1.はじめに
主イエスが私共と共に居てくださる。それ故、どのような状況の中でも私共は守られ、支えられ、御国へと導かれる。全き救いの完成へと導かれる。私共はこのことを信じ、信仰の歩みを為しております。そしてこのことは、代々の聖徒たちが、その信仰の生涯において証ししてきたことです。私共がキリスト者であるということは、このことを証しする者として立てられているということです。私共は、様々な課題を持ってここに集って来ております。皆、大なり小なり重荷を負い、ここに集って来ている。そのような私共に、今朝もイエス様は、「わたしがあなたと共に居る。大丈夫。安心しなさい。」そう告げられます。この主の御声を、共々にしっかり聞き取って、ここからそれぞれの場へと遣わされてまいりたいと願うものです。
4章1節に「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。」とあります。続いて「イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」とあります。イエス様はガリラヤ湖に舟を浮かべて、そこから岸にいる群衆に向かってお語りになった。その時語られたのが、「種を蒔く人のたとえ」であり、「ともし火と秤のたとえ」であり、「成長する種のたとえ」「からし種のたとえ」でした。このたとえに共通しているのは、神の国、神様の御支配というものが、ここに来ている。「神の国は近づいた」ということでありました。そのたとえで話された、神の国がもうここに来ているということを、マルコによる福音書はそれに続く4つの奇跡をもって、本当に来ているでしょうと示しているのです。今朝与えられております「突風を静める」奇跡、そして「悪霊に取りつかれた人をいやす」奇跡、「ヤイロの娘を生き返らせる」奇跡、「長血をわずらっていた女をいやす」奇跡です。4章から5章にかけて、そのような構造になっていると思います。
2.ガリラヤ湖
さて、イエス様は、ガリラヤ湖に舟を浮かべて群衆に向かって語っておられたわけですが、それが終わって夕方になって、イエス様は「向こう岸に渡ろう。」と弟子たちに告げました。
向こう岸というのは、ガリラヤ湖の対岸ということです。ガリラヤ湖というのは、よく琵琶湖に似ていると言われます。琵琶湖の方が倍以上大きいのですが、どちらも周囲が山に囲まれておりまして、水が出ていく所が一つしかない。ガリラヤ湖はヨルダン川、琵琶湖は淀川しかありません。大阪に出張する時、琵琶湖の西を通る湖西線に乗るのですが、よく風のために遅れたり止まったりします。琵琶湖はいつもはとても穏やかなのですが、風が吹くとなると、電車を止めてしまうほどの風が吹くのです。ガリラヤ湖もそのようなことがあるようです。
弟子たちの内、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人は、このガリラヤ湖の漁師でした。ガリラヤ湖の広いところは対岸まで20kmもあります。ちょっと行こうという距離ではありません。ですから、夕方になって対岸まで舟を漕ぐというのは、あまり気が進まなかったのではないかと思います。しかし、主イエスが「向こう岸に渡ろう。」と言われるのです。ですから、彼らは舟を漕ぎ出しました。「ほかの舟も一緒であった。」とありますから、弟子たちを乗せた舟は3艘か4艘あったのだと思います。イエス様と12弟子、合わせて13人ですが、一艘の舟に乗れる人数は、手漕ぎの舟では4~5人だったのではないかと思います。イエス様を乗せた小舟と、弟子たちが乗った小舟は、夕方のガリラヤ湖に漕ぎ出したのです。
3.危機を前にしてのつぶやき
すると、しばらくして「激しい突風が起こり」ました。「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」と聖書は告げます。もう日は暮れていたかもしれません。激しい突風によって大きな波が起き、舟の中に水が入ってきます。小舟は木の葉のように揺れました。このままでは沈んでしまう。弟子たちは必死に水を掻き出したことでしょう。ところがその時、イエス様はどうしておられたかと言いますと、38節「しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。」というのです。舟が沈むのではないかと恐れ、必死に水を掻き出している弟子たち。しかし、イエス様は眠っている。弟子たちはイエス様を起こします。そして、こう言うのです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」この言葉には、イエス様に対しての非難めいた思いが表れていると思います。この時弟子達は主イエスに対して「先生、このままでは舟が沈んでしまいます。あなたが向こう岸に渡ろうと言ったのではないですか。何とかしてください。こんな目に遭っているのはあなたのせいですよ。何を呑気に眠っているんですか。」そんな思いを持ったのではないかと思います。
