1.大丈夫
昨日、私は代務者をしております福野伝道所のスペシャル・デーという行事に行ってまいりました。福野伝道所は、福野青葉幼稚園と共に長い間、福野の地で伝道を進めています。福野青葉幼稚園のホールが、主の日には礼拝堂になります。礼拝が終われば、月曜日からの保育に備えて、椅子を片づけます。
このスペシャル・デーという行事は、幼稚園の卒園児とその父兄を招き、伝道所の人たちと幼稚園の教師が一体となって行う行事なのです。毎年プログラムは違うようですが、今年は、午後3時からの第一部では、子どもたちだけを招いていろいろなゲームをして楽しみ、午後6時からの第二部は、父兄も参加してバーベキューや流しそうめんや花火をして楽しんだのですが、その第一部と第二部の始めに礼拝がありまして、そのために私も行きました。大人と子どもで、70人くらいの参加者がありました。前任地の教会にも幼稚園がありましたので、懐かしく楽しい時を過ごしてまいりました。また、いろいろ教えられることも多かったです。トウィーディー宣教師以来、85年にわたって福野の地に十字架を掲げて立ち続けている幼稚園と伝道所の力のようなものを感じてまいりました。
ちょうど家を出ようとしていた頃、まさに嵐と言うべき天気になりました。バケツをひっくり返したような雨が降り、雷も鳴る。今日はどうなることかと思いました。しかし、車で福野に近づくにつれて雨も小雨になってきて、福野に着く頃には雨は止み、これなら何とか保つのではないかと思う空模様になってまいりました。福野青葉幼稚園の園長であり、福野伝道所の役員でもある唐島先生という方がこの行事の責任者で、いろいろと準備をされていました。きっとこの空模様でヤキモキしておられるのではないかと思って、「天気が保つと良いですね。」と声をかけました。すると、唐島先生はにっこり笑って、自信満々に「大丈夫。」と言われたのです。私は、「大したものだなあ。」と思いました。私は小心者ですので、行事の前になりますといつも天気のことが心配で、特に昨日のような空模様ですと、とても笑顔で大丈夫なんて言えないのです。
大丈夫。これは本当に素敵な言葉です。私は、この一年間だけ福野伝道所と福野青葉幼稚園に関わっているのですが、子どもたちや保護者の方々と礼拝を守るたびに、「大丈夫」という言葉をキーワードに聖書のお話をしています。その「大丈夫」を、先に唐島先生に言われてしまったわけです。大丈夫。どんな時でもどんな状況の中でも大丈夫。イエス様がいてくださるから大丈夫。神様が守ってくださるから大丈夫。神様が道を拓いてくださるから大丈夫。この「大丈夫」を、いつでも言える者でありたい、そう思うのです。
しかし、これがなかなか言えないのです。「大丈夫」ではなくて、すぐに「どうしよう」という言葉が心に浮かび、口に出てしまうのが私共です。しかし、そのような私共に、神様はいつも働きかけてくださり、出来事を起こし、大丈夫と言える者に変えていってくださる。信仰無き私共に、信仰を与え続けてくださるのです。今朝も、神様は私共に御言葉を与え、大丈夫と言える信仰を与えようとしてくださっています。御言葉に聞いてまいりましょう。
2.海の奇跡
今朝与えられております旧約の御言葉は、旧約において最も有名な出来事が記されている所です。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民に、エジプト軍が迫ってきています。前は海です。イスラエルの民は絶体絶命のピンチです。この時イスラエルの民はモーセにこう言うのです。11~12節「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。いったい、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」この時に至るまで、イスラエルの民は何度も何度も神様の御手による奇跡を経験しているのです。蛙の奇跡、あぶの奇跡、疫病の奇跡、雹の奇跡等々、そして過越の出来事も経験しているのです。それでも、前は海、後ろはエジプトの軍隊という状況になりますと、ダメなのです。大丈夫などととても言えないのです。神様に向かって、モーセに向かって、文句を言い始めるのです。ここには私共の姿があります。私共も、神様の守り、支え、導きというものを何度も何度も経験してまいりました。それでもやっぱり、苦しい困難な状況になりますと、どうして私だけこんな目に遭わなきゃいけないのかとつぶやき始めるのです。なかなか、大丈夫と思えないのです。
そのような、うろたえ、つぶやくイスラエルの民に対して、モーセはこう告げました。13~14節「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」恐れるな。落ち着け。今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。モーセは、イスラエルの民を叱りつけるように告げるのです。そして、モーセは神様に祈り、神様はモーセが海に向かって手を差し伸べると、海の水を分かれさせて道を造り、イスラエルの民はその海の中に拓かれた道を通って逃げることが出来たのです。これは本当に大きな、その後何千年にもわたって神の民において語り継がれる大きな出来事でした。
