富山鹿島町教会

花の日礼拝説教

「神様の御心に従って」
イザヤ書 6章1~8節
ローマの信徒への手紙 12章1~2節

小堀 康彦牧師

1.花の日
 今日は「花の日」です。「花の日」は、150年ほど前、ちょうど日本にキリスト教が伝えられた頃にアメリカの教会で始まりました。「花の日」というのは、キリスト教会の「こどもの日」と考えていただいて良いと思います。今日はこうしてたくさんの花を飾って礼拝していますが、「花の日」はこの花のように、子どもたちが健やかに育って、それぞれが花を咲かせることを願って始まりました。
 ここにたくさんの花がありますけれど、それぞれ色も形も違います。バラはバラの花を咲かせ、スミレはスミレの花を咲かせます。みんな違いますが、どれもみんなきれいです。この花のように、子どもたちも、みんな違って、それぞれに美しい花を咲かせることを願っています。神様は、わたしたちがそれぞれ違った花を咲かせることが出来るように、良いものを備えてくださっています。足が速い子がいます。絵が好きな子がいます。体を動かすことが好きな子がいます。おしゃれが好きな子がいます。数字が得意な子がいます。食べることが大好きな子もいます。それはみんな、神様がわたしたちに与えてくださったものです。スミレはバラやユリになることはありません。スミレはスミレ、バラはバラ、ユリはユリの花を咲かせます。それで良いのです。

2.わたしたちの咲かせる花とは?
 スミレはスミレ、バラはバラ。花ならそれで良いけれど、わたしたち人間は、どんな花を咲かせれば良いのでしょうか。オリンピックで金メダルを取ったら、その人は花を咲かせたと言えるのかな。もちろん、それは素敵な大きな花が咲いたということなのでしょうけれど、だったら金メダルが取れなければ花は咲かなかったのかな。いやいや、オリンピックに出ただけでも大した花を咲かせたんじゃないか。そうだね。オリンピックに出るのだって本当に大変ですものね。でも、だったら、オリンピックに出られなかったら花は咲かなかったのかな。いやいや、オリンピックに出なくても、ワールドカップに出なくても、全国大会に出なくても、富山県大会に出なくても、どんな大会にも出られなくても、わたしたちの花は立派に、素敵に咲くのです。神様がわたしたちに願い求めておられる花は、そういう花ではないからです。
 わたしたちが何をするにしても、「神様を愛し、神様を信頼し、神様に従う」ようになる。それが、神様がわたしたちに求めておられる花なのです。これを外してしまいますと、人から見てどんなに大きく立派な花を咲かせたように見えても、それは神様が喜ばれる花ではないということなのです。

3.神様を知るために(1)…主の日の礼拝を守る
 この、「神様を愛し、神様を信頼し、神様に従う」という花を咲かせるためには、必要なことがあります。花が咲くには、太陽の光を受けて、水をもらって、肥料も必要でしょう。それと同じです。神様を愛し、神様を信頼し、神様に従うためにも、必要なことがあるのです。
 第一に、神様を知るということです。神様を知らなければ、神様を愛し、神様を信頼し、神様に従うことは出来ません。当たり前のことです。だったら、どうすれば神様を知ることが出来るでしょう。これにもいろいろな道がありますけれど、どうしてもこれを抜くことが出来ないというものがあります。それは、主の日の礼拝を守ることです。この主の日の礼拝の中で、わたしたちは何をするでしょう。
(a)讃美歌を歌う。これはとても大切です。神様を賛美する。神様を賛美する時、わたしたちの心は神様に向いています。わたしたちは、放っておくと、ちっとも神様の方を向こうとしないのです。ですから、讃美歌を歌う時のわたしたちの心の向きは、とっても大切です。
(b)他には何がありますか。お祈りする。そうですね。これもとっても大切です。目に見えない神様に対して、神様がいつも必要なものを与えてくださっていることを覚えて感謝する。神様、こんな風にしてくださいとお願いする。これは、神様との信頼のしるしですね。愛の交わりと言っても良いでしょう。
(c)他にはありませんか。聖書を読む。説教を聞く。そうですね。これも大切です。神様は御自身の思いを、聖書において示してくださいました。ですから、聖書を読んだり、聖書のお話を聞いたりすると、神様がどういう方であるか、何を求めておられるのか、それが分かります。
(d)他にはありませんか。献金する。そうですね。これも大切です。献金は、神様がわたしたちに与えてくださっているたくさんの恵みに感謝して献げます。お金は大事なものです。それを献げるというのは、神様に従うわたしたちの姿勢を示すことになります。
 このように、主の日の礼拝の中には、賛美・祈り・御言葉・献金といったあり方で、わたしたちが神様を愛し、神様を信頼し、神様に従うということが、ギュッと詰まっています。ですから、この礼拝の中で、わたしたちは神様を知り、神様を愛し、神様を信頼し、神様に従う人へと成長していくのです。

