富山鹿島町教会

伝道開始記念礼拝説教

「主イエスに触れる」
詩編 17編6~12節
マルコによる福音書 6章53~56節

小堀 康彦牧師

1.伝道開始から伝道教会へ30年
 今朝は、伝道開始記念礼拝として、主の日の礼拝をささげています。1881年(明治14年)8月13日から15日にかけて、金沢教会のトマス・ウィン宣教師一行が富山を訪れ、旅籠町の山吹屋を借りて伝道集会を開いたのが、私共の教会の伝道開始の時であり、富山に初めてキリストの福音が宣べ伝えられた時でもあります。トマス・ウィンは、その2年前の1879年に金沢に来て伝道を開始し、1881年5月には金沢教会が設立されました。そして、その3か月後の8月に富山へ伝道しに来たのです。ですから、金沢教会の教会設立と私共の教会の伝道開始は同じ年ということになります。
 しかし、私共の教会は、教会設立までなかなか至りませんでした。日本基督教会の伝道教会となるまで、約30年かかりました。伝道教会となったのは1912年(明治45年)のことです。中村慶治牧師の時でした。ですから、教会設立という点から言えば、私共の教会は今年で102年ということになります。伝道教会設立までがどうであったかと申しますと、講義所と言われておりました。その講義所の時も、伝道者、牧師はおりましたけれど、自前の会堂を持っておりませんでした。借家でやっていたわけです。しかし、1902年(明治35年)に在日プレスビテリアン宣教師社団、つまり、日本に派遣されてきた長老教会の宣教師たちの伝道のための団体ですが、ここが総曲輪の100坪の土地、元の総曲輪小学校の前にあった土地ですが、これを買って、それをまだ講義所であった私共の教会に与えてくれたのです。そしてその土地に会堂を建て、10年間伝道し、1912年にやっと伝道教会となったのです。ちなみに、「伝道教会とは現住陪餐会員15名以上、献金年額60円以上を有する団体」という規定がありました。伝道教会となった1912年の教勢は、礼拝出席15、6名くらいではなかったかと思います。

2.伝道教会としての30年  ですから、この中村牧師が私共の教会としては初代牧師ということになるかと思います。この中村牧師は1919年(大正8年)に金沢殿町教会、これは現在の金沢元町教会ですが、そこへ転任されるまで17年間、伝道教会となってからは7年間、在任されました。
 その後任として来られたのが、亀谷凌雲牧師でした。亀谷牧師はちょうどその年に郷里である現在の富山市新庄において開拓伝道を始められたところでした。これが現在の富山新庄教会です。亀谷牧師は、私共の教会と新庄教会を自転車をこいで通われ、新庄の開拓伝道と私共の教会の伝道を担ってくださったのです。この亀谷牧師が私共の教会の二代目牧師ということになります。その頃の富山伝道教会の様子を、「求道者は多数にあれど、信仰熟し受洗せんとすれば、家族や親戚の妨害ありて中止する者多く、為に受洗者無きは痛心の至りなり。」と、『福音新報』という、植村正久が出しておりました基督教会内の事情を報じた週刊新聞の中に記されております。この様なことは今でも起き得ますが、100年前の富山ではむしろ当然のことだったのでしょう。亀谷牧師について、古い信徒の方はよく御存知ですが、新しい方のために少しご紹介しましょう。亀谷凌雲牧師は、その凌雲という名前からも分かりますように、お寺の子です。新庄にある浄土真宗大谷派のお寺の長男として生まれ、第四高等学校、東京帝国大学哲学科へと進まれ、卒業して中学校の先生をしていた時に洗礼を受け、神学校に行かれて牧師になった方です。どうしてお寺の子が牧師になったのか興味があるかと思いますが、その辺のことは『仏教からキリスト教へ』という亀谷先生自身が著した本に詳しいです。この本を印刷されていたのが、先週葬式を行いましたT.T兄でした。この亀谷先生はその後、新庄における開拓伝道に専心するために、富山伝道教会を辞任されました。1928年(昭和3年)のことです。亀谷先生は10年程、私共の教会の牧師として働いてくださったのです。亀谷先生にはその後もいろいろお世話になることになります。亀谷先生は、私共の教会にとって忘れることの出来ない恩人のような方です。
 亀谷先生の後、後任の牧師はすぐには決まらず、高岡教会の大山牧師がしばらく兼務してくださいましたが、幸い数ヶ月後、浜甚二郎牧師が三代目牧師として着任されました。1928年(昭和3年)11月のことです。しかし、浜牧師はわずか5ヶ月で体調を崩され、辞任されてしまいました。浜先生は、東京神学舎からカナダのバンクーバーの神学校で学んでこられた有為な方でしたが、残念なことでした。
 そして、1年間の無牧を経て、四代目牧師として馬淵康彦牧師が着任されました。当時の教勢は、福音新報に「朝礼拝 男16、女21、計37名。夕礼拝 男11、女5、計16名」とあります。そして、「薬学専門学校、師範学校、高等学校の男女のグループが各自互いに確固たる一致と結束を強めて、非常に熱心に集い、その属する学校内に種々なる伝道戦術を試みている。」とあります。若い教会の、若い牧師と若い教会員たちの伝道の息吹が伝わってくるようです。この人数なら独立教会になっても良さそうですが、学生が多く、経済的に自立する所までいっていなかったのでしょう。そして、1933年(昭和8年)、馬淵牧師は3年半で和歌山県の田辺教会へと転任されていきました。そして、1937年(昭和12年)、当教会から転任されて4年後に若干37歳で天に召されました。
 そして、1933年に五代目牧師として田口政敏牧師が着任されました。田口牧師は高岡市伏木の出身で、お父さんは伏木の神官(神主)でした。この田口牧師のお子さんが、大阪の森小路教会で長老をされており、7、8年前に礼拝に来られたことがありました。この田口牧師から、先日葬式をしたT.T兄は洗礼を受けております。また、私共の教会の現在最高齢であるM.S姉も、この田口牧師から洗礼を受けられました。田口牧師は8年程ここで牧会され、1941年(昭和16年)に高岡教会へ転任されました。
 ここで私共の教会は再び亀谷先生に兼務していただくことになりました。そして、この年、日本基督教団が成立し、私共の教会は「日本基督教団富山総曲輪教会」と改称することになったのです。その時の教会員数は男17名、女21名、計38名でありました。

