富山鹿島町教会

礼拝説教

「預言者は故郷では受け入れられない」
エレミヤ書 11章18~23節
マルコによる福音書 6章1節~6節a

小堀 康彦牧師

1.聖霊の風を受けて
 先週、私共はペンテコステの出来事を記念して礼拝を守りました。聖霊なる神様が弟子たちに降り、弟子たちは力強く福音を宣べ伝え、悔い改めて洗礼を受ける者が起こされ、教会が誕生した。これがペンテコステの出来事です。この日以来、聖霊の風は主イエスの弟子たちの上に吹き続け、キリスト者は誕生し続け、教会は建てられ続け、キリストの福音は全世界に広がり続けております。ペンテコステの出来事は継続中であり、私共も、聖霊の風に吹かれて信仰の歩みを為しているのであります。
 聖霊は、天地を造られた父なる神様の霊であり、主イエス・キリストの霊です。この聖霊なる神様のお働きの中で、悔い改めが起こされ、信仰が与えられ、祈りがささげられ、賛美が為されるのです。主イエス・キリストの救いが明らかに示されるのです。聖霊なる神様が降る時、聖霊の風が吹く時、必ず出来事が起きます。主をほめたたえざるを得ないような出来事です。それは、私共の心の中にも起きますし、具体的に目に見える出来事としても起きます。この出来事によって、私共は聖霊の風が吹いていることを知るのです。
 聖霊は風です。神の風、神の息です。風そのものを見ることは出来ません。しかし、風が吹くことによって引き起こされる出来事で、私共は風が吹いていることを知ります。自然の風は風速何mという表し方をしますが、聖霊の風は、そのように計測することはもちろん出来ません。しかし、聖霊の風も、台風のように強く吹く時もあれば、そよ風のような時もあるのです。ペンテコステの出来事があった時は、まさに台風のような暴風が吹いた時でありました。私共は、自分たちで風を起こす、風を吹かせることは出来ません。聖霊なる神様を自分たちで操るなどということは出来るはずもないのですし、それが出来るかのように考えること自体、不信仰そのものと言わなければならないでしょう。
 しかし、私共は、聖霊のお働きについて敏感でなければなりません。聖霊なる神様が働いてくださっているのに、それを単なる偶然であるかのように考えるのもまた、不信仰と言わなければならないでしょう。
 昔から、教会は歴史の荒波を乗り越えて進んでいく舟にたとえられて来ました。教会のシンボルとして、舟が用いられることも良くあります。この舟は、帆を張った舟です。風が吹かなければ進むことが出来ない舟です。エンジン付きの、いつでも自分の好きな所に行ける舟ではありません。聖霊の風によって、その風を帆いっぱいに受けて進んでいく舟です。私共も教会も、聖霊の風を吹かせることは出来ません。しかし、この風をしっかり受け止めることは出来ます。帆をいっぱいに広げて、出来るだけ風をしっかり受け止める。その時、教会は大きく前進することが出来るのです。私共に出来ること、私共がしなければいけないことは、聖霊の風を出来るだけいっぱい受け止めるために、帆を張ることです。この場合、風の向きに合わせて帆を張らなければなりません。帆がばらばらの向きに張られたのでは、聖霊の風をしっかり受け止めることは出来ません。

2.聖霊の風が吹いていることに敏感に
 聖霊の風を受け止める帆を張るために必要なことは、第一に、風が吹いていることを敏感に知ることです。それは、聖霊なる神様の導きの中で起きていることをきちんと弁えて、神様をほめたたえることです。例えば、私共が今朝ここに集まって礼拝をささげている、これは聖霊なる神様の導きによらなければ決して起き得ないことなのです。今日の礼拝は90人くらいでしょうか。この人たちが今朝起きて、今日は主の日の礼拝があるから教会に来ようと思ったのです。今日はサッカーのワールドカップで日本代表が初戦を戦う日です。まさに今、その試合をしている時間です。サッカーのワールドカップを見ないで、礼拝に来ている。サッカーなんてどうでも良い人にとっては、どうということはないでしょうけれど、サッカーが大好きな人にとっては、ワールドカップの日本代表の試合を見るか、礼拝に来るか、それは大変な決断だったと思います。しかし、礼拝を選んだわけです。ここに聖霊なる神様の風が吹いています。サッカーでなくても、主婦は掃除も洗濯もあるでしょう。たまった書類の整理もあるかもしれない。しかし、ここに居る。これは、聖霊なる神様のお導き以外の何ものでもないのです。
 私が毎日、短い時間だけど祈るようになった。それはもう、大変な聖霊なる神様のお働きの中に身を置いているのです。礼拝に集うようになった。祈祷会に出るようになった。家庭集会に出るようになった。それはもう、大変な聖霊の風に吹かれているのです。まず、この聖霊なる神様のお働きの中に自分がいるということに、敏感でありたいと思うのです。慣れというものが私共を鈍感にさせるということも覚えておきましょう。
 第二に、聖霊なる神様が与える「促し」に従うということです。聖霊なる神様は、その救いの御業を前進させるために私共に働きかけ、具体的にこうしてみなさいという「促し」を与えられます。面倒くさい、大変だと言って、この「促し」を無視してしまいますと、せっかく風が吹いても、帆を高く上げて風を受けて前進することは出来ません。教会もキリスト者個人も同じです。私共はこの促しに従うのです。もちろん、この促しが聖霊なる神様によるものなのか、それとも自分の欲や自分の自己実現のためなのか、それをよくよく吟味しなければなりません。この吟味はそれ程難しいことではありません。聖霊なる神様の促しであるならば、その促しに従っても私共は得をしません。見えるところでは損するだけです。また、「楽に出来る」ということは希です。多くの場合、それをすれば時間が無くなり、忙しくなります。肉体的にもしんどいこともあるでしょう。しかしその上で、聖霊なる神様の促しであることを確信したのならば、敢然とその促しに従っていったら良いのです。そうすれば、必ず、自分の思いを超えた喜び・感謝・平安・生きる力が与えられることでしょう。