この箇所を読みながら、私は、モーセによって導かれてエジプトを脱出したイスラエルの姿を思い起こしました。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルでありましたが、エジプトのファラオの軍勢が彼らを追って来ました。そして遂に、前は海、後ろはエジプト軍という、絶体絶命の状況に追い込まれました。出エジプト記14章10~12節「ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。『我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、「ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです」と言ったではありませんか。』」とあります。彼らは、奴隷の状態であったエジプトから喜んで脱出したのです。しかし、目の前にどうしようもない状況が現れると、モーセに「何ということをしてくれたのか。」と言うのです。このイスラエルの人々のつぶやきは、出エジプトの旅の中で何度も繰り返されました。この後も、食べ物が無くなった、水が無くなった、その度にイスラエルの人々はモーセに、神様に、つぶやきました。イスラエルの人々は、エジプトを脱出する前に何度も何度も神様の奇跡を見せられていたのです。しかし、ダメなのです。目の前に苦しい現実が現れると、神様への信頼など跡形も無く消えてしまうのです。
前は海、後ろはエジプト軍。この時モーセは、イスラエルに向かってこう告げました。13~14節「モーセは民に答えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。』」そして、モーセが海に向かって手を差し伸べると、目の前の海の水が分かれ、乾いた地が現れました。イスラエルの人々は、その海に出来た道を通って逃げたのです。食べ物が無い、肉が食べたいと不平を言った時には、神様は天からのマナを与え、うずらの大群をもってイスラエルを養われました。水が無い時は、岩から水を出してくださいました。神様は、その全能の御力をもってイスラエルを守り、養い、約束の地へと導かれたのです。
私には、このガリラヤ湖で突風に遭い、舟が沈みそうになった時にイエス様を非難する弟子たちの姿と、出エジプトの旅においてモーセを、神様を非難し、苦情を言うイスラエルの姿が重なりますし、同時に、自分自身の姿とも重なるのです。困難な状況に陥ると、私共は、イエス様が共にいてくださる、神様が共にいてくださる、このことをいとも簡単に忘れるのです。
4.沈まぬ舟
この時、イエス様は眠っておられました。疲れていたということではありません。イエス様は、天地を造られたただ一人の神の御子であり、この嵐が自分に何もすることは出来ないし、父なる神様がそのことをお許しにならないことを御存知だったのです。イエス様はこの嵐の中でも大安心の中にあった。だから眠っておられたのです。この舟が沈むことはないということを知っておられたからです。
しかし、弟子たちはそれが分かりません。ですから恐れます。不安のあまり、イエス様を非難しさえするのです。この時、弟子たちは命の危険を覚え、恐れに支配されてしまっていたのです。イエス様は確かに一緒に舟に乗ってはいるけれど、何もせずに眠っているだけ。ちっとも頼りにならない。これが、この時の弟子たちの思いだったでしょう。居るには居るが、眠っているだけ。一緒に水を汲み出すでもなく、何の役にも立たない。彼らは、マルコによる福音書の1章から3章にわたる、主イエスの癒やしの奇跡を何度も見ていたのです。しかし、この嵐の前では、イエス様もただの役立たず。そう思った。
イエス様は眠っている。何もしてくれない。ただ居るだけ。そう弟子たちには思えたのです。しかし、そうなのでしょうか。主イエスが共におられるということは、一見、イエス様は何もしておられないように見えても、決定的に守られている。そういうことなのではないでしょうか。この後、イエス様は風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ。」と言って、嵐を静められました。しかし、もしイエス様がそうされなかったら、眠ったままでおられたなら、どうなっていたでしょうか。舟は沈んだでしょうか。そうはならなかったと思います。主イエスが共におられるとは、そういうことなのです。沈んでしまいそうに見えても、沈まないのです。しかしこの時、弟子たちはそうは思えませんでした。だから、イエス様からこう言われたのです。40節「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは怖がりました。もうダメだと思いました。それは信じていないからだ、とイエス様は言われるのです。イエス様が共におられるなら大丈夫。そのことを信じることが出来ないから怖がるのだ。そう言われるのです。
