいったい何を人々に教えるというのですか。」そんなニュアンスがあると思います。

5.どこまでも自分は正しいとする信仰の歪み
 イエス様は、この指摘を受けて真っ向から対決されます。6節「イエスは言われた。『イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。』」と言われたのです。ファリサイ派の人々のことを偽善者だと言い切ったのです。これはもう、ケンカを売ったというか、ケンカを買ったというか、真っ向対決です。そして、イザヤ書を引用して、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。」と言い放ったのです。これは、「手を洗わないで食事をしていると言ってあなたがたは責めているけれど、食事の前に手を洗えというのはそもそも神様が与えた律法ではなく、人が勝手に作った、人間の戒めではないか。あなたがたは神様を敬うかのように言っているが、本当は自分の正しさを主張しているだけだ。神様の前に、本当にひれ伏しているわけではない。やっていることは偽善だ。」そう言われたのです。
 イエス様は、ファリサイ派や律法学者の信仰のあり方が、根本において間違っている、歪んでいるということを指摘されたのです。どこが間違い、歪んでいるのか。それは、自分で自分を正しい者とするために口伝律法を作り、それを守ることによって神様の本当の御心を捨てているということなのです。神様が求められるものは何か。それは今、詩編51編を交読しましたが、そこに「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」とありますように、神様の御前に自らの罪を悔い改めるということでありましょう。私共の罪は、手を洗ったくらいで洗い流すことが出来るはずがないのです。神様は、本当に心から自らの罪を悔いることを求めておられるのに、食事の前に手を洗ったから私は汚れていない、私は清い、そんな風に考えていたのでは、どう考えても御心に反している。人間の戒は、そのような役割を果たしているのではないか。そうであるなら、それは神様を侮っていることであり、心は神様から遠く離れていると言わねばならない。それが、イエス様の言おうとされたことだったのです。
 イエス様は、更に具体的な例を挙げられました。10節「モーセは『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。」これは十戒の第五の戒のことです。11~12節「それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。」これは、年老いた両親の面倒を見るのは十戒の第五の戒から当然しなければならないことなのですが、そこで両親を養うために用いる財産を、これはコルバンです、つまり、これは神様に供える物ですと宣言すれば、それを両親を養うために用いなくても良い。そのように口伝律法で教えていたのです。この理屈は正しいのです。神様への供え物は、たとえ親のためでも用いない。神様への供え物は一番に優先されなければならない。それは正しいのです。しかし、その正しさを隠れ蓑にして、自分の両親の面倒を見るということから逃れようとする人間の罪。これこそ偽善ではないか、とイエス様は言われているのです。宗教的な正しさというものが、人間の罪を隠すために利用される。イエス様は、その人間の罪をきちんと見るように促しておられるのです。人間の罪の根っこに、自分は正しいとどこまでも主張する傲慢というものがあることを、イエス様は見抜いておられたのです。
 これは何も、ファリサイ派の人々や律法学者に限ったことではありません。私共キリスト者もまた、同じ過ちを犯すのです。私はクリスチャンだから正しい。私は毎週礼拝を守っているから正しい。私はこれだけ献金しているから正しい。私は毎日お祈りしているから正しい。いろいろな正しさで、私共は身を固めようとします。確かに、神様の御前に正しく生きようとすることは大切です。神様はそのガイドとして律法を与えてくださいました。「律法を守ることなどどうでも良いのだ。」などと、イエス様は決して言われません。神様の御心に適った歩みをしようと願うこと。それは、神様に愛され、神様を愛する者として、当然の思いです。そのように生きる者として、私共は救われ、召し出されたのです。しかし、だから私は正しいとなるならば、話は別です。神様が求められるのは、悔い改めです。自らの罪に気付き、神様に赦しを求めることです。自分は正しい、あなたは間違っているというような、「自らの正しさ」の上に立つことではないのです。まして、あなたは汚れている、救われない、そのようなあなたと一緒に居ることは出来ません、そのような所に立つことでは断じてないのです。イエス様は、罪人たちとも一緒に食事をしました。これは、自らが正しいと考えているファリサイ派の人々や律法学者から見れば、全く考えられないことだったのです。

6.正しいのは神様だけ
 では、どうしてイエス様は、弟子たちが食事の前に手を洗わなくても平気であり、罪人とさえ一緒に食事をされたのでしょうか。それは、イエス様は神様の御子であるが故に、神様が罪人に対してどのような思いを持っておられるかを御存知だったからです。そして、それは愛だったのです。神様は、罪人がそのまま滅びることを望んでおられない。この罪人もまた、神様の愛の中におり、それ故神様との愛の交わりに生きることを望んでおられることを御存知だったからです。だからイエス様は、父なる神様の御心と一つになって、罪人とも一緒に食事をされたし、手を洗わない弟子たちに汚れを落とすようにと指導もされなかったのです。私は清く正しい。あなたは汚れている。この思いこそ、弟子たちの心の有り様から取り除かねばならないものと考えておられたからであります。
 私共は神様の御前に正しくありたいと願います。正しく歩もうとします。しかし、どうしても私共は正しい者にはならない、なれないのです。根本的な罪を抱えているからです。完全に神様に従い切ることが出来ないのです。自分のことを一番にして、神様を後回しにする。それが私共の姿なのです。ですから、正しいのは聖なる神様だけなのです。私共は、この聖なる神様の御前に立つとき、ただ自らの罪を知らされ、悔いて、罪の赦しを求める者でしかないのです。私共は、自分が正しいと思った時こそ、神様の御前に悔い改めるべき者であるということを思い起こさなければならないのでしょう。

7.神様の御前で
 広島・長崎で原爆が落とされました。日本は唯一の被爆国です。だから私共は、二度とこのような悲惨な出来事を繰り返さないようにと願うし、語っていく。しかし、同時に近隣諸国に対して酷いこともしたのです。私共は、神様の御前に正しい者でなかったことを悔い改めなければなりません。そして同時に、神様の御前に正しい者として歩もうと、戦争が無い世界にしていこうと、努めていかなければならないのでありましょう。この二つのことは一つのことなのだと思います。神様の御前に立つ時、この二つは一つになるのです。しかし、自分の正しさに立とうとする限り、この二つは決して一つにならないのです。神様の御前に立たずに正しくあろうとすれば、その正しさは必ず人を裁くことになるのですし、自分は正しいのですから自らの歩みを悔いることはないのです。
 それは、神様を愛することと隣人を愛することが一つであるのと同じでしょう。自分の正しさの上に立とうとする者は、神を愛することも人を愛することも出来ません。自分が正しくないことを知らされた者は、神様の前に悔い改め、隣り人との関係においても、自らの過ちを認めることが出来るのです。そしてそこに、愛をもって生きるという、新しい道が拓かれていくのでしょう。神様を愛し、隣り人を愛するという道です。そして、この愛に生きるという道こそ、主イエス・キリストによって私共に与えられた新しい道なのです。自分の正しさの上に立とうとしてはなりません。それは、神様の御前にぬかずくことも、隣り人に仕えることからも私共を遠ざけるからです。私共が立つところは、ただ神様の正しさであり、神様の憐れみです。誇る者は主を誇れ、なのであります。

[2014年8月10日]

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