1.汚れた霊・悪霊
今朝与えられている御言葉において、イエス様は、汚れた霊に取りつかれた人から、汚れた霊を追い出されました。汚れた霊は悪霊と同じです。汚れた霊、悪霊を追い出すことによって、汚れた霊、悪霊の支配の下にあった人を、神様の御支配の下に取り戻されたのです。このことによって、神様の御支配、神の国はもうここに来ている、神の国は始まっている、そのことを聖書は告げているのです。神様の御支配の下に生きる者とされるということは、具体的には、汚れた霊、悪しき霊の支配から解放されるということなのです。
汚れた霊、悪しき霊の支配と申しますと、何ともおどろおどろしいイメージを抱き、私共の日常とは全く関係ないように思う方がおられるかもしれません。しかし、そうではありません。私共は天地を造られたただ独りの神様の霊であり、主イエス・キリストの霊である聖霊を信じているわけですが、聖霊なる神様のお働きがリアルであるならば、汚れた霊、悪しき霊の働きもまた、リアルなものなのです。もしも私共が、悪しき霊の働きに対してリアルな感覚を持っていないとするならば、それは聖霊のお働きに対してもリアルな感覚を持っていないということなのではないでしょうか。私は、汚れた霊、悪霊というものが今も世界中で働き、実に多くの人々を苦しめていると考えています。悪霊の働きはあまりに多くて、いちいち例を挙げることが出来ないほどです。私共が悪しき霊の働きに鈍感であるとするならば、その理由は、あまりに多くその働きに囲まれていて気が付かないということではないかと思います。汚れた霊、悪しき霊は、個人にだけ働くのではありません。共同体全体に働いたり、その共同体の文化、考え方、価値観といった所にも働くのです。私共は悪霊の支配からは解放されていますけれど、その働き、影響というものと無縁であるわけではありません。実におびただしい悪霊がいつも働いている世界の中に生きているのですから、私共はその働きについてよく弁えていなければならないのだと思います。
2.悪霊の働き
今朝与えられております御言葉から、汚れた霊、悪しき霊の働きについて見てみましょう。2~3節「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。」とあります。ここで、汚れた霊に取りつかれた人が住んでいたのが墓場であったということが記されています。このことから、悪霊は命ではなく、死というものに親和性を持っているということが分かります。これはとても大きな特徴です。まことの神様は、私共に命を与え、生かそうとされてます。しかし、悪しき霊は、私共が生きようとすることを邪魔するのです。また、他の人が生きようとすることを妬み、邪魔するのです。
先日、アフリカのナイジェリアで、女学校が襲われて200人もの女子生徒が連れ去られるという事件が起きました。イスラム過激派が犯行声明を出しました。この女子生徒たちを奴隷として売るとも言っています。ここに汚れた霊の働きを見ないわけにはいかないと、私は思います。北朝鮮の拉致の問題も同じです。ウクライナの東部ではとても緊張が高まっています。それぞれは別々の問題であり、背景には経済問題があり、政治問題があるのでしょう。しかし、それらが悪霊の働きと無縁であるとは、私には思えないのです。悪霊は、私共の内にある罪に働きかけ、自分の思い、欲、価値観を絶対化させ、それに反する者を許さず、命を奪うことさえ正義であると言わせるのです。それはまさに狂気です。しかし、この狂気と無縁であった国もなく、時代もありません。
この汚れた霊に取りつかれた人は、最初から墓場に住んでいたわけではないでしょう。家族もあれば、職場もあったでしょう。そのすべての人間関係を絶ち、ここに住むようになった。人との関係が持てなくなったのです。ここにも悪霊の働きの特徴があります。神様の働き、聖霊の働きの実は愛です。人と人との愛の交わりを形作ることです。一方、悪霊は、それを破壊するのです。学校や職場でのいじめの問題。ここに汚れた霊が働いていないと言えるでしょうか。
4節を見ますと、「これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。」とあります。彼を鎖で縛っておとなしくさせようとしても、それは出来なかったというのです。いろいろな問題を法律で縛ろうとしても、様々な知恵を出して押さえつけようとしても、それは引きちぎられ、破られ、誰も止めることが出来ない。問題が次々に起こって、誰も止められず、いたちごっこ。これが私共が生きている現実でしょう。そこにも悪霊が働いています。
