富山鹿島町教会

礼拝説教

「本当にこの人は神の子だった」
詩編 22編2~32節
マルコによる福音書 15章33~41節

小堀 康彦牧師

1.受難週
 今日は棕櫚の主日と呼ばれる日です。人々が棕櫚の枝を振り、枝や自分の服を道に敷いて「ホサナ、ホサナ」と叫ぶ中を、主イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城された日だからです。その様子は、マルコによる福音書では11章の始めの所に記されています。この「ホサナ」というのは、日本語に訳せば「万歳!」といった感じになるでしょうか。マルコによる福音書では、この時「葉の付いた枝を切って来て道に敷き」となっていますが、ヨハネによる福音書では「なつめやしの枝を持って迎えに出た」とあります。なつめやしと棕櫚とでは違う植物なのですが、長い間、この「なつめやしの枝」を「棕櫚の枝」と訳していたので、棕櫚の主日と呼ばれるようになりました。
 この棕櫚の主日から始まる一週間を、受難週と呼びます。今週の金曜日が、イエス様が十字架にお架かりになって死なれた日で、受苦日(苦しみを受けた日)とか、聖金曜日(聖なる金曜日)と呼ばれたりします。その前日の木曜日に主イエスと弟子たちとの最後の晩餐があり、それにより聖餐が制定されました。代々の教会は、この受難週をどう祭るかということに工夫をしてきました。この受難週をどう守るか。主イエスの御受難をどう我が身に刻んでいくか。そこに工夫をしてきたのです。私共の教会では、週報にありますように、火・水・木と受難週祈祷会を朝と晩に行います。皆さん、是非都合をつけて出席していただきたいと思います。

2.マルコによる福音書のクライマックス
 マルコによる福音書はこの受難週の出来事を、全体の三分の一の分量を割いて記しています。それは他の福音書も同じです。受難週の出来事、それは主イエスが十字架へと歩んでいく歩みを記しているわけですが、そこに多くの分量を割いて記している。このことには、明確な目的があるのだと思います。マルコは、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」といってこの福音書を書き始めました。この「イエス・キリストの福音」がどこで明らかになるか。それは、この主イエスの十字架において明らかになるということなのです。また、主イエスの宣教の第一声を「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と記しましたが、この「時は満ち」たというのは、主イエスの十字架の出来事において、ついに神様の御計画が成就した、神様の時は満ちたということなのです。「神の国は近づいた」とは、神の国、神の支配、神様の救いが、この主イエスの十字架によって私共にもたらされたということなのです。そして、「悔い改めて福音を信じ」るとは、この主イエスの十字架の前に立ち、十字架にお架かりになった主イエス・キリストを見上げる時に起きることなのだ。そうマルコによる福音書は告げようとしたのだろうと思います。
 その意味では、今朝与えられております御言葉において、ローマの百人隊長が主イエスの十字架を見て、「本当に、この人は神の子だった。」と告白していますが、この百人隊長の告白こそ、マルコによる福音書が告げたかったことであり、この告白に至るために15章までの記述があった。そう言って良いのだろうと思います。ここにマルコによる福音書のクライマックスがある。そう言っても良いと思います。私共も、今朝、何よりも主イエスの十字架を見上げて、この百人隊長と共に、この告白をしたい。この告白へと導かれたい。そう願っています。

3.主イエスの十字架
 さて、主イエスが十字架につけられたのは午前9時でした。15章25節に記されております。この十字架刑というのは、見せしめのため行われるという意味もありましたので、公開で行われました。手首に釘を刺されて十字架につけられ、そこから流れる血が出血多量となって死に至る、そういう死刑です。イエス様は十字架につけられてすぐに息を引き取られたのではないのです。イエス様は、午後3時に息を引き取るまで、実に6時間にわたって死に至る苦しみをお受けになったのです。だから、私共が死の苦しみを味わう時にも、イエス様は同じ苦しみを味わった者として、共にいてくださることがお出来になるのです。私共は生きておりますから、誰も死の苦しみを知りません。しかし、イエス様だけは死の苦しみを知っている。その方が、私共と共にいてくださるのです。私共は、たとえ死ぬ時でさえも独りではないのです。死の苦しみを味わわれたイエス様が共にいてくださるからです。
 イエス様が十字架にお架かりになって3時間が過ぎ、昼の12時になった時、「全地が暗くなり、それが三時まで続いた。」と聖書は記します。この三時間の闇を、皆既日食があったというように自然現象として説明することには無理があります。聖書が告げているのは、そんなことではないのです。まことの世の光、光の中の光であられる神の御子が死のうとしている。この世界に光がなくなる。光が消えようとしている。そのことを告げているのでしょう。

