1.主イエスによる奇跡
今朝与えられております御言葉は、会堂長のヤイロという人の幼い娘が死にそうになって、父親であるヤイロが主イエスに助けを求めたという所から始まっています。イエス様は、その求めに応じてヤイロと一緒に出かけたのですが、途中で、12年間も出血が止まらない女性を癒されました。今朝はこの出来事から御言葉を受けます。ヤイロの娘が癒されるという出来事は、この後の出来事になりますので、来週見たいと思います。
この主イエスの癒やしの業は、4章35節からの突風を静める奇跡、5章1節からの悪霊に取りつかれた人を癒す奇跡に続いて記されております。これらの奇跡は、主イエスというお方が誰であるのか、どのように力あるお方なのかということを示しているわけですが、それは、主イエスと共に神の国は既に来た、ここに神様の御支配が現れている、イエス様こそ神の御子であるということを示してるわけです。皆さんは、このようなイエス様の奇跡の記事をどのように受け止めるでしょうか。
私は、神様による癒やしというものを素朴に信じております。神様に祈り求めたなら、神様はその全能の御力を持って癒してくださる。今でもそういうことは起きているし、起きるだろうと思います。しかし、いつでも、どこでも、誰に対してもそういうことが必ず起きるというわけではない、とも思います。いつでも、どこでも、誰に対しても起きるとするならば、病院は要らないでしょう。そもそも、いつでも、どこでも、誰に対しても起きるとすれば、それは奇跡ではないでしょう。このイエス様による癒やしの奇跡というものは、イエス様が誰であるかということを示しているのであって、いつでも誰に対してもこのような奇跡が起きるのだということを示しているわけではないのです。私共は、この出来事から、イエス様とはどういうお方なのか、そのことをきちんと受け止めなければならないのだと思うのです。
2.12年間出血の止まらない女性
さて、24節b「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。」とあります。イエス様は会堂長のヤイロの娘を癒すために出かけたのですが、そのイエス様の周りに、たくさんの群衆が押し合いへし合い、ついて来たのです。何十人、あるいは百人を超える人々かもしれません。
その中に、12年間も出血の止まらない女性がいました。この出血が止まらない病気というのは、婦人病の一種ではないかと考えられております。更に、この女性は26節に「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」とあります。この女性は、病気を治すために、こちらに良い医者がいると聞けば診てもらい、あちらに良い薬があると聞けば買い求め、12年の間、いろいろな医者にかかった。時には、理不尽な、苦しい、治療と称する荒行のようなこともさせられたかもしれません。しかし、治らなかったのです。34節で、イエス様はこの女性を「娘よ」と呼んでおりますので、まだ20代だったかもしれません。女の子から女性になったしるしの月のものが始まり、そして出血が止まらない病にかかったのでしょう。親も、何とかして、何としても治してやりたいと思ったに違いない。しかし、治らない。その結果、全財産を使い果たしてしまったのです。この女性も、家族も、本当に辛い思いをし、困り果てていたでしょう。
先程、レビ記15章19節以下をお読みいたしました。ここには女性の生理中のことが記されています。この女性も、この規定に従い、汚れた女として、12年間というもの、社会生活を閉ざされていたと思います。彼女には青春と呼べるようなものはありませんでした。人生の最も輝かしい青春の時を、この女性は病によって失ってしまっていたのです。或いはこの家族も、汚れた女の家族として、周りから同じように汚れた者としての扱いを受けていたかもしれません。そんな中で、彼女はイエス様の話を聞いたのです。力ある方、数々の癒やしをされた方が来られる。彼女は、まさに藁をもつかむ思いで主イエスのもとに来たのでしょう。
27~28節「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである。」とあります。彼女は群衆の中に紛れ込み、主イエスの後ろから近づいて、主イエスの服に触れたのです。イエス様の服にでも触れさえすれば癒されるのではないか。そう期待してのことでした。どうしてこの女性はイエス様の後ろから近づいたのでしょうか。それは、この女性の病が、律法によって「汚れている」と規定されているものだったからです。聖書には記されておりませんが、私は、この時彼女は顔を覆うような被り物をしていたのではないかと想像します。何故なら、彼女が誰であるか、もし周りの群衆に分かってしまったら、「汚れた者がどうしてここにいる!」そんな風にとがめられるのではないかと恐れつつ、主イエスの許に来たからです。何とか癒されたい。しかし、誰にも分からないように。それが、この「後ろからイエス様の服に触れた」という行為が意味していることでした。彼女は、イエス様の正面から、「わたしを癒やしてください。」と願うことさえ出来なかったのです。
