1.はじめに
今朝、二人の方が洗礼を受け、私共の群れに加えられます。洗礼は、神様の救いに与るという見えない恵みの、見えるしるしです。この見えない神様の恵みとは、信仰によって主イエス・キリストと一つにされるということです。主イエスと一つにされるが故に神の子とされるのですし、神の僕とされるのですし、全き罪の赦しに与るのですし、復活の命・永遠の命に与る者とされるのです。主イエス・キリストの持つ良きものすべてを受け継ぐ者となるのです。今、与えられております御言葉から、私共が洗礼において一つにしていただく主イエス・キリストというお方がどのような方であるのか、しっかり受け止めていきたいと思います。
2.会堂長ヤイロ
イエス様の所に会堂長のヤイロという人が来て、足もとにひれ伏し、自分の幼い娘が死にそうなので癒やしてくださいと願い出た、と聖書は記しております。会堂長というのは、当時のユダヤ社会における世話役のような人を考えていただけば良いかと思います。社会的な地位も信頼も得ていた人です。彼は、イエス様が多くの病人を癒し、悪霊を追い出すのを、見たり聞いたりしていたのです。しかし、エルサレムから来た律法学者は、主イエスがなさっていることを「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(マルコによる福音書3章22節)と言っておりましたから、会堂長という立場にある彼は、イエス様に対して距離をもって見ていたのではないかと思います。しかし、自分の娘が病気になり死にそうになって、彼は自分の体面も立場もかなぐり捨てて、イエス様のもとに助けを求めにやって来たのです。そして、イエス様の御前にひれ伏したのです。イエス様は、ヤイロの思いを受け止めてくださいました。そして、彼と一緒に、死にそうな病気にかかってる娘のいる彼の家へと向かったのです。私は、この会堂長ヤイロの、娘を思う「ひたむきさ」に心を打たれます。イエス様の救いに与るためには、何よりもイエス様に救いを求める「ひたむきさ」が必要なのでしょう。ひたむきな思いをもってイエス様に救いを求めるなら、イエス様は決してその人を退けたりなさらないのです。
3.主イエスの御前における二人
そのヤイロの家に行く途中で、一つのハプニングが起きました。12年間も出血の止まらない女性が、イエス様の後ろからそっと近づいてイエス様の服に触れ、癒されるという出来事が起きたのです。このことについては先週見ましたので、今日は触れません。ただ一つだけ申しますと、会堂長ヤイロと12年間出血が止まらなかった女性、この二人は全く違った人生を歩んでまいりました。片やその地域の中心的人物、片やその地域の人々の交わりからはじかれていた女性です。そのままなら決して交わることのなかった二人でありました。しかし、その二人が主イエスに救いを求めるという一点において交わり、ここにいるのです。教会とはそういう所です。イエス様に救いを求める、この一点において出会う人々の群れなのです。この一点を外してしまえば、出会うことさえない人と人なのです。こう言っても良いでしょう。私共は一人一人全く違う人生を歩んできたけれども、その歩みの結果、イエス様に救いを求めてここに来た。全く違う人生だったけれども、それはそれぞれにイエス様へと導かれるために必要な歩みであったということなのだと思うのです。主イエスの救いに与るという一点から人生を見直す、受け取り直すということによって、私共の人生は全く違った意味と光を放ち始めることになるのだと思うのです。
4.主イエスの歩みは止まらない
さて、この12年間出血が止まらなかった女性の癒やしがあり、イエス様が女性とまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て、こう言いました。35節「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」遅かった。手遅れだ。もう死んでしまった。イエス様に助けを求めていたのは、病人を癒す方として助けを求めていたのであって、「死んでしまえばお終いだ。どんな力がある人でも、どんな病気をも癒すことが出来るとしても、死んでしまったらどうしようもない。」、そう思ったのです。確かに、イエス様がただ病気を治すことが出来る人に過ぎないのならば、そういうことになるのでしょう。しかし、そうではないのです。イエス・キリストというお方は、この天と地のすべてを造られた方、生きているすべての者に命を与えられる方、ただ一人の創造者である神様の独り子なのです。永遠から永遠まで生き給うお方なのです。この方の前には、死もまた、絶対ではないのです。命も死も、この方の御手の中にあるからです。
