富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の国の成長」
創世記 15章1~6節
マルコによる福音書 4章26~32節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日は、この礼拝の後で2014年度の定期教会総会が開かれます。2013年度の歩みを振り返り神様が導いてくださったことを感謝すると共に、2014年度の計画を立て、心を合わせ、祈りを合わせて、御心に適った歩みを為していくことを具体的に決めていく時です。皆さん出席していただき、共に祈りを合わせていただきたいと思います。そのような教会総会に先立って今朝与えられました御言葉は、主イエスがお語りになった神の国についての二つのたとえです。二つとも、神の国を植物の種にたとえているものです。神の国のたとえと申しましても、神の国はこんな所だと言って絵に描くようなイメージを持っているわけではありません。花が咲いていたり、天使が飛んでいたり、そんなことを語っているのではないのです。神の国というのは、直訳すれば神の支配という意味ですが、神様の御支配はイエス様と共に来ました。神の国はもう来ているのです。ここに来ている。この教会に、私共の中に、既に来ている。まだ完成はしていません。しかし、既に来ている。ですから、神の国についてこんな所だあんな所だと言ってイメージする必要はないのです。そうではなくて、既に来ている神の国がどんなに力強く成長するものなのか、そのことに私共の目を向けさせる、気付かせる。それが、この二つの神の国のたとえが語られた意味なのです。

2.神様のお導きによって
 順に見てまいりましょう。26~28節「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。』」とあります。ここで告げられておりますことは、神の国、神様の御支配というものは、蒔かれた種が自然に成長するように、種を蒔いた人の力によるものではなく、神様の力によって芽を出し、成長して、実を結ぶものだということです。
 今の季節は、いろいろな野菜の種を蒔いたりする時でありますけれど、種を蒔いた人は、水をやったり雑草を取ったりはしますけれど、蒔いた種そのものには何もしません。種が根を張り芽を出すのを待つだけです。早く芽を出せと、蒔いた種をほじくり出したりはしないのです。待つしかない。種の持っている力、芽を出し、成長し、実を付ける力を信じて待つしかないのです。神の国もそれと同じだと言うのです。
 私共は、神の言葉を伝える業に励みます。それは、神の国の種を蒔くようなものです。礼拝や家庭集会、様々な集会などで御言葉が語られる。祈りがささげられる。それらはすべて神の国の種蒔きです。もっと言えば、そのような聖書が開かれて読まれる時ばかりではなく、私共が出会ういろいろな人たちとの会話、仕草、そのすべてが種蒔きなのです。私共は、そんな意識はしないで生きているかもしれません。しかし、そういうものなのです。キリスト者として、神様に愛され、神様を愛する者として生きる。そこにおいて私共は、自分が意識しようとしまいと、神の国の証人として立っているのです。私共が教会に来るようになった時、あるいは来てからでも良いですが、私共は具体的な誰かに出会って、教会に来よう、教会に来続けようと思ったはずです。その出会った人は、私に神の国の種を蒔いているつもりはなかったかもしれない。しかし、あの人に出会って、あの人と知り合いになって、教会につながった。それは事実なのです。その時、あの人がこう言った、こうしてくれた。それがきっかけだったのです。そんなことを言われても、その人は「えっ!」と思うだけかもしれません。しかし、そうなのです。もちろん、私共が主イエスを信じ救われるまでには、その一人の人との出会いだけではなく、いろいろな人との出会いがあり、導きがあったでしょう。いろいろなことがあった。それは「神様のお導き」としか言いようがないのです。神の国とはそのように、私共がこれをした、あれをした、そういうことを超えて、「神様のお導き」としか言いようのない出来事の連鎖によって成長するものなのだということなのです。
 こう言っても良いでしょう。私共が蒔いた神の国の種は、神様のお導きの中で成長していくのだから、それを信じ、安心して待てば良いのだということです。
 私共は、2013年度、いろいろなことを行いました。主イエスの福音が、この富山の地により豊かに、より広く、より深く伝えられていくために、そのことを願って、いろいろなことをしました。それは、すぐに結果が出たものもあれば、出ないものもある。しかし、種が蒔かれたことは確かなことなのですから、私共は神様のお導きというものを信じて、待てば良いのです。