この女性は、会堂長ヤイロのように、イエス様の正面からイエス様に癒しを求めることが出来なかったのです。イエス様の前に出ることさえ出来ない。私は、この女性の姿に、イエス様の救いを求めていながら、教会の礼拝に来ることが出来ない人の姿が重なるのです。敷居が高い。家族に反対されている。いろいろ理由はあるでしょうが、イエス様に正面から救いを求めることさえ出来ない人、そのような人がこの富山にも少なからず居ると思います。そして、イエス様はそのような人のことも決して見捨てることなく、その思いを受け止めてくださっている。そのことは確かなことです。
3.わたしの前に出よ
彼女はイエス様の服に触れました。すると、出血が止まり、病気は癒されました。彼女はそのことを体に感じたのです。彼女は喜びました。しかし、それをここで言うわけにはいきません。彼女は、誰にも気付かれないようにこっそりその場を離れ、家に帰ろうとしたと思います。しかし、そうは出来ませんでした。イエス様が振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか。」と言われたからです。彼女は、その場から抜け出すことが出来なくなりました。弟子たちは言いました。31節「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」まことに常識的な、間が抜けた言い様です。弟子たちは今、ここで何が起きたのか分からなかったからです。今、ここで起きたことを知っているのは、この女性とイエス様だけでした。
32節「しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。」とあります。イエス様はこの時、自分の服に触れたのが誰か、分からなかったのでしょうか。誰が服に触れたか分からずに、きょろきょろ見回したのでしょうか。私にはそうは思えないのです。イエス様は、今癒された女性を皆の前に出させるために、「あなたでしょ」という目で見回されたのではないかと思うのです。
しかし、どうしてイエス様はここで、この女性に名乗り出させようとされたのでしょうか。この女性はもう癒されたのだし、この女性はそれだけを求めていたのですから、そのままそっと帰らせてあげれば良かったのではないでしょうか。彼女はそれで良かったのです。彼女はそうしたかったのです。しかし、イエス様はそれでは良くなかった。なぜか?それは、このままではこの女性が本当に癒されたことにはならないからです。本当に救われたことにはならなかったからです。ここがとても大切な所です。イエス様が与えようとされる救いとは、体も心も人との関係も、その人間全体の救いなのです。私共は目の前の困難が取り除かれることだけを求めます。困難さえ取り除かれれば充分。神様はそれだけしてくれれば良い。後は自分で何とかする。そう思います。しかし、私共の人生は、一つの困難を乗り越えてもまた次の困難がやって来る、そういうものでしょう。私共はその度に、これさえ取り除いてくれればと思う。しかし、イエス様は、「そうではないのだ。あなたが新しくならなければダメなのだ。あなたが、神様との関係、わたしとの関係を、健やかなものにしなければ、何度でも同じようなことを繰り返すだけだ。あなたが新しくなれ。そのためにわたしは来た。」そうイエス様はこの女性に迫ったのです。イエス様は、まことの神の力と権威とをもって、「ここに出よ」「わたしの前に立て」、そういう思いで見回されたのです。
彼女の心はこの時、主イエスのまなざしに射貫かれたのです。自分の身に起きたことが何だったのかを知ったのです。病気が治って良かったということ以上のことが起きた。そのことを知ったのです。それは、聖なる神様に触れたということ。いや、聖なる神様がわたしに触れてくださった。そのことを知った。そして、33節「恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し」たのです。聖書は、この主イエスの癒やしを、「恐ろしいこと」として記しているのです。それは、嵐を静めた時にも、イエス様が嵐を静めるのを見て「弟子たちは非常に恐れ」(4章41節)たのですし、悪霊に取りつかれた人を癒した時にも、悪霊に取りつかれた人が正気になって座っているのを見て、人々は「恐ろしくなった」(5章15節)のです。主イエスの力が、聖なる神の臨在を示すものだったからです。この聖なる神様の御臨在に触れ、人は恐ろしさを覚えたのです。主イエス・キリストによって、聖なる神様と出会う、恐れをもって出会う。このことこそ、私共が新しくされるただ一つの道なのです。聖なる神様の御手に触れられ、清められ、新しくされ、神様と共に生きる。それが、イエス様が私共に与えてくださる救いなのです。
彼女は、今自分の上に起きたことをありのままに話しました。イエス様は、改めて聞くまでもなく、すべてを御存知だったでしょう。しかし、このことを彼女自身の口から語ることに意味があったのだと思います。聖なる神様の御手に触れられて新しくされたということは、その恵みの証人として立つということと、分けることが出来ないことだからです。
4.あるか無きかの信仰を
