1.伝道報告から祈りへ
今朝与えられている御言葉は、「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」(30節)と始まっています。イエス様に遣わされた12人の弟子たちがイエス様の所に戻って来たのです。そして、彼らは自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。これは言い換えますと、弟子たちが自分たちの伝道報告をイエス様にしたということでありましょう。12人の弟子たちは2人ずつ組にして遣わされたのでありますから、6組の伝道報告がされたわけです。それぞれの組は別々の所に遣わされたのですから、違った人々と出会い、違った出来事に出会ったことでしょう。しかし、それは全く違った出来事でありながら、全く同じことが報告されたのだと思います。つまり、神様が生きて働いてくださり、自分たちを用いて救いの御業を遂行された、そのことが報告されたはずであります。全く違った所で、全く違った人に対して、全く違った出来事を通して、全く同じ神様が、全く同じ救いをもたらしてくださったということが報告されたはずなのです。もちろん、そこでは上手くいったこともあれば、上手くいかなかったこともあったでしょう。それをすべてイエス様に報告すると共に、弟子たちは互いにその報告を聞き合ったのです。それは実に楽しい時であったに違いありません。神様の救いの御業の報告を聞くということ、伝道報告を聞くということは、本当に楽しいことなのです。
週報にありますように、今週は月曜日に北陸連合長老会の牧師会があり、火曜日には全国連合長老会の常置委員会があり、私はそれらに出席してまいります。牧師会では説教の演習や神学書を読んでの学びが為されます。また、北陸連合長老会の今後の活動についても話し合われます。全国の常置委員会では、それぞれの委員会で活動の報告や全国会議で決められたことをどのように実行していくか等が話し合われたり、決められたりします。しかし、それだけではなくて、どちらの会においても、いつもかなり丁寧な報告が為されます。私は、これがとても大切なのだと思っています。北陸連合長老会の牧師会では、各個教会で何が為されたのか、為そうとしているのか、また、何名に洗礼が執行され、今洗礼準備会が何人に為されているのか、誰が亡くなり葬式がされたのか、といった報告、つまり伝道報告が為されるのです。全国の常置委員会においてもそうです。全国の各地域連合長老会の報告が為されます。伝道が進展している報告を受ければ、本当に嬉しく思います。もちろん、いつも良い話ばかりを聞くわけではありません。困難な課題が報告されることもしばしばです。特に、各地域連合長老会の報告の中で、無牧師の教会をこのように支えているということも報告されます。そして、その後で何が為されるのかと申しますと、祈りが合わせられるのです。その場で祈りの時が持たれますし、また、その会を散じて後、牧師の日々の祈りの中に、各教会のための具体的祈りが為されていくのです。
イエス様への伝道報告は、報告だけで終わることはあり得ないのです。それは、必ず祈りへとつながっていくのです。この時もそうでした。イエス様は弟子たちの伝道報告を聞くと、31節「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」と言われたのです。ここでイエス様が休むように言われたのは、単に肉体の疲労を取るためだけではないのです。イエス様が「人里離れた所」へ行かれるのは、いつも祈るためなのです。伝道してきた弟子たちにとって今必要なことは、休むことであり、祈ることだということを、イエス様は知っておられたのです。私共も、人里離れた所へ行って祈って、休むことが必要なのでしょう。こう申しますと、山歩きの好きな人は、そうだ、自分もそう思って山に行っている、山は良いものだと言われるかもしれません。確かに山は良いものなのだと思いますけれど、別に本当の山に行かなくても良いのです。教会に来られたら良いのです。平日の礼拝堂は静かで、いつも祈りの場として開かれています。教会は町の真ん中にありますけれど、静かな祈りの場所です。教会には主の日や何か用が無い限り来ないというのではなくて、日常的に皆さんの祈りの場として用いていっていただきたいと思うのです。ここで祈って、休んでいただきたい。そのように思っています。この「祈って休む」という信仰の生活習慣の確立こそが、日本のキリスト教を強くする道だと私は考えています。いつ行っても、礼拝堂で誰かが祈っている。そんな教会になっていきたい。そんな願いを私は持っています。
2.飼い主のいない羊を憐れむ主イエス