36節「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ、信じなさい。』と会堂長に言われた。」とあります。ここで「その話をそばで聞いて」と訳されている言葉は、口語訳では「その話している言葉を聞き流して」となっておりました。イエス様は、少女が死んだという知らせを聞き流したのです。そして、告げました。「恐れることはない。ただ、信じなさい。」イエス様は、死も恐れることはないと言われたのです。そして、ただ信じなさいと言われた。いったい何をどう信じろと言うのでしょうか。もちろん、わたしを、イエス様を信じなさいということです。そして、イエス様は死をも打ち破ることが出来るのだから、この「死んだ」という知らせがすべての終わりではないと信じなさいということでしょう。イエス様は、少女が死んだという知らせを受けても、もう来る必要はないと言われても、その歩みを止めませんでした。「死」も主イエスの歩みを止めることは出来ないのです。イエス様は、ただ自分を信じることを求め、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて行かれたのです。
5.ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人
この三人は、十二弟子の中でも特に選ばれた者たちでした。山の上でイエス様がその姿を変えられた山上の変貌と言われる場面、そして、イエス様が十字架に架けられる前の日の夜に最後の祈りをされたゲツセマネの祈りの時も、この三人だけが選ばれて、主イエスと共に居りました。どうしてこの三人なのかは分かりません。ただ神様の救いの業というものは、いつでも神様が誰かを選び、救いの出来事を見せ、御言葉を与え、御心を知らせ、そこから広がっていくというあり方をするのです。それが救済史というものなのです。アブラハムに始まって、神様はいつもそうされてきました。しかしそれは、その人たちだけが救われるということではなくて、そこから広がり、すべての者に伝えられ、すべての者にとって益となっていくためなのです。41節の、イエス様がこの少女を生き返らせたときの言葉「タリタ、クム」も、この三人の弟子によって伝えられたものでしょう。イエス様が語った言葉そのままが、このように残されている。この三人は、この出来事の証人となり、この主イエスの言葉を伝えるために選ばれたのです。それは私共が選ばれ、救われたのも同じです。私共に何か選ばれるべき優れたところ、良きところがあったわけではありません。ただ、神様の救いに与った恵みの証人として立てられていくためなのです。
6.タリタ・クム
イエス様の一行が会堂長ヤイロの家に着くと、人々が大声で泣きわめいておりました。少女が死んですぐだったのでしょう。まだ悲しみの泣き声が収まらない中に、イエス様は来られた。そして、その悲しみに泣き騒ぐ人々に向かって、イエス様は言われました。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」これを聞いた人々は、主イエスをあざ笑ったのです。幼い身内の者が死んで泣き騒ぐ人に向かって、「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」こんな言葉を言える人はいません。誰も言えません。言うとすれば、少し頭が変な人だけです。人々は、イエス様を、その頭が少し変な人だと思ったのです。そして、何をバカなことを言っているのか、そう思ったのです。私共もその場にいたのなら、この人たちと同じように思ったことでしょう。これが常識的な、当然の反応なのです。
イエス様は、自分をあざ笑う人々を放っておいて、少女の遺体のある部屋に入って行かれました。イエス様がその場に連れて行ったのは、ペトロとヤコブとヨハネ、そして少女の両親だけでした。主イエスを信じる者たちだけ、そして、これから起きる出来事の証人として立てられる者だけを連れて入ったのです。主イエスは少女の手を取り、「タリタ、クム」と言われました。「タリタ、クム」これは、イエス様がこの時実際に使われた言葉そのままです。「タリタ、クム」この言葉は、弟子たちから教会に伝えられ、教会の中で保持されてきました。私は、礼拝の中で用いられた言葉であったのではないかと想像しています。「タリタ、クム」この言葉を聞くたびに、キリスト者たちは、自分の耳元でイエス様が自分に告げられたように受け取り、それぞれの課題の中から立ち上がっていったのではないでしょうか。