3.収穫も主によって
 29節を見ますと、「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」とあります。この収穫というのは二通りに理解出来ると思います。一つは、終末です。主イエスが再び来られる時、それは神の国の完成の時であります。それまで神の国は成長を続けるということです。歴史を貫き、世界中に広がっていくのです。もう一つの収穫についての理解は、私共が主イエスを信じ、主イエスと共に生きるようになるということです。具体的には、洗礼や信仰告白の時も、この収穫の時と受け取ることが出来るだろうと思います。洗礼者が生まれるということは、神様が生きて働いてくださっていることを私共が具体的に知らされる時です。そして、一人の洗礼者が出るまでには、気が遠くなるような長い間、神様が導き続けてくださったということがあるわけです。
 教会総会においては、必ず教勢報告というものがあります。教勢という言葉は、「教える」に「勢い」と書くのですが、これは教会用語だと思いますが、教会がとても大切にしているものです。何人の人が洗礼を受け、何人が天に召され、礼拝には何人が出席したのかということが報告されるわけです。それは「ただの数字だ」と言えば数字なのですけれど、その数字一つ一つの背後に、気が遠くなるような神様の具体的なお導きというものを、私共は見るわけです。そこで私共がよくよく心しておかなければならないことは、この教勢報告というものを、決して「私共が為したことの成果」として見てはいけないということです。たとえば、洗礼者何名という記述においても、私共がこれこれをした結果こうなったということではないのです。もちろん、神様は私共が為したすべてのことを用いてくださいます。しかし、その自分がしたことの結果ではないのです。いくつもの教会を経て、私共の教会で洗礼を受ける場合だってあります。逆もあるでしょう。長い間教会学校で学んだ子が、大人になって別の教会で洗礼を受ける。そんなことは良くあることです。私共は種を蒔く。その種が必ず芽を出し、成長し、豊かな実を付けることを信じて、種を蒔くのです。しかし、その種が芽を出し、茎を伸ばし、実を付けるのは、その種の力、福音の力、神様の力によるのであって、私共がこれこれをしたから実を結んだということではないのです。私共は種を蒔く。その種が、成長してやがて実を結ぶことを信じて種を蒔く。それが何時、何処で実を結ぶのかは分かりません。しかし、必ず実を結ぶ。このことが信じられなければ、私共は伝道など出来ないと思います。伝道とは、この必ず実を結ばせてくださる神様のお導きというものを信じて、為せる精一杯のものをささげていくことなのです。

4.小さな所から始まる神様の御業
 さて、二つ目のたとえは、「からし種」のたとえです。からし種というのは、粒マスタードに入っている、あの小さな粒です。ゴマよりもっとずっと小さい、小さな小さな種です。しかし、これが生長しますと、3mにもなるといいます。神の国は、このからし種のようなものであると言うのです。
 この「からし種」のように小さな種だと言われているのは、主イエス・キリスト御自身、またその御業や言葉を指していると考えて良いでしょう。イエス様が為された業も言葉も、歴史的に言えば、当時の巨大なローマ帝国の辺境の地における、小さな出来事に過ぎませんでした。パレスチナ地方で一時、人々の注目を集めたかもしれませんけれど、イエス様が公の場で宣教されたのは、たったの3年です。弟子たちだって、数えるほどしかいませんでした。歴史の流れの中で、誰にも憶えられず、忘れ去られ、消えていっても少しもおかしくなかった。しかし、そうはなりませんでした。それは、イエス・キリストというお方がまことの神であられたからです。神の国の到来そのものであったからです。主イエスと共に神の国が来たからです。主イエスと共に生きることが、神の国に生きることだからです。主イエスというお方は、十字架の上で死んで終わりではなかったからです。
 主イエスがもたらした神の国は、十字架の死で終わらず、主イエスの復活、更にペンテコステの出来事を経て、全世界に広がり、私共の所にまでやって来ました。150年前、この富山には一人のキリスト者もいませんでした。しかし今、何十という教会があり、今日もそれぞれの教会で礼拝がささげられております。神の国は、ここに来ているのです。この小さなからし種から始まった神の国の到来は、全世界の人々が宿るほどに枝を張り、成長を続けています。