さて、イエス様と弟子たちは、祈って休むために舟に乗って人里離れた所へ行ったのですが、人々がそれに気付いて、イエス様たちより先回りをしました。そして、大勢の人たちがイエス様たちより先に着いていたのです。残念ながら、イエス様も弟子たちも、祈って休むということを諦めなければなりませんでした。34節を見ますと、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」とあります。ここで注目したいのは、イエス様が大勢の群衆を見て「飼い主のいない羊のような有様」だと思われたこと、そしてそれを「深く憐れんだ」ということです。この「飼い主のいない羊」というのは、群れから迷い出てしまった羊のことです。羊というのは、飼い主のもとで群れを成していなければ生きられない動物だと言われています。目も悪いし、自分で草のある所や水のある所を探すことも出来ない。うろうろしていれば獣に食べられてしまうだけ。それが飼い主のいない羊です。イエス様は、自分のもとに救いを求めて来た群衆を見て、そのまま放っておけば獣に食べられてしまうだけの存在と思われた。自分がどうやって、どこに向かって歩めば良いのか分からなくなっている状況、力強く、安心してしっかり生きていくことが出来ない状況を見たのです。そして、イエス様は彼らを「深く憐れんだ」のです。この「深く憐れむ」という言葉は、「はらわたがよじれて痛む」という言葉です。イエス様は、自分の所に来た大勢の群衆の、心の荒野を見たのです。イエス様の所に来た人々は、一人一人皆違った課題を持っていたでしょう。イエス様は、その一人一人の重荷を自らのものとしてお受けになり、はらわたがよじれて痛まれたのです。これが私共の主イエス・キリストというお方なのです。イエス様は、御自分のもとに救いを求めてやって来る一人一人の思いを、重荷を、しっかり受け止めてくださるのです。自分のこととして受け止めてくださるのです。ここに愛があります。
しかし、弟子たちはそうではありませんでした。それは当然のことです。イエス様以外誰も、他人の重荷を自分のものとして受け止め、担うことなど出来ないのです。私共もそうでしょう。ですから、この時の弟子たちの言葉を、私共はよく分かるのです。弟子たちは、イエス様が深く憐れんで教えておられた大勢の群衆を見て、イエス様のそばに来て、こう言ったのです。35節b~36節「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」弟子たちは、休みが必要なほどに疲れていたのです。休みたかったのです。ですから、「イエス様、もういいでしょう。今日はこの辺で終わりにしましょうよ。人々を解散させてください。食事だってしなければなりません。解散すれば、それぞれ自分の食事のことは何とかするでしょう。」そう言ったのです。ここで弟子たちは、群衆のことを気遣っているような言い方をしていますけれど、本当は自分たちの食事のことが心配だったのではないでしょうか。
3.あなたがたが食べ物を与えなさい
イエス様はその弟子たちに、こう告げました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」これには弟子たちもカチンときました。弟子たちは言います。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか。」これは、「ハァー!? 何言ってるんですか。ここにどれだけの人がいると思っているんですか。この人たちに食べさせるには二百デナリオンのパンがいりますよ。それを用意しろと言うんですか。いったいどこで、そんなにたくさんのパンを買うことが出来るんですか。いい加減にしてください。」そんな思いで弟子たちは言ったのでしょう。弟子たちは、パンもお金も持たずに伝道に遣わされて帰ってきたばかりなのですから、パンもお金も持っているはずがないのです。この弟子たちの言葉を、私共はよく分かるのです。二百デナリオンというのは、当時の労働者の賃金で二百日分です。現在のお金に換算すれば、100万円から200万円になります。100万円から200万円分のパンをどこで手に入れるのか。ここにいた人数は44節を見れば、男だけで五千人とあります。女、子供もいたでしょうから、1万人から2万人の人がいたと考えて良いでしょう。一個100円のパンを1万個から2万個用意しなければならない。弟子たちはすぐにそのような計算をしたのです。そんなものをどうやって用意出来ますか。何を言っているのですか。そう弟子たちは思ったのです。この場にいたら、きっと私共もそう思ったでしょう。
イエス様はここで、「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」と言われます。弟子たちは、自分たちが持っているパンを確かめてきました。結果は、「五つのパンと二匹の魚」でした。このパンと魚は、当時のお弁当です。魚というのは、干し魚だったと思います。これは、イエス様と12人の弟子たちが食べるにも十分とは言えない量です。
イエス様は、群衆を組に分けて座らせるよう、弟子たちにお命じになりました。50人、100人といった具合に、人々は青草の上に座りました。この50人、100人というのも、男の人の人数でしょう。私はここで、詩編の23編を思い起こします。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」飼い主のいない羊のようだった群衆が、青草の上に群れとなって座り、休んでいる。飼い主のいない羊、はぐれた迷子の羊ではなく、飼い主のいる羊の群れになっているではないですか。まことの羊飼いであるイエス様によって、今、食事を与えられようとしているのです。飼い主のいない羊のようであった人々が、主イエス・キリストというまことの羊飼いのもとに集められたのです。