しかし、イスラエルの民は、この出来事によってどんな時も大丈夫と言える民になったかと申しますと、そうはならなかったのです。食べ物が無くなればエジプトの方が良かったと不平を言い、水が無くなればつぶやくのです。そのたびに神様は、マナを与え、うずらの大群で肉を与え、岩から水を出して、イスラエルの民を養われたのです。神の民が、いつでもどんな時でも神様を信頼して大丈夫と言って歩むことが出来るようになるには時間もかかるし、並大抵のことではないのです。私共もそうなのです。生まれつき信仰深いなどという人は一人もいないのです。神様を信じたといっても、誰でも不安になるし、大丈夫と言いたいけれど言えない時があるのです。しかし神様は、そのような不信仰な私共を全部承知の上で召し出し、神の子とし、御国への道を歩ませてくださっているのです。神様は、その都度その都度、必要のすべてを備えてくださり、全能の御腕を以て私共を守り、支え、導いてくださっているのです。その神様の御業はあまりに多くて、数え上げることが出来ないほどなのです。
3.私共を見て、救われる主イエス
さて、マルコによる福音書の御言葉を見ましょう。45節に「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。」とあります。「それからすぐ」というのは、直前の、男だけで五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で養われたという奇跡が行われたすぐ後でということでしょう。イエス様は、弟子たちだけを舟に乗せてガリラヤ湖の向こう岸にあるベトサイダに向かわせ、御自身は群衆を解散させられました。ここで、イエス様と弟子たちは別れたのです。弟子たちは舟の上、イエス様は陸の上です。ところが、弟子たちが乗っている舟が逆風に遭って、少しも前に進まない。弟子たちが舟に乗ったのは夕方だと思われます。それが、夜が明ける頃になっても、つまり12時間、丸半日、夜通し舟を漕いでも、逆風にあおられて向こう岸に着くことが出来なかったというのです。その間、イエスさまは何をしておられたのでしょうか。46節「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」とあります。イエス様は山の中で祈っておられたのです。
マルコによる福音書の4章35節以下にも、同じような状況が記されていました。弟子たちとイエス様を乗せた舟が、やはりガリラヤ湖で嵐に遭ったのです。この時、イエス様は風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ。」と言われました。すると、嵐は静まってしまいました。しかし、今回は弟子たちの乗った舟にイエス様はおられません。そのことを強調するように、47節「舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。」と記されています。弟子たちは湖の真ん中、イエス様は陸の上。携帯電話もヘリコプターもありません。この弟子たちとイエス様の隔たりは絶対的なものでした。しかし、48節には「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」とあります。いったい、イエス様はどのようにして弟子たちを「見た」のでしょうか。夜明け前の暗闇の中だけれど、イエス様は見晴らしの良い山の上にいたので、湖を見渡すことが出来て、弟子たちの舟が逆風の中で立ち往生しているのが見えたということなのでしょうか。そうではないでしょう。イエス様は祈っておられたのです。その祈りの中で、イエス様は弟子たちの状況を見たということではないかと思うのです。弟子たちにはイエス様の姿は見えません。しかし、イエス様は、いつでもどんな時でも、弟子たちの状況を祈りの中で覚えて、見てくださっているのです。この近さを、聖書は告げているのです。弟子たちには見えない。しかし、イエス様には見えている。私共もそうなのです。イエス様のことは見えない。しかしそれは、イエス様が私共から遠いということを意味していないのです。イエス様は、私共一人一人を、その祈りの中で見ておられるのです。弟子たちが、イエス様に祈っていただいていたように、私共もまた、イエス様に祈られ、見ていただいているのです。私共の一足一足の歩みは、このイエス様の祈りのまなざしの中にあるのです。
イエス様は、弟子たちの困り果てた状況をただ見ていただけではありませんでした。イエス様は湖の上を歩いて、弟子たちのところに来られたのです。これは、弟子の誰も考えてもいないあり方でした。イエス様は、いつも私共の思いを超えたあり方で、その御姿を現し、救いの御業を行われます。私共が、こうなったら良いのにと思うようには、なかなかなりません。しかし、イエス様は、神様は、私共の期待以上、私共が考えていなかったあり方で、大丈夫と言えるようにしてくださるのです。出来事を起こしてくださるのです。この時もそうでした。イエス様は、何と湖の上を歩くというあり方で、弟子たちのところに来られたのです。