昨年、伝道礼拝の後でS久美さんが歌と証しをしてくださいました。その中で、自分が声楽家として一生懸命やっても結果が出ず心も体もぼろぼろになっていた時に、お父さんが聖書の裏表紙に記してくれた「タリタ、クミ」の言葉が目に飛び込んできた、という証しをしてくださいました。口語訳聖書では、「タリタ、クム」ではなくて「タリタ、クミ」となっていました。そして、両親がキリスト者であったS久美さんの名前は、両親がこの聖書の言葉から採られて付けられたのだそうです。お父さんを通して、「タリタ、クミ」というイエス様の言葉が彼女の中に鳴り響いたのです。彼女は、その出来事を通してイエス様のもとに立ち帰り、神様からいただいた声楽の賜物を神様のために用いるというあり方で、再び立ち上がることが出来たという証しでした。
「タリタ、クム」という言葉は、そのようにして人々を立ち上がらせてきたのだと思います。イエス様は今日も私共に告げています。「タリタ、クム」「少女よ、起きなさい。」と。
7.主イエスの復活の先取りとして
イエス様は、この死んだ少女を生き返らせることによって、自らが死をも打ち破ることが出来る者であることをお示しになりました。この出来事は、ヨハネによる福音書が記すラザロの復活の出来事と同じように、主イエス・キリストというお方が、死をも滅ぼすことがお出来になる方、まことの命の君、ただ独りの神様の御子であることを指し示す出来事でありました。そしてまた、主イエス御自身の復活の先取りでありました。イエス様が復活された時に弟子たちが信じることが出来るように、その復活が何を意味しているのかが分かるように、前もってイエス様が備えてくださった出来事なのです。
もちろん、イエス様の復活とこの少女のよみがえりとは同じではありません。イエス様の復活は、霊の体によみがえられたのであり、二度と死ぬことのない永遠の命への復活でした。一方、この少女のよみがえりは、肉体のよみがえりであって、この少女がずっと生き続けたということではありません。それはラザロも同じです。しかし、この出来事は、私共のこの命が死をもって終わるのではなく、イエス様の声と共にやがて永遠の命に復活するということを示すものとなったのです。
イエス・キリストというお方は、私共が洗礼によって一つとされるそのお方は、すべての者が迎えねばならない死というものを超え、これを打ち破り、永遠の命に生き給うお方なのです。そのお方と一つにされる私共は、たとえこの肉体は滅びても、やがて主イエスの御声と共に復活するのです。この希望は、この地上のいかなるものによっても破られることはありません。主イエス・キリストと一つにされるということは、この決して破られることのない希望の中に生きる者とされるということなのです。
マルコによる福音書は4章から神の国のたとえを語り、その後でイエス様の奇跡を4つ続けて記し、このようにイエス様と共に既に神の国は来たのだと示すのです。その最後の奇跡が、この少女の復活なのです。死を打ち破り、死の支配ではなく神様の支配がここに来たことを、イエス様は示されたのです。しかし、この神の国の到来が最も明らかになるのは、イエス様の十字架と復活によってです。ですから、イエス様は、その時までこのことを誰にも知らせないようにと厳しく命じられたのです。43節「イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ」とある通りです。何故なら、このことが宣伝されれば、イエス様はいよいよ「癒す人」としてだけ人々に受け止められることになるからです。そこでは誰も自分の罪を悔いることもなく、ただ神様を、イエス様を、自分の願いを叶えてくれる方としてだけ見るようになってしまうからです。私共の願いが叶えられるとか、望んでいたものが手に入るとか、病気が治るとか、事業が上手くいくとか、そんなことではないのです。私共に与えられる救いとは、罪の赦しであり、体のよみがえりであり、永遠の命なのです。この恵みはあまりに大きいのです。この驚くべき恵みはあまりに大きくて、とても私共が受け止めきれないほどです。本当にありがたい。
今から、洗礼を執り行い、共々に聖餐に与ります。見えない恵みの見えるしるしに与るのです。主イエス・キリストは、十字架に架かり、復活し、天に上られました。そして今も、全能の父なる神様と共に天におられます。私共は、洗礼において主イエス・キリストと一つにされ、また聖餐に与ることによって主イエス・キリストの肉と血とに与り、まさに一つにされるのです。ここに私共の希望があります。私共が今どのような困難の中にあったとしても、今朝、イエス様は私共の手を取って、こう告げられます。「タリタ、クム」。さあ、そこから起きあがりなさい。主イエスと共に歩んでまいりましょう。
[2014年6月1日]
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