4.エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ
 そして、主イエスは大声でこう叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という意味ですが、この言葉は主イエスが日常において使っていたと考えられるアラム語です。先程の「ホサナ」もそうですが、「ハレルヤ」とか「アーメン」あるいは「マラ・ナ・タ」や「タリタ・クム」という言葉は、当時の言葉です。この当時の言葉がそのまま聖書に記されたということをどう理解するかですが、一つにはこの言葉が、聖書を読む人が知っている言葉であったということが考えられるのではないかと思います。もっと言えば、教会がその言葉をそのまま礼拝の中に使っていたのではないかとさえ考えるのです。例えば、「アーメン」というのは「その通り」という意味だからといって、私共は「アーメン」と言わずに「その通り」という日本語に翻訳して言い換えることはしないのです。何故か。それはアーメンで十分伝わるからです。いつも使い、耳慣れており、翻訳する必要がなかったからです。とすれば、主イエスの最も謎に満ちた言葉と言われる「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」というこの言葉も、当時のキリスト者にとって分かる言葉、分かる祈り、更には教会の礼拝の中に使われていたと考えることさえ出来るのではないと思うのです。礼拝のどういう場面で使われていたのか、それは良く分かりません。しかし、この十字架上の主イエスの言葉が、当時のキリスト者たちによって自分の祈りとして祈られていたということについては、分かる気がするのです。
 イエス様は十字架の上で死なれたけれど、三日目に復活されました。この復活がなければ、主イエスの十字架はその意味を明らかにされることなく人々に忘れ去られ、主イエスというお方がおられたということさえ、歴史の中から消えていただろうと思います。当然、キリスト教が生まれることもなく、福音書も記されることなく、新約聖書も誕生しなかったでしょう。この主イエスの十字架は、復活とひとつながりのものとして、キリスト者は受け取っていました。そのようなキリスト者にとって、この「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」という祈りは、そう祈るしかない苦しみの現実の中でこの祈りをささげる時、自分のこの祈りが主イエスの十字架の祈りと一つにされて、それ故確かに神様に届き、やがて主イエスの復活と一つにされる明日が備えられることを信じることが出来る。そのような祈りとして祈られたのではないか。そう思うのです。
 私共は人生を歩む中で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」そのように祈らざるを得ないような時があるのです。にっちもさっちもいかない、四面楚歌、生きる気力さえ無くなってしまうような状況に追い込まれることがある。それは、個人的な問題であったり、愛する者の死であったり、あるいは裏切られるということもあるでしょう。生活の苦しさもあるかもしれない。あるいは、もっと大きな、国家や民族の滅びというようなこともあるかもしれない。そういう中でキリスト者は、私の祈りとして、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と祈ってきたのではないでしょうか。

5.謎の言葉?
 ほとんどの注解者は、この主イエスの十字架上の言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」を、謎に満ちた言葉として、しかし何とか説明しようとして、いろいろなことを考えて来ました。私もいろいろ考えて来ました。
 まだ洗礼を受けたばかりの頃、これはイエス様が肉体的、精神的苦しみの中で叫んだものだと考えておりました。もう少し経ちますと、この言葉が先ほどお読みしました詩編22編の冒頭の言葉あることを知り、イエス様はここで詩編22編を祈っていたのだと考えるようになりました。実際、8~9節には「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」とあり、これは主イエスが十字架に架けられたときに人々に浴びせられた嘲笑を思わせます。16節には「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。」とあり、これはイエス様が十字架の上で「渇く」と言われたことを思い起こさせます。18節には「骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め」とあり、これはイエス様の十字架の上でのお姿を思わせます。また、19節には「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」とあり、これは主イエスの十字架の下で兵士たちが主イエスの服を分けるためにクジを引いた出来事を思わせます。この様に、主イエスの十字架は詩編22編の成就である、そのことをイエス様はこの叫びによって示されたのだと理解したのです。この詩編の22編は、23節以降神様への賛美へと変わります。イエス様は、この叫びにおいて詩編22編を指し示すことによって、十字架が敗北などではなく、勝利の業であることを示されたのだ。そのように受け止めたのです。その後、主イエスは神様に捨てられるという、永遠に神と一つであられた神の子だけが知る、私に代わって神に捨てられることの深い苦しみを叫ばれたのだ。そのように受け止めてきました。どれが正しいということではないと思います。神の独り子のこの叫びを私共が完全に理解するということは出来ないのでしょう。その意味では、この言葉は謎の言葉だと言わなければならないのだと思います。
 しかし、今年の受難週を迎える今朝の説教の備えをしている中で、全く別の視点から、この主イエスの祈り、主イエスの叫びを受け取ることを示されました。それが、教会の祈り、私の祈りとしての「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」です。私は、この言葉を今まで、自分の祈りとして受け取ったことはありませんでした。全ての注解書が説明するように、イエス様の叫びとして、どうして主イエスはこの叫びを叫ばれたのか、そのような視点からだけこの言葉を受け止めてきました。しかし、何故アラム語で記されているのか、そのことを考えると、どうしてもマルコによる福音書が記された当時、この主イエスの祈りは、教会の祈り、キリスト者の祈りであったと考えざるを得ないのではないかと思い至ったのです。そして、本当に生きることさえ辛くなってしまったキリスト者が、主イエスの十字架を見上げ、この祈りをささげる時、主イエスの十字架と自分が一つにされ、それと同時に、復活の光に照らし出される自分の明日を見たのではないか。そう思うのです。この礼拝においてキリスト者は十字架の主イエスと一つにされ、復活の主イエスの命に与る、その驚くべき恵みに与る祈りとして、この「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」はあったのではないかと思うのです。この祈りは、苦しみの中にある私共のために、私共に代わって、主イエスが祈られた祈りであり、それ故、この祈りは私の祈りだと言って良いのです。この叫びは、謎の言葉として何とか理解しようと考える対象としての言葉ではなく、主イエスが十字架の苦しみの中で与えてくれた祈り、どんな困難な時でも神様の前から私共が離れることがないようにと与えてくれた祈りとなるのです。そして、この祈りが私の祈りとなる時、私共は主イエスの復活の命に与る希望をも与えられることになるのです。