しかしこの時、弟子たちは湖上を歩くイエス様を見て、幽霊だと思って、大声で叫んだのです。ギャー!おばけー!というような叫びだったかもしれません。暗い湖の上を人が歩いているのを見れば、誰でもそう思うでしょう。そして、イエス様が弟子たちの舟に乗り込まれると、風は静まりました。弟子たちは非常に驚きました。そして聖書は52節で「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」と告げるのです。
4.神の御子、イエス・キリスト
パンの出来事。これは先週見ましたように、物質保存の法則を超えてしまっているわけで、これはイエス様が、無から全世界を造られた全能の神様の独り子であることを示しているわけです。しかし、弟子たちはそのことを理解していなかったというのです。大変な力を持った方だとは思ったでしょう。これで、食べることは心配しなくて良いと思ったかもしれません。しかし、イエス様がただ一人の神様の御子、まことの神であられるという理解には至らなかったというのです。
実は、この湖の上を歩いてこられるイエス様の出来事も、イエス様がまことの神であられるということを示しているのです。それは二つのことから言えます。第一に、48節「湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」という所と、50節のイエス様が弟子たちと話された「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」という所です。
どうして、イエス様は湖の上を歩いて近づいてきたのに「そばを通り過ぎようとされた」のでしょうか。通り過ぎて、先に何があるというのでしょう。しかしこれは、旧約において、神様が自らの姿を現される時の現し方なのです。二つの例を挙げますと、モーセが神様に栄光を示してくださいと求めた時、神様はモーセを岩の裂け目に入れて、栄光を通り過ぎさせました(出エジプト記33章18~23節)。また、預言者エリヤが、バアルの預言者と戦い、王妃イゼベルに命を狙われてホレブの山に逃げた時、エリヤの前を主が通り過ぎて行かれました(列王記上19章11節)。このように、イエス様が弟子たちの前を通り過ぎるというあり方は、イエス様がまことの神であることを示しているのです。
また、イエス様がここで「わたしだ。」と言われているのは、神様が御自身のことを言われる時の言い方なのです。ヨハネによる福音書をご一緒にお読みしました時、このことには何度も触れましたが、ギリシャ語で「エゴー、エイミ」というのは、神様がモーセに御自身の名を告げられた所で言われた、「わたしはあるという者だ。」(出エジプト記3章14節)をギリシャ語に置き換えたものなのです。つまり、イエス様はここで、「わたしは神だ。アブラハム、イサク、ヤコブが拝んだ神、イスラエルをエジプトから導き出した神である。だから、安心しなさい。恐れることはない。」と言われているのです。天地を造られたまことの神様であるイエス様が、共にいてくださる。だから大丈夫なのです。ここに私共の平安の源があるのです。
5.順風満帆でなくても
しかし、この時弟子たちが湖の上で逆風にあおられ、にっちもさっちもいかなかったのは、イエス様が舟に強いて乗せたからではないか。弟子たちはイエス様に舟に乗せられなかったら、そもそもこんな目に遭わなくて済んだのではないか。その通りなのです。イスラエルの民もエジプトにいたままだったら、奴隷のままでいたのなら、苦しい出エジプトの旅をする必要はなかったのです。このことは何を意味するでしょうか。それは、神様に召し出されて始まった私共の信仰の歩みは、決して順風満帆であるわけではないということであります。そして、たとえ順風満帆でなくても、それでも私共は大丈夫なのです。
それは、個々人の信仰の歩みにおいてもそうですし、昔から舟にたとえられるキリストの教会の歩みにおいても同じです。逆風に吹かれたり、嵐に遭ったりするのです。漕いでも漕いでも、ちっとも前に進まない。もうダメだ。沈んでしまう。そう思うような状況に追い込まれることもあるのです。しかし、大丈夫なのです。天と地を造られた全能の神様が、その全能の御力を以て、私共を守り、支え、導いてくださるからです。福野伝道所は85年間その地で伝道し続けて、それでも教会員10名なのです。舟は少しも前に進まず、逆風にさらされ続けていると言っても良いかもしれません。しかし、沈みません。「大丈夫!」と笑顔ではっきり言い切るキリスト者がいるです。父なる神様の御前にあって、イエス様が私共のために執りなしの祈りをしてくださっているからです。このイエス様の祈りの中に、私共の一日一日はあるのです。だから、大丈夫なのです。私共の抱えている問題や課題は、私共の願ったような形ではなくても、必ず道が拓かれます。海の中にさえも道を拓いてくださる神様です。湖の上も歩いて来られるイエス様です。そのイエス様が、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と告げておられるのです。だから、私共は大丈夫なのです。敢えて言います。私共はたとえ死んだとしても、大丈夫なのです。復活の命が備えられているからです。だから、この一週もまた、安んじて神の国と神の義を求めて歩んでまいりましょう。
[2014年7月20日]
へもどる。