3.ナザレにて
 さて、今朝与えられております御言葉は、イエス様が故郷に行かれた時、そこではごくわずかな癒やしの奇跡を行うことしか出来なかったということが記されています。私はここを読んで、もったいないと思いました。せっかくイエス様が来てくださったのに、神の国が来たのに、それを見過ごしてしまった。本当にもったいないと思います。しかし、これと同じようなもったいないことを私共はしていないかとも思わされました。こんなもったいないことをしないように、ここで何が起きたのか、どうしてこうなってしまったのか、そのことを見ていきたいと思います。
 1節を見ますと、「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。」とあります。この「故郷」というのは、ナザレの村を指していると考えて良いでしょう。イエス様は、ルカによる福音書によるならば、ベツレヘムでお生まれになりました。父ヨセフはナザレの村の大工でありましたから、ナザレに戻り、イエス様はそこで成長されたと考えられます。細かいことですが、「帰った」と訳されている言葉は、単に「行った」という意味の言葉です。どうしてイエス様はこの時故郷のナザレに行かれたのか、その理由は分かりません。家族に会うためとか、もうずっと家を離れていたので懐かしくて、ということではなかったようです。家族と会ったというようなことは何も記されておりません。私は、イエス様は単に、ナザレに住む人々にも神の国の福音を伝える、そのために行かれたのではないかと思います。
 安息日になりまして、イエス様はナザレの村の会堂で教えられました。これは、1章21節にありますように、カファルナウムの町において福音を宣べ伝え多くの奇跡をされた時もそうでしたので、安息日に会堂で教えるというのは、イエス様のいつものやり方だったのだと思います。この時、人々はイエス様の話を聞いてどう思ったか。それが、2~3節に記されております。2節「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」人々は、イエス様の権威ある者としての教えに驚いたし、為される奇跡にも驚いたのだと思います。しかし、その驚きが素直に、この人はいったい誰かという問いに至ることはなかったのです。

4.「この人はいったい誰か。」
 イエス様の奇跡も権威ある者としての教えも、イエス様がまことの神の子であることを示すためのものでありました。ところが、ナザレの人々は、「この人はいったい誰か。」という問いに至ることはなかったのです。この問いは、イエス様が神の子、救い主、キリストであるという答えへと導く、とても大切な問いです。しかし、ナザレの人々はこの問いに至らなかったのです。理由は3節に記されています。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」ナザレはイエス様が育った村です。イエス様の父ヨセフは大工でありましたから、イエス様もまた、少年と呼べる歳になれば父を手伝うことから始め、大人になった時には大工として働いていたでありましょう。30歳くらいでナザレの村を出て「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と宣べ伝え始めましたけれど、それまではナザレの村で大工をしていたのです。ナザレの人々にしてみれば、イエス様のことを幼い時から良く知っているのです。「この人は誰か。」と問う必要は全くなかったのです。彼らはイエス様を良く知っている。イエス様だけではない。親のことも兄弟のことも良く知っているのです。だから、「この人はいったい誰か。」という問いは生まれなかったのです。しかし、ナザレの人々が知っていたのは人間イエスの面であって、神の子キリストという面については、この時初めて目にし耳にしたのです。そして、人間イエスの面を知っていたが故に、神の子キリストという面に気付くことが出来なかったということなのです。
 私共は、イエス様というお方はまことの人であり、同時にまことの神であることを信じております。この二重性と申しますか、イエス様というただ一人のお方の中にまことの神でありまことの人であるという、二つの面があることを知らされております。このことは、実に信仰によって与えられるとても大切な認識なのであって、信仰抜きにこの認識は与えられません。人間の合理的な考え方ならば、これはどちらか一方でなければならないのです。ナザレの人々は人間イエスを知っていたが故に、逆にそれが邪魔をして「この人はいったい誰か。」という問いも生まれず、従って神の子キリストの面に心が向かなかったということなのだろうと思います。