イエス様は、この女性にこう告げられました。34節「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」イエス様は、この女性の中に信仰を見出してくださった。そして、その信仰があなたを救った、と告げるのです。この女性のどこに信仰があったというのでしょうか。彼女は「イエス様の服に触れれば癒していただける。」と思っただけです。このようなイエス様への近づき方は、御利益を求めているだけで、これが信仰と言えるのでしょうか。
私共は、「信仰」という言葉にどんなイメージを持つでしょう。キリスト教の教理をきちんと弁えていることでしょうか。三位一体の神を信じるということでしょうか。主イエスの十字架と復活による救いを信じるということでしょうか。永遠の命を信じるということでしょうか。それらのことはすべて大切なものです。大切な信仰の内容です。しかし、私共が洗礼を受けた時、それらの事柄をどれほど弁えていたというのでしょうか。
私が洗礼を受けた時、試問会で「三位一体の神を信じますか?」と問われました。私は「父なる神様とイエス様は分かりますが、聖霊はよく分かりません。」と答えたことを覚えています。しかし、イエス様は私を見捨てない、そのことははっきり分かっていました。そして、私はイエス様を悲しませるような歩みをしたくないと思いました。それが、私が洗礼を受ける時点での私の信仰でした。大切な所をよく弁えていないと言われれば、その通りです。しかし、はっきりしていたことがありました。それは、イエス様は神様であり、私を愛し、私を決して見捨てない方だということでした。
この女性が主イエスに近づき主イエスの服に触れたとき、彼女の思いは自分の病を癒してほしい、そのことしかなかったでしょう。その信仰の内容といえば、イエス様の服に触れれば癒されると期待するような、お地蔵を拝むのとどこが違うのかというようなものだったかもしれません。しかし、イエス様は、そのあるか無いか分からないようなこの女性の信仰を、きちんと受け取ってくださり、癒されたのです。そして「あなたの信仰が、あなたを救った。」と言われたのです。その人に信仰があるか無いかを決めるのは、イエス様であり、神様なのです。そしてイエス様は、私共のあるか無きかのまことに頼りない信仰をも、きちんと受け取ってくださるお方なのです。イエス様がそのようなお方であるが故に、私共は救われたのです。あなたの信仰は、あれが足りない、ここが欠けている、出直してきなさいと言われたら、一体誰が救われるというのでしょうか。
誤解しないでいただきたいのですが、私は、信仰内容についてよく分からなくて良いのだと言っているのではないのです。そうではなくて、よく分からないなりにイエス様を信頼し、イエス様に助けを求める者の信仰を、イエス様はちゃんと受け止めてくださる方だということなのです。この自分勝手で、何も分からない私共を、それでも愛し、愛する独り子を十字架にお架けになってまで救おうとされる方、それが私共の父なる神様だからです。その神様の愛が人間の形として現れた方がイエス様だからです。
5.イエス様と一対一の関係の中で与えられる平安
この女性は、あるか無きかの信仰で主イエスに近づき、癒されました。しかし、その後で、イエス様との一対一の出会いへと導かれているのです。恐ろしくて震えながらイエス様の前に進み出たのです。ここに、イエス様との一対一の出会い、一対一の聖なる出会いを与えられた者の姿があります。このイエス様との一対一の出会いこそ、決定的に重要なことなのであり、私共の信仰の原点とでも言うべき出来事なのです。これがなければ、私共の信仰は成立しません。
イエス様はこの一対一の出会いの中で、女性に続けてこう言われました。「安心して行きなさい。」これは、直訳すれば、「平和の中に行きなさい。」となります。聖なる神様と出会って、恐れ、震えてひれ伏すしかないこの女性に、イエス様は、平和の中に行きなさいと言われる。この平和とは、神の平和でしょう。神様が共におられる。あなたは神様の御手の中にある。神様の御支配の中に生きる。神の国がここに来ている。だから、安心して、神の平和の中を行きなさい。そう、イエス様は告げられたのです。これは、今朝、自らの罪を知り、神様の御前に畏れをもって礼拝をささげている私共にも告げられているイエス様の言葉です。安心して行きなさい。神の平和の中を行きなさい。それが、イエス様と出会って救われた者に与えられている、新しい歩みへの招きなのです。
イエス様は続けて、「もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言われました。これは口語訳では、「すっかり治って、達者でいなさい。」でした。私はこの訳がとても気に入っているのです。12年間出血の病で苦しみ続けていた女性は、この「すっかり治って、達者でいなさい。」との主イエスの言葉に送られて、家に帰ったことでしょう。神様の平和の中を歩む私共もまた、「すっかり治って、達者でいなさい。」とのイエス様の言葉に送られ、ここからそれぞれの場へと遣わされていくのです。それぞれ課題のある私共です。そのことを思うと心配で心配でしょうがない。そんな課題をみんな持っている。しかし、大丈夫です。主の平和が私共を包んでいるのですから。安心して行きなさい。
[2014年5月25日]
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