4.神様を知るために(2)…毎日のお祈り、主の祈り
 さて、主の日の礼拝を守ることは、わたしたちが神様の求めておられる花を大きく咲かせるためにとても大切なのですけれど、それだけで良いかと言いますと、もう一つ大切なこと、必要なことがあります。それは、毎日お祈りすることです。どうしてかと言いますと、わたしたちは、このように礼拝している時は良いのですけれど、この礼拝している時の心で月曜日から土曜日までずっと生活しているかと言いますと、これがなかなか出来ないのです。礼拝が終わるとすぐに神様のことなんて忘れてしまう、そういうことになりかねないのです。ですから、月曜日から土曜日まで、どうしたら神様のことを忘れないで、神様を愛し、神様を信頼し、神様に従うことが出来るかということが大切になります。それで、お祈りなのです。お祈りは毎日します。一日に何度もします。面倒だなと思うかもしれません。でも、大切なことです。
 お祈りは神様との交わりですから、何を祈っても良いのです。でも、イエス様が、このように祈りなさいと、教えてくださった祈りがあります。主の祈りです。この主の祈りを、一日に何度も祈ったら良いのです。主の祈りは、イエス様が弟子たちから、どう祈るのか教えてくださいと言われた時に、このように祈りなさいと、教えてくださった祈りです。ですから、「祈りの中の祈り」とも言われます。「祈りの学校」とも言われます。この主の祈りを祈り続けていきますと、二つの素敵なことがあります。一つは、祈るということが分かるようになります。もう一つは、自分が変わる、変えられるということです。
 まず、祈ることが分かるようになるということですが、わたしは祈ることを知っている、教えられなくても知っている、そう思っている人が多いと思います。その場合、多分、お祈りというのは、自分がこうしたい、こうなってほしい、こうなったらいいなと思うことを神様にお願いすることだと思っているでしょう。確かに、それも祈りであるに違いありません。しかし、祈りの世界というものは、そんなに狭いもの、小さいものではないのです。実に広く、深いのです。一人で入っていけば迷ってしまうくらい、広いのです。主の祈りは、わたしたちが祈りの中で迷子にならないように導いてくれるのです。
 例えば、主の祈りの中に、「御心が天に成るごとく地にもなさせ給え。」という祈りがあります。神様の御心は、天国においてはその通り成っていますけれど、この地上においてはそうでないことがたくさん起きています。戦争があったり、いじめがあったり、悲しいことがたくさんあります。この祈りは、どうかこの世界も、天国のように神様の愛と平和が満ちますように、そういう祈りです。これは、実に驚くべき祈りです。わたしたちが祈りだと思っていたのは、わたしの思いが成りますようにという祈りでした。しかし、主の祈りが教える祈りはそうではありません。主の祈りは、わたしが祈るべきことは、まず神様の御心が成ることであって、自分の願いや思いが叶えられることではないということを教えてくれます。このことに気付かされるのです。「天にまします我らの父よ。」から始まり、一つ一つの祈りが、このようにわたしたちにまことの祈りを教えてくれます。今、その一つ一つについて見ていく時間はありませんが、まずは主の祈りを毎日、一日何度も祈りましょう。そうしていく内に、わたしたちは祈るということがどういうことなのか、分かるようになってきます。
 そうしていく中で、自分の中で何かが変わり始めていくのに気付くはずです。主の祈りを祈っていく中で、わたしが変わる、わたしが変えられていくということが起きるのです。例えば、最初の祈りである「御名を崇めさせ給え。」ですが、これは「御名」、つまり神様御自身が崇められますようにという祈りです。神様が崇められますようにといつも祈っていく中で、崇められるべき方は神様御自身であることを知り、自分が崇められることを求めたりしないように変わっていくのです。自分が人にどう思われるか、重んじられるか、そういうことがそんなに重要なことではなくなってくるのです。あるいは、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え。」と祈り続ける中で、神様が喜ばないこと、悲しませること、悪いことはしないようにしよう、そういう思いが育っていくのです。悪の中に身を置き続けることが、何とも居心地が悪くなってくるのです。
 でも、あせってはいけません。主の祈りを一日三回祈るようにして一週間経ったけれど、そんなに自分が変わったように思えない。そんなに急にはわたしたちは変わりません。花が咲くのも、種から芽が出て、葉が出て、茎が伸びて、それから花が咲くのです。ジャックと豆の木ではないのですから、種から芽が出たらあっという間に茎が伸びて花が咲くということにはならないのです。わたしたちに起きる変化は、少しずつ、少しずつです。しかし、主の日の礼拝を守り、主の祈りを祈り続けていくならば、わたしたちは必ず変えられていきますし、神様の御心に適う花を咲かせることになるのです。
 神様を愛し、神様を信頼し、神様に従う人へと成長していく。そこに、わたしだけの花が、必ず美しく咲き薫ることでしょう。

[2014年5月18日]

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