3.伝道開始から60年
 さて、駆け足で、伝道教会として立ってから日本基督教団成立までの約30年間を見てまいりました。私共の教会の伝道開始から133年というのは、伝道開始から伝道教会になるまで30年、伝道教会として日本基督教団成立まで30年、そして日本基督教団になってから73年ということなのです。それが、私共の教会の伝道開始から今までの歩みなのです。
 今回は、駆け足で日本基督教会の伝道教会時代の30年間を振り返りました。この30年の間に、中村、亀谷、浜、馬淵、田口の5人の牧師が伝道に励まれました。30年間で5人の牧師ですから、それぞれの在任期間はみんなそんなに長くはありませんでした。またその30年間に、目覚ましい発展があったというわけでもありません。しかしそれでも、中村牧師の時に15、6名だった礼拝出席は、倍くらいになりました。しかしこの後、日本は大東亜戦争へと突入していくのです。キリスト教は敵性宗教ということで、監視されるようになり、教会に来る人は激減します。そしてあの8月1日の空襲によって、教会堂は燃えて無くなってしまいました。伝道開始から60年かけてやっとここまで来たのに、全ては元の木阿弥。そんな気がしないでもありません。しかし、今朝私共が心に刻むべきは、そういうことではないのです。

4.礼拝が捧げられ続けてきた133年
 伝道開始133年記念のこの時、私共が心に刻むべき第一のことは、ここに教会が建ち続け、主の日のたびに礼拝がささげられ、聖礼典が執行され続けてきたということです。
 今朝与えられております御言葉において、53~55節「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。」とあります。人々は、救いを求め、助けを求めて、イエス様の所に病人を連れて来たのです。もちろん、教会は病院ではありませんので、病人を連れて来られても困ります。しかし、神様に救いを求める人々が、そこに行けば神様に出会える、神様の救いに与ることが出来る、そういう所がなくてはなりません。そして、私共の教会は、133年間そのような存在としてこの富山の地に立ち続けてきたのですし、今も立っているのです。教会が立ち続けてきた。立ち続けている。このことに、私共は神様の恵みの御業と御心とを見なければならないのです。教会は、人間の熱心によって建てられたり、建ち続けたりすることが出来るものではないのです。神様の御心と神様の御業によって建てられ、建ち続けることが出来るのです。
 人々が神様に救いを求めた時、ここに来なさい、ここに来れば神様が分かる、神様と出会える、神様の救いに与ることが出来る、そのような存在としてキリストの教会はあるのです。だから、教会はキリストの体と言われるのです。キリストが聖霊として臨み、御言葉を語られる。その御言葉によって、主イエス・キリストを仰ぎ、拝むことが出来る。それがキリストの体です。いつの時代にも、道が分からず、困り果て、救いを求める人々はいます。その人がどこに行けば良いのか、どうすれば良いのかという時に、ここに来なさい、ここに来ればもう大丈夫、そう言い切れる所として教会は立ってきたし、立っているということなのです。