もう少し、このことについて思いを巡らしてみましょう。39節「イエスは起きあがって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」これは、イエス様が天地を造られた神の子であることを示しています。これを見た弟子たちは、41節「弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」のです。弟子たちはこの時まだ、イエス様がどういうお方なのか分かっていないのです。病気の人を癒す力を持っている方だとは知っています。しかし、まことの神であられるという所にまでは至っていなかった。この嵐を静める奇跡を見ても、まだ良く分かっていないのです。このイエス・キリストというお方が誰であるかということが本当に分からなければ、イエス様が共におられても、ただ眠っているだけで何もしてくれないではないか、この命の危険が迫っている時に何の役にも立たない、そう思ってしまうのです。
しかしイエス様は、私共が滅んでも構わない、そのように思っておられる方ではありません。そのことは十字架において明らかにされました。私のために、私に代わって十字架にお架かりになった。御自分の命と引き替えに、私共を救ってくださった方です。そのお方が、私が滅んでも良いなどと思われるはずがないのです。
更に、イエス様は三日目に復活されました。死さえもイエス様を滅ぼすことが出来なかった。天地を造られたただ一人の神の独り子だからです。この全能の力を持ち、私共を愛しておられるイエス・キリストが、共にいてくださる。だったら、一体何が私共を滅ぼすことが出来るというのでしょうか。何もありません。使徒パウロが「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマの信徒への手紙8章31節)と言っているとおりです。
主イエス・キリストとは誰であるのか、そのことがはっきり分かるならば、その方が私と共にいてくださるということが分かるならば、私共は何も恐れるものはないのです。
5.向こう岸に向かって舟を出す
この時、弟子たちはイエス様に「向こう岸に渡ろう。」と言われて、舟を出したのです。自分で勝手に舟を出したのではないのです。でも嵐にも遭ってしまったわけです。この時もし、主イエスに「向こう岸に渡ろう。」と言われても、「今日はもう夕方ですし、止めましょう。」と言って舟を出さなければ、弟子たちは嵐に遭うことはありませんでした。しかし、そうであったなら、弟子たちは嵐を静められるイエス様を見ることもなかったのです。イエス様がまことの神の子としての力と権威を持った方であることを知ることも出来なかったのです。イエス様が舟を出しなさいと言われ、イエス様がその舟に乗っておられるのでしたら、たとえ嵐に遭ってもその舟が沈むことは決してないのです。そして、そのことによって、いよいよ主イエス・キリストというお方がどのような方であるかということを知ることになるのです。代々の聖徒たちは、また教会は、そのことを自らの信仰の歩みによって証しして来たのです。
先週29日の火曜日に、F教会の献堂式がありました。礼拝10数名の小さな群れです。しかし、100年前からFの地に立ち続けています。F教会は、併設のF.A.幼稚園と共に歩んで来ました。月曜日から土曜日まで幼稚園を行い、日曜日はそのホールで礼拝をするという形です。8年前、F.A.幼稚園は新築移転を致しました。建物が老朽化し、そこで幼稚園をすることは難しくなっていたからです。しかし、お金はありませんでした。幼稚園債を発行し、私共の教会もそれを引き受けました。そして、今度は教会と牧師館です。私は正直な所、幼稚園も新しくなったし、そのホールで礼拝をすれば良いのではないか、そんな風に思っておりました。しかし、Y牧師は、このままでは後任の牧師を招くことが出来ない、後任の牧師を招くことが出来るようにするのが私の務めです、と言って、教会堂と牧師館の建築を決断されたのです。新しくなった幼稚園と、通りを挟んで正面に土地が与えられました。そして、建築に。しかし、今回もお金はありません。ところが、以前の幼稚園と教会が建っていた土地が売れました。これも驚きでした。そして、献堂式を迎えることが出来たのです。
「向こう岸に渡ろう」との主イエスの促しに、Y牧師とF教会は従ったのです。まだ沢山の借金があります。その返済は大変なことでしょう。しかし、大丈夫。楽ではありませんが、大丈夫。もし、「向こう岸に渡ろう」という主イエスの促しに従わなかったのなら、Y牧師夫妻を始め、教会の人々はそんな大変な目に遭わなかったでしょう。しかし、この促しに従い、一歩を踏み出すのがキリストの教会であり、キリスト者なのです。Y牧師は、奥様の肝臓をいただく生体肝移植手術を受け、昨年からは透析も始まっています。そういう中での歩みです。献堂式に出席して、主は今本当に生きて働いておられるということを改めて思わされました。
私共は今から聖餐に与ります。この聖餐に与ることにより、私共は、イエス様が私と共にいてくださるという恵みの事実を新しく心に刻むのです。
天地の造り主の独り子、十字架に架かり三日目に復活されたイエス様が、あなたと共におられます。だから大丈夫です。安心して行きなさい。
[2014年5月4日]
へもどる。