4.神様の養い
イエス様の羊とされた人々は、何によって養われるのでしょうか。それは、神様の与えてくださる食物によって養われるのでしょう。出エジプトの時、イスラエルの民は40年にわたって、天からのマナによって養われました。そしてこの時、主イエスの羊となった人々は、主イエスが与えてくださるこの五つのパンと二匹の魚によって養われたのです。
イエス様はこの時、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡し」ました。この41節の言葉は、このマルコによる福音書においては14章22節の言葉「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与え」という言葉とほとんど同じです。14章の言葉は、イエス様が最後の晩餐において、聖餐を制定された時の言葉なのです。つまり、男だけで五千人もの人々が五つのパンと二匹の魚で養われたというこの驚くべき出来事は、私共の守っている聖餐へとつながっている出来事なのです。イエス様は、飼い主のいない羊のように歩んでいた私共を見て、はらわたがよじれる痛みを覚えられて御自身の羊としてくださり、養ってくださり、生かしてくださり、まことの平安へと導いてくださる。その主の憐れみの食事が、この五千人の食事であり、最後の晩餐であり、私共が与る聖餐なのであります。だから私共は、聖餐に与るたびに、イエス様の憐れみの御手の中にあって生かされていることを覚えるのです。主の養いの中に生かされていることを覚えるのです。
イエス様の憐れみが最も明確なあり方で示されたのは、十字架の出来事です。この五千人の食事は、十字架の出来事と同じ、イエス様の憐れみの表れなのです。イエス様の憐れみは、具体的な出来事となって私共を養い、生かし、導くのです。私共は、このイエス様の憐れみが目に見える不思議な出来事として現れた、その一つ一つの出来事に囲まれるようにして生かされているのです。それは、神の奇跡の中に生かされていると言っても良い。神の奇跡はいつも起きています。私共の目が開かれていないために、それに気付かないだけです。信仰が与えられるということは、そのことに一つまた一つと目が開かれていくということなのでしょう。
5.全能の神様の御子の力
五つのパンと二匹の魚で、男だけで五千人、女・子供も考えれば一万人以上が食事をして満腹した。しかも、パン屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。つまり、パンと魚を配った弟子たちが、一人一つずつ籠いっぱいのパン屑と魚の残りを集めたということです。これは、最初にあった五つのパンと二匹の魚よりも、残ったものの方が多いわけです。これはどう考えてもつじつまが合いません。この出来事は、イエス様がなさった奇跡の中でも、最もイメージしにくい奇跡だと思います。私も随分長い間、どういうことなのか、よく分かりませんでした。しかし、質量保存の法則、物質保存の法則と対立するこの奇跡こそ、イエス様が、天地を造られた神様、無からすべてを造られた神様の独り子であるということを、最も明確に示した奇跡であるということに思い至ったのです。この奇跡こそ、イエス・キリストというお方が誰であるか、そのことを最も明確に示した奇跡なのだということが分かった時、どうしてこの奇跡が四つの福音書のすべてに記されているか、またこの奇跡が古い教会にモザイク画として残されたりしたのかが納得出来たのでした。
五つのパンと二匹の魚で、男だけで五千人もの人々を養われたお方。それが私共の主なのです。だから私共は、自分には五つのパンと二匹の魚しかないと諦めることはないのです。弟子たちはこの奇跡において、イエス様の救いの御業の具体的なお手伝いをさせられました。彼らは自らの手で、配っても配っても無くなることのない、イエス様の養いの担い手とされたのです。弟子たちは今までも、たくさんの主イエスの奇跡を目の当たりに見ていました。しかし、この時弟子たちは、イエス様の奇跡をただ見ているだけではなかったのです。イエス様の驚くべき奇跡の担い手として用いられたのです。これは弟子たちに強烈な印象を与えたことでしょう。この時も弟子たちには何も無かったのです。飼う者のない羊のごとく困り果て、迷い、自分の道を見失い、希望も、生きる勇気も失いかけている、そのような人を、助ける力も、手段も、何も無かったのです。私共もそうです。何も無いのです。しかし、全能の神様の御子であられるイエス様がおられます。そしてイエス様が言われるのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」ここにすべてがあります。「私ではなく、主よ、あなたがすべてを知っておられます。私ではなく、主よ、あなたがすべてを為してくださいます。私ではなく、主よ、あなただけがほめたたえられますように。」
[2014年7月13日]
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