5.牧師が与えられ続けた133年
 第二に、この地に住む人を救いに与らせるために、時に無牧の時があったとしても、神様はこの教会に牧師を立て続けたということです。私共は今、私共の教会の最初の30年間における5人の牧師について見ました。一人の在任期間はあまり長くはありません。中村牧師は、講義所時代からですと17年ですが、教会となってからは7年です。二代目の亀谷牧師は10年、三代目の浜牧師は5ヶ月、四代目の馬淵牧師は3年半、五代目の田口牧師は7年でした。それぞれの牧師は、在任期間の間、この地にあって全力を注いで主イエス・キリストというお方を紹介し続けました。何とか、主イエス・キリストに触れて欲しい、出会って欲しいと願ってのことでありました。牧師たちは、何とかしてこの富山の地に住む一人でも多くの人にイエス様に出会って欲しいと願い、御言葉を語り続けたのです。そして、一人また一人と主イエスを信じ、主イエスの救いに与る人々が起こされていきました。あっという間に信徒が増えた、そういうことではありません。しかし、講義所持代の30年間で主の日の礼拝者は0名から15、6名に、そして伝道教会時代の30年間で15、6名から30数名になりました。
 この歩みを遅々たるものであった見ることも出来るでしょう。しかし、効率が悪いから、成果が上がらないからと、神様はこの富山の地における伝道を止めたりはされなかったのです。神様はこの教会に伝道者を送り続け、この地における伝道を継続し続けられたのです。それは、神様の御心がこの133年の間少しも変わることがなかったということです。神様は、一人でも多くの、この富山に住む人を、何としてでも救いたいのです。その神様の御心を具体的に身に帯びた者として伝道者は遣わされて来たし、立ち続けてきたのです。この御心は、今も少しも変わりません。

6.主イエスに触れられた者の群れとして133年
 この伝道教会の時代の5人の牧師の中には、お寺の子もいれば神主の子もいました。外国に留学した人もいましたし、体調を崩された方もいましたし、若くして天に召された方もいました。彼らは、与えられた任期の期間、この富山の地で、神様に遣わされた者として全力を注いで伝道しました。それは、この5人の牧師たちが主イエス・キリストと出会い、主イエス・キリストの救いに与った者であったからでありました。亀谷先生は私共の教会にとって忘れることの出来ない方でありますが、お寺の跡継ぎであったのに、キリスト者となり、牧師にまでなりました。神主の子であって牧師になった人もいる。どうして、牧師になったのか。それは、彼らが主イエス・キリストというお方と出会い、この方に救われたからに他なりません。
 今朝の御言葉において、56節に「村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」とあります。ここで、病人はイエス様の服のすそに触れたいと思い、触れた者は皆癒されたと記されています。しかし、これはイエス様の服に不思議な力があったということではありません。そうではなくて、「イエス様の服にでも触れれば癒されるのではないか。」という、イエス様に救いを求める人々の思いをイエス様がしっかりとお受け取りになった。そして、癒やされたということなのです。ですから、ここで示されております出来事は、病人がイエス様の服のすそに触れるということによって、逆にイエス様から触れられるということが起きたということなのです。そして人々は癒やされたということなのです。イエス様に救われるとは、そういうことなのでしょう。イエス様を見ようとしたら、イエス様に見つめられていたということに気付く。イエス様を愛そうとしたら、イエス様に愛されていたことを知らされる。イエス様を知ろうとしたら、イエス様に知られていることが分かる。そのようにして私共はイエス様に出会うのです。このようにして、イエス様は私共に出会ってくださるのです。この出会いによって、私共はイエス様の救いに与る者とされたのでしょう。救われたのでしょう。イエス様を愛する者とされ、イエス様を信頼する者とされ、イエス様に従う者とされたのでしょう。
 良いですか皆さん。イエス様の救いに与って、「自分は救われた。良かった。でも、自分だけが救われれば良い。他の人はどうでも良い。」そんな風に考える人はいないのです。何故なら、イエス様に救われた者はイエス様の愛を受け取っていますから、イエス様の愛はその救われた人の中に宿り、一人でも多くの人がこの救いに共に与って欲しいと願う者とされるからです。この教会は、そのような者の群れとして、133年ここに建ってきたのです。皆、イエス様に触れていただいたからです。イエス様に救われたからです。私共は、これからもそのような群れとしてここに建ち続けていくのです。

[2014年8月3日]

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