5.アブラハムの祝福の継続
 私は、この神の国の成長というものを、アブラハムの祝福の継続であり、展開だと理解しています。先程、創世記15章をお読みいたしました。神様によって召し出されたアブラハム。彼は、ある日神様から召命を受けます。12章1~3節「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』」この神様の言葉に従って、彼は生まれ故郷を離れ、旅立ちました。75歳の時です。しかし、彼には子どもが居ませんでした。時が経ち、それでも子どもは与えられませんでした。彼は、自分の子孫が大いなる国民となるということを信じられなくなりました。その時与えられた御言葉が15章4~5節です。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」アブラハムは、この神様の言葉を信じました。後にアブラハムは、100歳の時に一人の男の子、イサクを与えられます。そして、イサクの子がヤコブ、ヤコブの12人の男の子がイスラエル12部族となりました。アブラハムと交わした神様の約束は、イスラエル民族という形で成就したように見えます。しかし、それで終わりではなかったのです。新しいイスラエルとしての神の教会の誕生によって、アブラハムの約束は更に継続され、発展した形で展開したのです。アブラハムから始まった神の民は、キリストの教会というあり方で、ユダヤ民族という枠を超えて全世界に広がったのです。今、神の民は、天の星の数ほどに、海辺の砂粒ほどに、増えました。そして、それはこれからも増し加えられていきます。

6.信じて、安んじて、種を蒔く
 アブラハムはこの時、神様の言葉を信じる、目に見える根拠は与えられていませんでした。しかし、彼は信じたのです。6節「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。このアブラハムの信仰こそ、神の国の到来という救いの現実に生かされている私共が立っている所でもあるのです。アブラハムは信じたのです。そして、神様はそれを義と認められたのです。
 私共もまた、主イエス・キリストを信じるのです。ただ独りの神の子と信じる。この方の十字架によって一切の罪が赦され、私共も神の子とされたことを信じるのです。この御子の復活によって、自分にも永遠の命が与えられたことを信じるのです。その信仰によって、私共は神様に義と認められ、神の国に生きる者とされたのです。ただ信仰によって義とされた。私共が良き業を為したから義とされたのではありません。ただ、神様が憐れんでくださり、私共を愛してくださり、主イエスの尊い血潮の故に神の子として私共を受け入れてくださったからです。この神様の愛によって、神の国は広がり、成長し続けるのです。私共の業によってではありません。ただ神様のお導きによってなのです。ですから、私共に求められていることは、いつもこの一つのことです。神様の御業を信じるということです。信じて、安んじて、精一杯種を蒔き続けるということです。
 種の蒔き方を工夫するのも良いでしょう。しかし、成長させてくださるのは神様です。この神様の、生きて働いてくださる具体的なお導きを信じて、私共はそれぞれが生かされている場において、精一杯種を蒔き続けていくのです。すぐに芽が出なくても、動じることなく、安んじて蒔き続けていけば良いのです。何故なら、神の国は既にここに来ているからです。私共はもう、神の国に生き始めているからです。この種の成長力を一番良く知っているのは私共です。それは、誰よりも私共自身が変えられたからです。神の国に宿る者とされているからです。神様を愛し、主イエスを愛し、神様を信頼し、主イエスを信頼し、神様の言葉に従い、主イエスと共に生きる。ここに神の国は既に来ています。私共は、その完成を願い、待ち望み、2014年度の歩みを主の御前にささげていきたいと思います。

[2014年4月27日]

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