6.十字架を見上げ続ける
 この主イエスの言葉をとんちんかんに聞いた人がいました。35~36節「そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、『そら、エリヤを呼んでいる』と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、『待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう』と言いながら、イエスに飲ませようとした。」主イエスの言葉が分からない人がいたのです。主イエスの言葉は、自分に告げられた言葉として、自分との関わりの中で聞かなければ、何も通じないということなのでしょう。彼らは、「エリヤを呼んでいる」と言うのですから、旧約を知っている人々であったと思います。しかし、分からなかった。
 一方、主イエスを十字架につけることを自分の職務としていたローマの百人隊長。彼は間違いなく異邦人です。ユダヤの伝統から言えば、決して救われることのない人です。しかし、彼は主イエスが息を引き取るのを見て、「本当に、この人は神の子であった。」と告白するのです。この百人隊長の告白に、代々のキリスト者たちは、自分自身を重ねていたはずです。私共もそうです。神様など知らず、それ故、神様を拝むことも、祈ることも、御言葉に従うことも知らなかった私共です。その私共が、主イエスの十字架を見上げ、「本当に、この人は神の子だった。」と告白し、主イエスを礼拝しているのです。
 何故、この百人隊長は、主イエスを神の子と告白することが出来たのでしょうか。ある人は、彼はローマの百人隊長として今まで何人もの人を十字架に架けてきたが、主イエスの十字架での姿は、それとは全く違っていたからだと言います。確かに、主イエスの十字架上でのあり様は、他のどんな犯罪人とも違っていたでしょう。しかし、それがこの神の子という告白につながるでしょうか。ある人は、この百人隊長は、以前、主イエスの言葉を聞き、奇跡を見ていた。そして、この十字架上の姿を見て確信したと言います。しかし、それを示す言葉は聖書にはありません。更には、この百人隊長の言葉は異邦人の言葉なので、偉大な人という程度の意味で言ったのだと説明する人までいる。これは全くの問題外です。そんな意味で、マルコが記すはずがないのです。私は、そのようなことは聖書が告げようとしていることではないのだと思います。聖書はただ、こう告げているのです。39節「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった。』と言った。」この百人隊長は「イエスの方を向いて」いたのです。十字架の上の主イエスを見ていたのです。そして、そばに立っていたのです。彼は主イエスの十字架をそばでじっと見ていたのです。その彼が「本当に、この人は神の子だった。」と告白したと告げているのです。このことは、主イエスの十字架をはっきりときちんと見続けるならば、異邦人であろうと誰であろうと、「本当に、この人は神の子だった。」という告白に至るのだ、ということなのです。問題は、ちゃんとはっきりと見続けるかどうかなのです。
 十字架の主イエスをはっきりと見るということは、昔々イエスという人が十字架に架けられて殺されたという様に見ることではありません。そうではなくて、自分のために、自分に代わって、イエス・キリストが十字架に架けられ、6時間も苦しんで死んだということを見るということです。この百人隊長は、6時間にわたって主イエスの十字架を見上げ続けたのです。私共もそうしたら良いのです。この百人隊長は、主イエスの十字架を他人事として見上げることは出来なかったはずです。何故なら、彼が主イエスを十字架に架けて殺す、最後の責任者だったからです。自分が主イエスを殺したのです。主イエスの十字架は他人事ではありません。自分のこととして主イエスの十字架を見上げるならば、何故この方は十字架につけられて死なねばならなかったのか、私は何者なのか、私の罪とは何なのか、この方は誰なのか、色々考えざるを得ないでしょう。そうしたら、「本当に、この人は神の子だった。」と告白せざるを得なくなる。そう聖書は告げているのです。主イエスは、私のために、私に代わって、私の一切の罪の裁きをお受けになったのです。それが主イエスの十字架です。ここに神様の愛は極まりました。愛する我が子を、自分に敵対する罪人のために、代わって裁く。まことにあり得ない愛です。それが神の愛なのです。だから私共は、この神様の愛を信じ、どんなに辛いことがあっても、この神様から離れることはしないのです。苦しみの極みの中でも、私共は、「わが神、わが神」と祈り続けるのです。神様の御前から離れないのです。そして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と、主イエスと共に祈るのです。神様と深い信頼に結ばれているが故にです。

[2014年4月13日]

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