5.聖霊なる神様の御業
 このことは、聖霊の御業に対しても言えることなのです。聖霊なる神様が導いてくださる出来事は、多くの場合、合理的に説明できるものです。もちろん、すべてがそうではありません。しかし、多くの出来事は、聖霊なる神様のお働きを抜きに説明出来るのです。例えば、この教会というものについても、社会学的に一つの宗教団体として説明することが出来るでしょう。この礼拝にしてもそうです。あるいは、私共が祈るということについても、毎週ここに集っているということについても、心理学的な説明が出来るのでしょう。しかし、そのような説明で納得してしまえば、聖霊なる神様のお働きというものに私共の目が開かれることは、全く無くなるのです。私共は、自らの信仰の決断の中に、教会が建ち続けているということの中に、洗礼者が生まれるということの中に、聖霊なる神様のお働きを見るのです。聖餐にしても、ただのパンですが、聖霊なる神様のお働きの中で私共に信仰が与えられ、これをキリストの体として食べるのです。ただのパンだということだけなら、聖餐にはなりません。
 聖書も同じです。人間が書いたものであり、その時代の思想の反映である。そういう前提から読んで、それを学問的と称する人たちがたくさんいます。人間が書いたということを否定はしません。しかし、それだけなら聖書にはなりません。聖霊なる神様が働いてくださり、導いて書かせたのです。ですから、聖霊なる神様の導きがなければ、聖書はその本当の意味が明らかになることはないのです。この二重性が大切なのです。
 ナザレの人々の失敗は、イエス様を、自分たちが知っている人間イエスという面でしか見ることが出来なかったという所にあるのです。そして、このことを聖書は「このように、人々はイエスにつまずいた。」と記しています。イエス様を信じることが出来なかったということです。このつまずきは、自分が知っていると思っていること、自分の感覚や知性で知ることが出来ること、それがすべてだと思っている人に必ず起きる「つまずき」だと言って良いと思います。

6.奇跡が出来ない?
 4~5節に「イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」とあります。この4節の言葉は、ことわざのように用いられていたもののようです。先程エレミヤ書をお読みいたしましたが、預言者エレミヤの故郷はアナトトです。エレミヤもまた、自分の故郷で人々に命を狙われるという目に遭っていたのです。
 イエス様はナザレにおいて、ほとんど奇跡を行うことがお出来にならなかったと聖書は記しているのですが、イエス様は不信仰な人々を前にすると奇跡を行うことが出来ないような方だったのでしょうか。この出来なかったというのは、その能力が無かったということではありません。天地を造られた神の子なのですから、しようと思えば、いつでもどこでも誰に対しても、奇跡を行うことはお出来になるのです。しかし、この時はしようとされなかった。奇跡を行っても意味が無いのでされなかった、ということではないかと思います。
 5章において、イエス様は、イエス様の衣に触れることが出来れば、長い間出血が止まらないという自分の病気が癒されるのではないかと期待した女性を癒されました。この女性にどれほどの信仰があったかと言えば、信仰という名にふさわしいものは何も無かったかもしれません。しかし、イエス様はそれを受け止められたのです。一方、このナザレの人々には、そのような期待さえ無かったということなのでしょう。そのような所では、奇跡を行っても意味が無いということなのでしょう。
 私共は、聖霊なる神様の御業に期待し、祈り、求めます。しかし、聖霊なる神様のお働きなど全く期待もしていない人々にとっては、聖霊なる神様のお働きによってどんな大きな事が為されたとしても、それは偶然であり、自分たちの努力の結果であり、一つの社会現象に過ぎないのです。聖霊なる神様の御業に与るためには、それを期待し、求め、そのために献身する信仰がなければならないのです。そうでなければ、聖霊なる神様が何をしてくださったとしても、それは意味を持たなくなってしまうのです。どんなに風が吹いても、それを受けて御国に向かって前進することが出来ないということなのです。
 私共に今求められていることは、この聖霊なる神様のお働きに期待し、願い、求めることであり、聖霊なる神様が為してくださった出来事を敏感に受け取り、主の御名をほめたたえることなのでありましょう。私共の唇に、主をほめたたえる賛美が満ちているということなのであります。聖霊の風は今、私共の上に吹いています。この風を、しっかり帆を張って受け止めてまいりましょう。

[2014年6月15日]

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