5節には「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」とあります。悪霊に取りつかれた人は、他人を傷付けるだけではないのです。自分をも傷付けるのです。誰も自分を傷付けたくはない。しかし、傷付けるのです。それが悪霊の業です。
このように、この世界も、この世界に住む人も、悪しき霊と無縁ではありません。悪しき霊とは無縁である、そう言える人も社会もありません。私共は悪霊の働きをよく弁えなければなりません。しかし、いたずらに悪霊を恐れる必要はありません。何故なら、その世界に主イエスは来られたからです。そして、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されたのです。悪霊の支配から、私共を、私共の家族を、家庭を、私共の社会を救うために主イエスは来られ、私共は救われたからです。
3.一人の悪霊に取りつかれている人を救うために
さて、イエス様はガリラヤ湖を渡って、この地に来ました。ガリラヤ湖の西側がガリラヤ地方です。そして、ガリラヤ湖の東側がデカポリス地方。イエス様はガリラヤ地方からデカポリス地方へ来られたのでしょう。デカポリス地方は、ギリシャ人が多く住んでいた土地です。1節にある「ゲラサ人の地方」というのは、地図6を見ますと、ガリラヤ湖の南東50kmほどの所にあります。マタイによる福音書が記す同じ記事では「ガダラ人の地方」となっています。こちらは、ガリラヤ湖の南東10kmくらいの所にあります。どちらもガリラヤ湖のほとりというわけではありませんので、ここの記述と合いません。ですから、どちらでもなかったのかもしれません。いずれにせよ、イエス様の一行が嵐を乗り越えても来ようとした所は、異邦人の地であったということなのです。そして、イエス様はこの汚れた霊に取りつかれた人から汚れた霊を追い出すと、また舟に乗ってガリラヤ地方に帰ってしまいます。このことは、イエス様が嵐の湖を乗り越えてわざわざ異邦人の地にやって来たのが、この一人の汚れた霊に取りつかれた人を解放するためだったということを意味しています。イエス様は、家族からも捨てられ、社会からも捨てられ、墓場で苦しむこの一人のために来た。この人を救うために嵐のガリラヤ湖を踏み越えてこられたのです。ただこの一人を救うために来たのです。私共はここで、99匹を残して1匹の迷子の羊を捜しに行く羊飼いのたとえ(ルカによる福音書15章3~7節)を思い出すでしょう。悪しき霊に苦しむ一人を救うために、イエス様は万難を排してやって来られる。そして、私共のもとに来てくださったのです。
4.かまわないでくれ
6~8節「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。』イエスが、『汚れた霊、この人から出て行け』と言われたからである。」とあります。イエス様がこの墓場の近くに来られたのでしょう。すると、この汚れた霊に取りつかれた人が、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」ました。そして、「いと高き神の子イエス」と言うのです。この「遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」というのは、イエス様を拝み、イエス様に従っていこうという意思表示ではありません。悪霊は、人間よりもはっきりと神様のことを知っているのです。何故なら敵だからです。しかも、決して歯向かうことの出来ない敵です。言うなれば天敵のようなものです。動物は自分の天敵を素早く見つけ、身を隠します。そうしないと、我が身を守れないからです。ここで汚れた霊は、主イエスを素早く見つけると、自分の身を何とか守ろうとしているのです。それは、「いと高き神の子イエス」の後に続いている言葉で分かります。「かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」と言うのです。それは、イエス様が「汚れた霊、この人から出て行け。」と言われたからです。汚れた霊は、イエス様が自分を滅ぼしに来たことを知っているのです。それで、「かまわないでくれ。」と言うのです。これが汚れた霊の本音です。「かまわないでくれ。放っておいてくれ。私と何の関係がある。」そう言うのです。これが、汚れた霊がいつも言うことです。汚れた霊に取りつかれた人は、いつもイエス様に向かってそう言うのです。
5.レギオン
イエス様は、9節「名は何というのか。」と尋ねます。すると、「名はレギオン。大勢だから。」と答えました。このレギオンというのは、ローマの軍団を意味する言葉です。ローマの軍団は、正規には6000名で構成される軍隊の単位です。ローマの軍団は当時、世界で最も強い軍隊でした。この汚れた霊は、一人ではなく大勢であり、強力な力を持つものであったことを意味しています。誰もが静めることが出来ない、強い力を持つ悪霊たち。しかし、主イエスの前には、何もすることが出来ません。何故なら、イエス様は天地を造られた神の独り子、神様そのものであられたからです。全能の神様の力と権威とを持ち、この汚れた霊に取りつかれた人を救うために来られた、愛のお方だからです。
ここで汚れた霊どもはイエス様に、12節「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ。」と願います。イエス様はそれを許されたので、汚れた霊どもはこの人から出て、豚の中に入り、二千匹ほどの豚の群れが湖になだれ込み、湖の中でおぼれ死んだのです。二千匹の豚というのは、それ程までにこの汚れた霊は数が多く、強力だったということです。
私は今まで、この聖書の箇所を多くの求道者の方と読ん出来ましたが、そこでいつも決まって一つの反応があることを知らされました。それは、「豚が可哀想だ」というものです。これは、すべての生き物の命は尊いという感性から出て来るものなのかもしれません。なかなか、このような感覚を説得するのは難しいのですが、私は、このような考え方はとても観念的だと思っています。人間の命と豚の命が同じわけがないのです。私は平気でトンカツを食べます。具体的に考えてみましょう。この汚れた霊に取りつかれた人が自分の息子だったらどうでしょう。二千匹の豚は可哀想だという風に、豚の方に心が行くでしょうか。行かないと思います。豚が可哀想だというのは、この汚れた霊に取りつかれた人を愛していないからなのではないでしょうか。我が子ならば、この子が助かった、救われた、そのことを喜ぶはずです。「豚が可哀想だ」というのは、助けられたこの悪霊に取りつかれていた人に心が向いていないからなのでしょう。聖書というのは、その中に入って読まなければ分かりません。この景色を外から眺めていたのでは分からないのです。この物語の中に入る。この悪霊に取りつかれた人が自分だったら、自分の息子だったら、どのように心が動くのかということです。
6.神の国は歓迎されるとは限らない
しかし、二千匹の豚というのは、それにしても多いと思われる方もおられるかもしれません。この豚は飼われていたのでしょうから、持ち主にしてみれば大変な損失です。二千匹の豚が幾らくらいなのか、私は知りませんけれど、現代の金額に換算して数千万円以上であることは間違いないでしょう。17節「そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。」とあります。人々は、この悪しき霊を追い出された人が正気に戻って喜ぶよりも、そんなことをすることが出来る主イエスを恐れ、二千匹の豚を失うようなことをまた起こされたらたまらないと思ったのでしょう。どうかここから出て行ってもらいたい。そう言ったのです。このことは、主イエスによってもたらされる神の国が、いつでも人々に喜ばれ歓迎されるとは限らないということを示しています。
この教会の伝道開始の時、金沢からトマス・ウィン宣教師一行が来たわけですが、彼らはこの地で歓迎されたわけではないのです。それは、今でもそうだと思います。社会や文化というものは、基本的にはいつでも変わることを拒否するものなのです。しかし、主イエスの福音は、神様の御支配を顕すために、御心に適ったものとするために、私共が、社会が、文化が変わることを求めます。変わらざるを得ない。しかし、それが嫌なのです。けれど、どんなに嫌であったとしても、世界は神の国の完成に向かって歩んでいくのですから、私共も、この富山も、日本も、世界も変わっていかざるを得ないのですし、変わって来ましたし、これからも必ず変わって行くのです。主イエスの福音によって変えられていくのです。アメリカの大統領に黒人がなると、50年前には誰が想像出来たでしょう。人々が歓迎しなくても、神の国は確実に広がり、前進していくのです。
7.主イエスの足もとに座る
この汚れた霊を追い出してもらった人はどうしたでしょうか。15節「レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座ってい」たのです。ここで「服を着」と記されておりますことは、人間としての社会生活を行う上で当たり前の「服を着る」ということを示すことによって、社会生活が出来るようになったということを示しているのでしょう。 また、「正気になって座ってい」たというのは、ルカによる福音書では、「悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て」(8章35節)とありますから、彼が座っていたのは、主イエスの足もとであったと考えて良いと思います。そして、この悪しき霊を追い出してもらった人が主イエスの足もとに座るということは、今の私共の姿を指し示していると言って良い。私共も、様々な悪しき霊や偶像礼拝の中で生きて来て、主イエスと出会い、その救いに与りました。そして、私共は、主の日の度毎にここに来て礼拝を守る者となったのです。主イエスの足もとに座る者となったのです。
私共が、悪しき霊の力から身を守るただ一つの道は、この主イエスの足もとに居続けることです。主イエスの御言葉を聞き続けること。それしかありません。私共の中にある罪は、悪しき霊の誘惑にまことに弱いのです。「ダメだ」「嫌だ」と思っていても、主イエスの足もとから離れて行くと、私共はすぐに悪しき霊の誘惑に陥りかねないのです。何が大切で、何を愛し、何を求め、何に従うべきかが分からなくなってしまうのです。主イエスの足もとで御言葉を聞き続ける。それが、正気になった者の姿なのであり、私共の姿なのです。
8.主がしてくださったことを知らせる
この正気に戻った人は、主イエスと一緒に行きたいと願いました。しかし、イエス様はこの時それをお許しになりませんでした。そして、こう言われたのです。19節「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」ペトロやヨハネたちには「わたしに従いなさい。」と言われたイエス様でありましたが、いつも誰にも「わたしに従いなさい。」と言われたわけではないのです。イエス様は、この人にはこの人にしか出来ないことをするように命じられました。それがこの人の場合、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」ということだったのです。人にはそれぞれの召命があります。その召しに従うことが大切なのです。そして、この人の場合、主イエスによって驚くべき救いの御業に与ったのですから、それをまず家族に知らせなさい、そうイエス様は言われたのです。そして、この人は主イエスの言葉に従いました。多分、長く関係を失っていたであろう家族の元に帰り、イエス様が自分に何をしてくださったかを語ったのです。家族も、この人がどんな状態であったのか一番良く知っていたわけですから、その変化に驚いたことでしょう。そして、心から喜んだに違いありません。汚れた霊によって破られた、愛の交わりが回復されたのです。家族の者たちは、皆、イエス様に感謝したに違いありません。そして、きっとイエス様を信じるようになったのではないでしょうか。
私共は、この主イエスが言われた「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」との御言葉をきちんと受け止めたいと思うのです。私共は家族に語っているでしょうか。伝えているでしょうか。語りましょう。伝えましょう。私共は、主の恵みの業、自分にしてくださったことを伝えるのです。具体的に伝えるのです。私共はどこかで、伝道というものをキリスト教の教理を伝えることだと思っているところがあるのではないでしょうか。それが悪いというわけではありません。しかし、もっと大切なことは、私に起きたことを喜びと感謝と感動をもって伝えることです。そうでなければ、福音は、神様の愛は伝わりません。私共はどこか「教えてやる」といった傲慢な心がないか、上からものを言うような言い方をしていないか、顧みなければなりません。
この人は、イエス様がしてくださった業を、デカポリス地方に言い広め始めました。それによってデカポリス地方で伝道が進展したのか、キリスト者が誕生したのか、それは分かりません。しかし、このことがやがて、主イエスが十字架にお架かりになり、復活された後、弟子たちが主イエスの福音をデカポリス地方に宣べ伝えていった時の備えとなったことは確かなことだと思います。私共も、主が自分にしてくださったことを、具体的に、家族に、友人に伝えていきたいと思うのです。
[2014年5月11日]
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